第一章

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 飲み終わったグラスについた口紅を軽く拭って、カウンターの前に置き、バーテンダーに話しかける。 「同じものを」 「かしこまりました」  バーテンダーは恭しく一礼すると、グラスを下げて、磨き上げられた新しいグラスに氷を入れた。先ほどと寸分違わない動作をジッと見つめながら、カクテルが再びテーブルに置かれるのを待つ。  その間も、別段いつもと変わった様子のないスマートフォンを手にしロックを解除すると、彼に聞こえるようにため息をついた。  そして、アメリカン・レモネードがカウンターに置かれたタイミングで、今度は意識も視線も麗しいほどの美貌を持った男へと向ける。 「お仕事帰りですか?」  甲高い声にならないように注意を払いながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。  彼は自分への言葉だとは思わなかったのだろう。細い目を見開いて顔を上げると、カウンターの向こうを見つめた。そしてゆっくりと声のした方を探すように、首が右に動き彼の真っ黒の瞳にふたばの顔が映った。 「私ですか?」  初めて彼の声を聞いた。低いながらも官能的で多くの女性たちが彼の虜になるのが嫌でもわかってしまった。 「ええ、お邪魔でしたか? つい……初めての店だったので。ご迷惑だったら申し訳ありません」  ふたばは、あからさまに誘うような目つきで男を見つめた。一人で酒を飲むことに慣れていないと口に出すと、男はフッと口元を緩めて笑った。 「いや。迷惑ではないから大丈夫。私も、女性がこの店に一人で来るのは珍しいなと思っていたところです。誰かと待ち合わせだったんですか?」  彼はカウンターに置かれたふたばのスマートフォンに視線を向けて言った。見るからに歳下だとわかるふたばに対して、彼は丁寧な言葉遣いで話してくる。  誰かに待ちぼうけを食らわされているのかと思ってくれたのだろう。それに乗らない手はなかった。 「ええ。残念です。せっかく待っていたのに、仕事で来られないみたいで。もう帰ろうかどうしようかと迷っていて」 「そうですか。なら、私と飲み直しませんか?」 「え……」 「仕事帰りの暇なサラリーマンなのでね」  彼はグラスを傾けながら、目を細めて薄っすらと笑みを浮かべながら言った。  まさかこんなに簡単にいくとは思っていなかった。何度かはこの店に通わないとならないかもしれない、そう覚悟していたのに。  安堵と同時に落胆していることに気づく。  信じたくなかったのかもしれない。彼が会ったばかりの女からの誘いに乗るだなんて、思いたくなかった。 (愛情深い人だって思ってたのにな……)  話に聞いていただけなのに、ふたばは会ったこともない彼に対して信頼を置いていたらしい。  しかし、彼のことを調べるうちに、どうやらこの手のことに相当慣れているのだと気づいた。ふたばが知る限り、彼は月に一度か二度は女性と会っていたが、同じ人を次にまた見ることはなかった。  自分から声をかけているわけではなさそうなのに、どうやって出会っているのだろう。 (まさか、この外見で出会い系サイト……はないよね)  ふたばは隣にいる彼のことを、自分が知る男だと思わないことにした。  今日初めて会った、女癖の悪い男だとでも思っておこう。慎重に事を進めなければ、ふたばが知りたい情報は得られないかもしれない。  そもそも、聞いていた話のような男ではなかった時点で、ふたばにとって彼は信頼できる男ではなくなった。 「話し相手になってくれるってことですか?」  試すようにふたばが聞けば、彼が初めて笑みを浮かべた。  唇をほんの少し上げただけなのに、酷薄な印象は消えてグンと好感度が上がる。冷たそうで怖いかもと思っていただけに、ギャップが激しい。  アルコールのせいかかすかに潤んだ目は、息を呑むほどの妖艶さ。 「ベッドの相手にもなりましょうか?」  そうか、いつもこうして女性を引っ掛けているのだなと、ふたばの中で先ほどの答えが見つかった。 「それはまたいずれ。今夜は話し相手になって欲しいです」  頬が赤らまないように気をつけて、ふたばも笑みを浮かべて彼に告げた。 (声がうわずっちゃったかも……)  まさか彼氏の一人もいたことのない自分が男性から〝ベッドの相手に〟などと言われる日が来るとは。  キスだってしたことがないのに、知識ばかりが増えた頭の中には、卑猥な想像が浮かび、恥ずかしさで居ても立っても居られなくなる。