第二章

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第二章

 暁史が視線を感じるのはいつものことだ。  自分が他人からどういう目で見られるかはよくわかっている。美形と言われるこの顔で得をすることもあれば損をすることもある。  赤坂駅からほど近い場所にある仕事場から、少し離れた場所にあるバー『night’s』は、暁史の行きつけだ。  ここは、客の年齢層が高く店内は静かで落ち着ける。週に二度はこの場所に足を運び、一人の時間を過ごすのが暁史の何年にも渡る習慣だった。  しかし、今日に限ってはいつもと違っていた。店について三十分もたたない頃、珍しく若い女性が店に入ってきた。  およそ、落ち着いたこの店にはふさわしくない華やかさで、耳についたゴールドの安っぽいイヤリングにセットで買ったのだろう、同じデザインのネックレス。  それに、いつの時代かと突っ込みたくなるような内巻きヘアをしている。思わず笑いが漏れそうになったが、女性の外見を笑うのはさすがに失礼かと堪えた。  しかも、素材は悪くはないのに、格好や仕草がちぐはぐで似つかわしくない。  目の上を真っ黒に縁取るマスカラを取って、真っ赤な口紅を落とし、内巻きにされた髪を真っ直ぐに整えてみたら、相当美人なのではないだろうか。 (いや……美人ってより可愛いタイプだな)  女性を一瞥し、視線をカウンター内に戻す。暇つぶしに人間観察はちょうどいいが、あまり視線を向けて気があると思われるのも面倒だ。  自分から女性に話しかけるつもりは毛頭なく、その日も二杯ほど酒を飲んでホテルへ帰るはずだった。  けれど、女性から会話を振られたことで暁史の予定は崩れてしまう。  正直、またかとうんざりした気分だった。こんなことなら彼女を見なければよかったと後悔したが、彼女に視線を向けた瞬間気が変わった。 (どうして……こんなに嫌そうな顔で誘ってくるんだ……?)  暁史を見てくる女性たちは、大抵うっとりと頬を染めて、身体を預けてくる。それはもうあからさまなほどに。  ふたばと名乗った女性は、口では誘い文句を告げてくるくせに、全身から暁史を警戒する様子が伝わってきた。彼女の誘いに乗ったら、一体どうなるのだろう──というちょっとした好奇心もあったのかもしれない。  隠しきれない緊張が滲みでているのに、言葉ばかりが大人ぶっている。  妖艶な笑みを浮かべて誘っておきながら、ベッドにと誘ってみると、途端に全身を強張らせてしまった。彼女の行動には、暁史の周りに寄ってくる遊び慣れた女の匂いはまったく感じなかった。  もしここで暁史がいつものごとく断れば、別の男に声をかけるつもりなのだろうか。  そう思うと、何故か胸の奥から苛立ちが芽生えた。  自分から声をかけているのだから、誰と遊ぼうが自由だとは思うが、悪い男に食い物にされて傷つくのが目に見えてわかり、放っては置けなかったのだ。  「ここ、ですか?」  そびえ立つ高い建物を見上げて、ふたばが呆然と呟いた。  戸惑うような視線を向けてくる。その仕草が濃い化粧をしているにもかかわらずあどけなくて、暁史は吸い寄せられるように彼女の表情に魅入ってしまう。  バーからそう遠くない場所にある『赤坂ロイヤルタワーホテル』は、暁史の現在の住まいでもある。  一年半前、仕事で面倒なことに巻き込まれ、住んでいたマンションを手放す羽目になったからだ。  住んでみればホテル住まいも悪くはない。それどころか楽だった。掃除や洗濯を自分でする必要はないし、いつでも食べたい時間にルームサービスを受けられる。  最上階に近いエグゼクティブルームを長期間借りているが、もともと父のせいで引っ越しを余儀なくされたため、迷惑料として請求書はすべて実家へと送りつけていた。  本当は早々に別の部屋を探す予定だったのだが、仕事が忙しく面倒でホテル暮らしを続けていたらあっという間に一年半経っていた。文句を言ってこないということは、まだまだ面倒を押しつけてくるつもりなのだろう。 (そろそろ……縁を切りたいんだがな)  暁史にとって住まいなど寝られればどこでもよかった。  しかし、そう言えるのは、自分が幼少期から何の苦労もせず育てられたからだという自覚もある。  