第五章

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第五章

 ホテルを出たふたばは、近くにある公園のトイレに駆け込むと水道で口をゆすいだ。  口の中にねっとりと絡みつく精はひどく不快で、今考えてもよく飲み干せたものだと思う。  脳裏に感じている暁史の顔が浮かび、身体の中心がジンと熱くなるような感覚が走る。自分も熱に浮かされているのは、雰囲気に飲まれたからだろう。  イヤリングとネックレスを外し、鞄に入れる。化粧はホテルで落とされてしまったため、クレンジングシートを持ってはいたけれど使う必要はなかった。  内巻きにした髪はこのまま帰るしかない。水道で手を濡らし髪を梳くが、これは洗わなければ元どおりにはならないだろう。  トイレの鏡には、いつもと変わらない二十二歳の自分の姿がある。チワワを思わせる丸い目に小ぶりの鼻、太っているわけではないが頬がふっくらしているため童顔に見えるのだ。 (あの人……どうしてあたしの化粧なんて取ったんだろ……)  変な人だった。目的があって近づいたのはこちらだったが、まさか彼があんな行動に出るとは思ってもみなかった。 (化粧がよっぽど似合ってなかったとか……?)  いくら考えても答えはでない。  ふたばはトイレから出ると、駅前にあるタクシー待ちの列に並んだ。  まだ終電は出ていない時間であったが、全身が重く今すぐベッドにダイブしたいほどだった。タクシー代はいくらになるかと考えると痛い出費だが、今夜ばかりは仕方がない。  湿度を含んだ夜の風はとても涼しいとは言えず、脇や胸元が汗ばんでくる。ふわりと立ち上る自身の体臭から、かすかに男の精の匂いがするような気がして意味もなくパタパタとスカートを煽った。  週末の夜ということもあり、タクシーは次から次へとやってきて、客を乗せていく。ふたばもそう待つこともなく、何台めかのタクシーに乗り込んで行き先を告げた。  煌びやかな夜の街並みを眺めることなく、目を瞑る。疲れてはいるが眠いわけではない。むしろ頭の中は冴えていて、今日の出来事に興奮さえしている。  どうして逃げ出してしまったのだろう。聞くなら、あの時しかなかったのに。  せっかくの待ち望んでいたチャンスをふいにしてしまった。  いつのまにか目的地に着いていて、運転手に三千円を支払い車を降りた。静かな住宅街に佇む、電気の消えた二階建ての一軒家が、ふたばの住まいだ。  音を立てないようにドアをそっと開けて、玄関に足を踏み入れた。  鍵をかけて室内に耳をすませると、二階からかすかに物音が聞こえてくる。 (お姉ちゃん……まだ、起きてたんだ)  ただいまと言いに行こうかと思ったが、自分の身体に残る淫靡な気配を消したくて、先にシャワーを浴びた。部屋着に着替えて二階へ上がり、姉、わかばの部屋をノックする。 「お姉ちゃん。あたし……ただいま」 「おかえり」  中から声は聞こえるものの、部屋のドアが開けられることはなかった。  いつものことだが、前にわかばの顔を見たのはもう二週間も前になる。キッチンは綺麗に片づけられていた。ふたばが作った食事は食べたようだ。 (これでも……二年前に比べたら、よくなった)  ふたばが大学三年生の夏だったと思う。  わかばが部屋に引きこもったのは、何の前触れもなく、本当に突然の出来事だった。  ある日仕事を辞めたと言って帰ってきてから、急に自分の世界に入り込むようになってしまったのだ。  何があったのかと聞いても、わかばは「なんでもない」と言うばかりで話にならなかった。  あまりにふたばが執拗に聞いたせいで余計に追い詰められてしまっていたと気づいた時には、わかばは部屋から一歩も出てこなくなった。  しばらくそっとしておいた方がいいかもしれない。  そう決めて部屋の前に食事だけ置いておくことにした。けれど、翌日になっても用意した食事に手はつけられていなかった。  二日が過ぎて、さすがに何も口にしていないことに心配が募り、姉の部屋をノックするも返答はない。  食事をすることも、水分を取ることさえしない。  生きることに興味がなくなったみたいに。  ゾッとした。両親が亡くなり、もし姉をも失ってしまったら──。  自分勝手に、一人にしないでとドアの前で泣き叫んでいた覚えがある。 「お姉ちゃん、お願い」「ご飯食べて」「いなくなったら嫌だよ」そんなセリフを繰り返しドアの前で口にした。  どんなに鍵のかかった部屋をノックし声をかけても、中からは返事がなかった。誰も彼もを拒絶し、世界から隔離されているように姉はたった独りきりで部屋に閉じこもった。  三日目、中から何の音も聞こえなくなり、救急車を呼んだ。ついには限界がきたらしく、わかばは脱水症状で意識を失っていた。  それからの毎日は姉を生かすことに必死になった。  原因を探るどころではなかったのだ。  しばらく入院したのが幸いしたのか、家に戻ってきた時には、いくらか顔色がよくなっていた。  しかし、それまでは部屋が片付いていないと気になると言って、ふたばに片付けなさいと口すっぱく言うようなタイプだったのに、自分の部屋さえも掃除をしなくなった。  もうふたばは、何も聞かなかった。何も言わなかった。  わかばをこれ以上追い詰めることはできなかったからだ。 (生きていてくれさえすればいい……)  たとえ働けなかったとしても、少しずつ元の生活を取り戻して欲しかった。だから、返ってこないとわかっていても、ドアの向こうに話しかけ続けた。  わかばがトイレや風呂を使うのは、ふたばが買い物や大学に行っている間だ。ふたばがリビングにいるときは、絶対に部屋から出てはこなかった。  さすがにそれが何日も続けば偶然ではない、と気づく。