顔色を変えないように必死だった。 「では、私の知ってる店でどうですか? ここも混んできたし、もう少し落ち着けるところがいいでしょう」  彼の誘い方は慣れていてスマートだった。口調は優しげで穏やかなのに、有無を言わせない迫力がある。きっと、ふたばがこの店でといえば通るだろうが、彼との出会いを一度だけで終わらせないためには誘いに乗るしかない。  どうしても彼に聞きたいことがあった。  そのために、彼が信用に足る人間か自分の目で判断したかったのだ。 「わかりました……名前を聞いても?」 「私は、眞鍋(まなべ)暁史(あきふみ)。君は?」 「ふたば……です。名字は変わっていて、恥ずかしいので」  ふたばが告げると、名前に意味を成さないことを知っている男はさして気にもせず「そうですか」とだけ言った。きっと、ふたばが偽名だろうが本名だろうが、どちらでもいいのだろう。  そして彼はふたばが化粧室に行っている間に、二人分の会計も済ませてしまっていた。  行きましょうか、そう言って腰を支えてくる男は、一五五センチのふたばより頭一つ分は身長が高い。穏やかに笑っていなければ反社会勢力の人間だと言われても頷けてしまうほどに迫力があった。  途端に、隣に立つ男が男性であると意識してしまい、ふたばは肩を強張らせる。  背が高くて、結構筋肉質なんだよ──そんな風に話は聞いていたのに、実際間近に見ると息を呑むほどの迫力に怖気づいてしまいそうになる。 (やっと近づけたんだから……)  ふたばは、ギュッと拳を握りしめると、無理やりに笑顔を浮かべて半歩、男の後ろに立った。  店を出て大通りにでると、駅の方角へと向かう暁史の後を追いながら聞いた。 「あ、お会計……いくらでしたか?」  暁史に奢られる謂れはないし、下手に借りを作るのも嫌だった。  自分が飲んだ分ぐらいは払いたい。 「ああ、いくらだったかな? 現金を普段持ち歩かないからわからないんだ。申し訳ない」  カードで支払ってしまったから、金は要らないと暁史は言った。料金表もなかったため、カクテル一杯が幾らくらいするのか、ふたばには見当もつかない。 「ごちそうさまでした」  素直に礼を口にすると、意外そうな顔で彼が目を見張った。礼も言えない女だと思われていたのだろうか。 「いや。それより、足元がふらついてるから掴まってほしい。そう遠くないんだが、タクシーで行こう。足痛いだろう?」  腕を差し出しながら、暁史は先ほどよりも砕けた口調で告げた。どうして駅へ向かっているのかと疑問に思っていたが、タクシー待ちに並ぶ姿を見て納得がいった。 (まさか、気づいてるなんて思わなかった)  実は履きなれないヒールに靴擦れを起こし、実は飲んでいる間中ずっと足先にパンプスを引っ掛けている状態だった。  カウンターの下だし見えていないと思っていたのに。  普段仕事に行くときはパンプスだが、社外の人間と会うこともない職種のため、社内では楽なサンダルに履き替えている。  今日は仕事帰りにそのまま時間を潰し、暁史が来るのを駅近くで立ったまま待っていたため足が悲鳴をあげていた。 「よくわかりましたね」  こういった優しさがあったら、さぞかし女性からモテるだろう。彼に何の感情も抱いていないふたばですら、胸がザワザワして落ち着かなくなる。 「ああ。女性は大変だね。体重かけていいから掴まって」  遠慮なく腕に掴まらせてもらうと、ふたばの身体を支えるように彼の腕が腰に回る。アルコールの匂いに混じって、高級そうなフレグランスの香りが鼻を掠めた。  タクシーはそう待つこともなくやってきた。後部座席に乗り込むと、暁史が数百メートルの距離にあるホテルの名前を告げる。 「近くて済まない」  暁史は運転手にそう告げて、万札を財布から取り出し「釣りは要らないから」と手渡した。 (現金は持ってないって言ってたのに……)  ふたばが金を払うのを断るためにそう言ったのだとわかってはいた。  姉であるわかばが彼を形容する時に言っていた〝かっこよくて尊敬できる〟という言葉をふたばも実感することになるとは。これで女性にだらしない一面さえなければ、もっとよかったのに。  顔がよくて、エリートで、性格もいいだけでも出来過ぎなのかもしれない。人間一つくらい欠点はあるものだ。  そして、信号に引っかかることもなく数分も経たずについたホテルは、ふたばでも知っている格式高い三つ星高級ホテル『赤坂ロイヤルタワーホテル』だった。
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