欲しいと思って手に入らない物など何もなかった。だから大抵のことは、どうでもいいと思ってしまう。その反面、手に入れるのが難しい物に対しての執着心は他人以上にあった。  手に入らないこそ、余計に欲しくなるのかもしれない。 「ここの最上階にスカイラウンジがあるんだ。もし、食事がまだならどうかと思って。その店で働いているシェフがコンクールで優勝経験のある人物で、ビーフシチューが絶品でね。嫌いじゃなかったら食べてみて」  暁史はふたばに腕を差し出しながら告げた。しかし、足が痛いはずの彼女は、暁史の腕に掴まってくることはなく肩透かしを食らう。 「あ、はい……好きです」  ふたばがキョトンと目を開けて、表情を和らげた。強張らせていた身体から力が抜けて安堵している様子が見て取れる。  彼女は、このまま、ホテルの部屋に連れ込まれるのではないかと恐れていたのだろう。  しかし、すぐに唇を引き結び硬い顔に戻ってしまう。  まるで素顔を見せることを躊躇っているように。 (素顔の方が、絶対可愛いだろうに……)  自分の金目当てで近づいてくる女は今までも散々いたし、彼女がそうでないとは言い切れない。  けれど、何故か、暴いてみたくなるのだ。心の中を見せて欲しくなる。どうして暁史に声をかけてきたのかはわからないが、もしも部屋にと誘ってついてくるようなら遠慮はしない、そういう下心は少なからずあった。  エレベーターで肩が触れ合う距離に立つと、彼女はそっと暁史と触れ合わないように離れた。  あからさまな誘い方をしていた割には、やはり彼女にそういうつもりはないと悟った。  暁史としては、多少残念な思いはあれど、女性を無理やりどうこうするつもりはまったくないし、それほど相手に困ってはいない。  しかし、この細い身体を抱いてみたいと思ったのは確かだった。 「ここですか?」 「ああ。どうぞ」  ホテル内にあるスカイラウンジはほとんどの席が客で埋まっていた。価格が高くとも料理と夜景の素晴らしさに、デートスポットとして重宝されているらしい。  一面がガラス張りになっており、すべての席から壮大な景色を見られるよう窓の方向を向いてソファーが配置されていた。  週末には店の中央に置かれたグランドピアノでジャズピアニストによる演奏が聴けるのだが、今日はジャズのレコードが流れているだけだ。  仕事が早く終わった日は『night’s』で酒を飲みながらつまみを食べて済ますか、ここで食事をするかで、暁史の行動範囲はそう広くない。  ただ、仕事柄様々な場所へ赴かねばならず、水商売関係の派手な女性が一緒にいることも多い。知り合いに会うと必ず「この間も別な女連れてただろ」なんて言われてしまうものだから、できれば場所はこちらが指定したいところなのだが仕事では仕方がない。 (派手な女性って言っても……彼女みたいな感じならいいんだがな……)  ふと隣にいるふたばに視線をやると、彼女は子どものように目を輝かせて窓から覗く東京の夜景を食い入るように見つめていた。  笑ってはいなかったけれど、作り物めいた煌びやかな夜景にわかりやすく感動してくれているのは、見ていて微笑ましい。 「すごい……」  ボソリと小さく呟かれた言葉は、思わず出てしまった独り言のようだった。 「気に入っていただけたようでよかった」  暁史が声をかけると、ふたばは我に返ったように瞬きを二、三度しキュッと唇を引き結んだ。やはり彼女にとっては見られたくない顔であったらしい。  スタッフに案内されて奥まった席に座ると、ふたばは緊張を隠すように夜景にばかり目をやった。どうしていいかわからない、そんな風に見える。 「ふたばは、酒は苦手?」  丁寧な言葉遣いをやめたのは、彼女を見下しているからではない。ただ、少しでも強張った肩の力を抜いてくれれば、そう思っただけだ。  膝の上で組まれた両手がピクリと震えた。どうやらそれも指摘されたくないことであったのか、ぎこちない笑みを浮かべながら一つ一つ言葉を選ぶようにふたばが口を開く。 「恥ずかしいんですけど……あまり飲めなくて」 「別に恥ずかしいことじゃない。男性でも下戸はいるし。じゃあ飲み物は紅茶がいいか」 「えっ?」 