ふたばには言えない、聞かれたくない何かがあるのだ。  しかし不思議と〝嫌われた〟とは思わなかった。それだけは絶対にあり得ないと今でも思っている。  どれだけわかばが愛情深く、十も離れているふたばを育ててくれていたか、過ごしてきた時間はまやかしではない。  だからふたばは、なるべく普通に過ごした。家事をしながら大学に行き、土日はなるべく外に出かけてわかばが家で一人になれる時間を必ず作った。  わかばが働きながら貯めた金と、両親が残してくれた金を切り崩しながら慎ましい生活を送った。先の見えない不安は常にあったものの、わかばに対して不安な思いは口にしなかった。ずっとわかばがそうしてくれていたように。  一年以上かかったが、徐々にわかばの症状は落ち着いてきた。徐々に顔を合わせる頻度も増えてきた。  薬の服用を勧められたが、とても病院に連れて行ける状態ではなかったため、自分のやり方が正しかったか今となってはわからない。  ただ、落ち着いてくると、次から次へと疑問ばかりが頭に浮かんでくる。今まで後回しにしてきた「わかばが部屋から出られなくなった理由」が気になって仕方がなかった。  わかばが働いていた事務所──M&Bネクサス法律事務所は、企業法務を中心に請け負う弁護士事務所だ。姉は、パラリーガルとして弁護士である眞鍋暁史のサポートをしていたのだ。 「眞鍋先生ってね。こだわりが強いみたいで、銀縁の同じ眼鏡五本持ってるんだって! 変わってるよね~」  そんな風に、毎日仕事から帰ると楽しげに暁史のことを話していた。  わかばは言わなかったが、二人が恋愛感情を持って付きあっていたことは明白だった。働き始めてから、暁史の名を聞かなかった日はない。  尊敬とも憧憬ともつかぬ眼差しをしながら暁史のことを話すわかばは、毎日が楽しそうだった。  会ったことはなくとも、姉の話だけで眞鍋暁史という人物を尊敬できてしまうほどには、ふたばも彼のことを信頼したのである。  それほどわかばの話は暁史のことばかりで、さっさと結婚してしまえばいいのに、と思ったのは一度や二度ではない。しかし、二人は同い年で大人同士の付き合いだ。ふたばが茶化していいようなことではないと、いずれいい報告が聞けると楽しみにしていたのだ。  話に聞く暁史が〝義兄〟になるのだと、自分勝手に夢描いていた。 (それが急にあんな風になるなんて……)  どうして急に仕事を辞めることになったのか。  どうして家から出られなくなったのか。  何かを知っているとしたら暁史しかいないような気がしていた。けれど、話には聞いていたものの、ふたばは暁史と顔を合わせたことがなかった。  万が一、わかばの状態が、暁史には何の関係もなかった時、自分ならば好きな人にだけは知られたくないと思うかもしれない。  わかばの状態が少しずつ落ち着きを取り戻していることもあり、ふたばは思い切ってわかばに聞いてみることにした。なるべく重くならないように聞けば大丈夫だろうと思ったのだ。  だから、わかばが想いを寄せていた〝眞鍋先生〟を頼ってみないかと持ちかけたふたばに、殴りかからんばかりに姉が拒絶反応を示した時は心底驚いた。  暁史の名前を出した途端わかばは身体を震わせて「お願い、やめて」とだけ口にした。それきりまた部屋に閉じこもってしまい、同じ家に住んでいるのに三週間は顔を合わせなかった。 (あれほど怖がるなんて……一体、お姉ちゃんに何をしたのっ⁉︎)  信じていた人に裏切られた気分だった。  わかばが家に引きこもった原因に彼が関わっているのは間違いない。  仕事にも行けず、外にも出られず、死にたくなるような何かがあったのだ。もう、今現在も二人が付きあっているとは到底思えなかった。  どんな手酷い扱いをすれば、人がこれほどに壊れてしまうのか、ふたばには想像もつかない。  男女のことだ。性格の不一致、価値観の相違、別れる原因は様々だろうが、振られた程度のことでわかばが家から出られなくなるほど傷を負うとは考えられなかったし、わかばから聞いていた暁史像は、女性に心の傷を負わせるような男ではなかった。 (でも……あたしが勝手にいいように想像してただけかもしれない)  姉に何があったのかを調べなければ。 (お姉ちゃんは必死に働いてあたしを育ててくれた……だから、今度はあたしが助けるから)  自分がやってみて初めてわかる大変さ。朝、姉の分の朝食、昼食、夕食を作り、洗濯をする。掃除までは手が回らず週に一、二度になってしまっている。  たまに〝どうしてあたしがこんなことを〟〝ずっと家にいるくせに〟そう叫びだしたくなる時がある。けれど、いつも思い出すのはわかばの笑顔だった。  まるで母親のような姉に、自分は妹だからと甘え切っていた。  お姉ちゃんなんだからやって当たり前と、大学に入る以前は家事をしたことはなかった。わかばは「ふたばは何も気にしないで友達と遊んだりしなさい」そう言ってくれていたから。  どうしてわかばがそう言ったのか、ふたばにもやっとわかる。  両親が亡くなったのはわかばが二十二歳の時。それまでは当たり前にあった生活をふたばにもさせてあげたいと、そう思ってくれたのだろう。  きっと、今のふたばと同じように、どうして自分がと叫び出したい時もあっただろう。けれど、一度もわかばが弱音を吐いたことはなかった。いつも毅然としていて、両親がいないことで卑屈になることもなく愛情を注いでくれた。 (だから……お姉ちゃんはちゃんと幸せになる権利がある)  幸せになるべきだ。 「大丈夫。絶対、お姉ちゃんは幸せになる」  自分に言い聞かせるように呟いた。
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