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「すまない、吉野くん。彼女はこれから俺と約束があるんだ」
先を歩いていたはずの暁史が、いつのまにかふたばを隠すように前に立ちはだかった。
ふたばの頭の中は軽くパニックだ。一体、何を言ってるんだと叫び出したいのをよく堪えたものだと思う。
「あの……花椿とですか?」
吉野は困惑した表情で、ふたばと暁史の顔を交互に見つめた。
呆然としながら口を開く吉野をよそに、暁史はふたばの腰に手を回して笑みを浮かべた。
吉野に見せつけるようにそうしていることは一目瞭然だ。手が触れている腰に神経が集中してしまう。ふわりと香水の匂いがして、自分は汗臭くはないだろうかと気になって仕方がない。
「そう。これからデートでね。行こうか、ふたば」
「吉野さん、すみません。お疲れ様です」
吉野へ釈明するよりも、暁史に文句を言いたい気持ちが大きかった。
会釈をするふたばに吉野の視線が突き刺さる。
「ああ、お疲れ様。また明日」
暁史に引き摺られるようにしてビルを出ると、大通りを走るタクシーに二人で乗り込んだ。どうしてあんなことをと聞きたかったが、タクシーの中では我慢した。
本当にわかばのことを忘れてしまったのだろうか。暁史にとっては、わかばとの恋愛などとうに忘れた過去なのだろうか。
気づいていて気づかないフリをしているのか、それとも本当に思うところは何もないのか。ハッキリしない状況に鬱屈がたまる。
「仕事、今忙しいだろう? 早く終わったのか?」
「終わってないですよ。だから、明日残業します」
「俺のために、来てくれたのか」
なぜかふわりと嬉しそうな顔を見せるから、それ以上怒れなくなってしまう。一度抱こうとした相手にはこんな顔を見せるのだと複雑な心境だ。まるで好かれているような気さえしてきて、罪悪感が芽生えてくる。
あなたに話を聞きたくて近づいた、と言えば彼はどんな顔をするだろう。驚くだろうか、怒るだろうか。
「眞鍋先生……」
暁史の目を見ずに言うと、わざとらしく切なげな声がかけられる。
「もう暁史さんと呼んでくれないのか?」
「同じ会社だなんて、しかも弁護士さんだなんて思ってなかったので」
「ふたば、何か怒ってるか?」
ツッと頬に触れられて、背筋に甘い痺れが走る。
声を上げそうになる衝撃をどうにか堪えて、暁史の手を取った。わかばに関しては一旦置いておくにしても、あれはない。
「彼は私の同僚です。明日噂にでもなったらどうするんですか?」
彼の行動が理解できない。
先を歩いていた暁史がわざわざ戻ってまで、困っているふたばを助ける意味がない。あのまま放っておいてくれても、何とでもなっただろう。
忘れ物をしたから先に帰っていて欲しいと言うなり、具合が悪いから病院に寄って帰るなり、後から考えれば断る理由はいろいろあった。
あの場で、ふたばと何らかの関係性を匂わせるような発言は、暁史自身の首を絞めることにもなり兼ねないだろうに。
何といっても暁史は、この会社の経営にも携われるほどの力を持った弁護士なのだ。一介の経理部職員などと噂になっていいことなど彼にとって一つもない。暁史のパートナーを務めていたわかばなら別だが。
「ふたばは……? 何か困ることでもあるのか? ああ、彼のことが本当は好きだとか」
ふたばの機嫌の悪さが移ったのか、暁史は眉を寄せて吉野との仲を疑ってくる。
まさか嫉妬しているわけでもあるまいに──戸惑いはますます膨らんでいく。
「何を言ってるんですか……」
「吉野って言ったか。もし今日先にあいつが誘ってきていたら、あいつとホテルに行くのか?」
タクシーの中で強く手を握られる。
焦っているように。離すまいとするように。
まさか。
そんなバカな。
「吉野さんは、ただの同僚です。変に勘繰らないでください」
嘘でしょう、と心の中で驚愕する。どうして、彼が吉野に嫉妬心を向けるのだ。
まるでふたばのことが好きみたいに。
「俺には隙を見せないくせに。あいつの前では笑ってた」
暁史は苛立ちを自分に向けるように、前髪をくしゃりとかき回した。
それは、吉野は隣の席に座る同僚だからで。明日も顔を合わせるから、変に微妙な関係になりたくないだけだ。
暁史はそんなことで嫉妬しているのか。
(あたしは……一体、何がしたいの……)
もう感情が複雑すぎて自分でもよくわからない。嫉妬されて嬉しいのか、悔しいのか、恥ずかしいのか。
「そんなに、私のことが抱きたいんですか?」
だからか、いつもなら絶対に選ばない言葉が口から継いで出ていた。気がついたら彼を挑発するように言葉を紡いでしまう。
胸が苦しい。この感情の正体に気づきたくはなかった。
ふたばを見つめる暁史の瞳は欲情に濡れていた。握られた手が熱くて堪らない。彼の体温なのか、自分自身から熱が発せられているのかわからない。
「そうだね。悔しいことに……お預けされて、君に触れたくて仕方がないよ」
「あたしには……わかりません」
暁史から信頼を得て、わかばについて話がしたかったのに、彼の手の温度に安堵しながら複雑な自身の心境をそのまま告げるしかなかった。
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