「美味しくない酒を無理に飲む必要はないし、ほらさっき言っただろう? コンクールで優勝したシェフが働いていると。ビーフシチューの後、ケーキを頼もう。紅茶はアイス? ホット?」 「あ、じゃあホットでお願いします」  暁史は近くに待機していたスタッフに声をかけると、ビーフシチューとデザートをオーダーし、自分の分の酒を頼んだ。 「眞鍋さんは……」 「下の名前で。公私わけたいタイプなんだ」 「じゃあ、暁史さん……でいいですか?」  話せば話すほど、見た目と中身が伴っていないように感じる。外見は派手だが夜の仕事をしているわけではないだろう。  けれど彼女には化粧では隠しきれない色香があった。どことなく男を誘うような甘い顔立ちをしているからか。 「もちろん。で、何かな?」  おずおずと暁史を窺うように名前を口に出す様が愛らしい。  やはり中身は相当ウブなのだろう。彼女がどうしてこんな出で立ちをしているのか聞いてみたくなる。 「あ、いえ……モテそうだな、と。どうして、今日誘われてくれたんですか?」  ふたばはそう言って妖艶な目を向けてくる。  先ほどまでの愛らしさは鳴りを潜めて、女としての顔を覗かせていた。  暁史が勝手にそう思っているだけかもしれないが、この手の誘いには慣れている暁史からしても、今のふたばには誘われているようにしか思えない。  彼女の真っ赤な唇が誘うように開くたびにむしゃぶりつきたくなる。 (最近してないからな……溜まってるか)  彼女に気づかれないよう喉を鳴らして、質問の意図を探る。 「今は、とくに決まった相手がいないからな」  それは本当のことだ。  特定の相手を作るのは面倒だ。遊びすらしばらくしてはいない。忙しいのも理由にあるが、目の色を変えて隣に立ちたがる女性たちにもう辟易していた。このまま一人で生きていくのもいいかとすら思ってしまう。 「決まった女性がいたら、誘われないんですか?」 「そうだな。意外と一途なんでね。あまりそう見られないが」  一途に想えるような相手がいればの話だ。三十代にもなれば何人かの女性と付きあったことはある。  しかし、互いに想い合えるような相手はいなかった。仕事が忙しく会えないと途端に束縛し始めたり、本当に仕事なのかと後をつけられたりもした。  仕事相手が〝水商売風の女性〟であった時、浮気だと罵られそこからは修羅場だ。打ち合わせ場所がビジネスホテルだったことも誤解した理由にはなるだろう。  聞いてくれれば言えないことはあれどきちんと説明するのに、今まで付きあった相手は皆勝手に別れを選ぶか、怒るかだ。  そこで離れていく相手を追いかけないから、余計に火に油を注ぐ結果になるのだが「俺が悪かった」「あの人は仕事の相手なんだ」と、彼女たちのご機嫌取りをする気にはどうしてもなれなかったのだ。 「たしかに、一途には見えないです。遊びは嫌なタイプですか?」  ツッとふたばの肘先が隣に座る暁史の太ももに触れた。それだけで下肢に覚えのある熱が帯びて、この場がホテルの部屋でないことを悔やむ。  私と遊んで──そう言っているとしか思えない。  先ほどエレベーターの中で距離を取ってきた出来事が嘘のように、彼女は暁史に身体を寄せてきた。  けれど、胸が触れるギリギリのところで動きは止まった。男心で柔らかそうな乳房に触れてみたい思いに駆られるのは、致し方ないだろう。 「遊び、ね。まぁ、でも、好きになった相手には多分執着するタイプだな。今まで執着できる女性は一人もいなかったが」  暁史が言うと、ふたばは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして見つめてくる。本当のことを言っているかと見定めているようだ。  仕事上、法に触れるような真似はできない。  弁護士という職業柄、自分が訴えられるような行いはしないよう気をつけている。  それなのに、彼女を部屋に連れ込みたいという衝動に駆られる。 (これは……相当溜まってるか……)  やりたくて仕方がないなんて、中学生でもあるまいし。いい年した男の考えだとは思えない。ちょうど、テーブルにビーフシチューとケーキが運ばれてきたことで会話はなくなった。
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