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第三章
バクバクと暁史にも聞こえてしまいそうなほど大きく、心臓が音を立てる。
自らがこの展開を望んでいたはずなのに、この後起こることを考えると足が竦みそうになってしまう。
(落ち着かないと……相手に飲まれちゃだめ……)
スカイラウンジを出ると、ふたばは胸に手を当てて、前を歩く暁史に気づかれないよう息を吐き切る。
多分彼は、気まぐれにふたばに誘いをかけただけだ。
立っているだけで目を惹く男は、もし今夜ふたばが拒絶したとしても何ら困ることはない。女性に困っているようには見えないし、遊びに慣れたタイプであるような気がしていた。
だから、無理やり押し倒されることはないはずだ、と自らを奮い立たせる。きっと、暁史も弁護士という仕事柄、犯罪になるような事態は避けたいところだろう。
暁史は、先ほどまでいたスカイラウンジから一つ下のフロアに降りた。廊下に出ると、部屋数はそう多くないのか、左右に二部屋ずつ計四部屋があるようだ。
(いつの間に……部屋取ってたの?)
もしかして嵌められた──彼は最初からこういうつもりだったのではないかと、ますます警戒心が高まるが、ホテルに入った時にチェックインしていた様子はなかったし、彼はカードキーの部屋ナンバーを見ることなく廊下を歩いている。もしかしたら元々泊まっていた部屋なのかもしれない。
それに、廊下に出ても、暁史は強引にふたばの手を引くような真似はしなかった。きっと、嫌だと告げれば、帰っていいと言われるだろう。
けれど、ふたばは何としてでも彼に聞かなければならないことがあった。姉からはよく〝見切り発車で猪突猛進だ〟と揶揄されるが、そうでもしなければこの男に近づくことは不可能だった。
「どうぞ」
エレベーターホールから右へと歩き、一番奥の部屋のドアが開けられた。
暁史はいちいちレディーファーストを心がけているのだろうか。ドアを開けられて先に通されると、ふたばが今まで見たこともない世界が広がっていた。
(廊下……?)
ドアを開けた目の前にはさらに左右に分かれた廊下があり、目の前には曇りガラスのドアがある。一体ここは何のスペースなのだろうと疑問を感じるが、左右に分かれた先にもまたドアがあるのがわかった。
その場に立ちすくむふたばに説明するように、暁史が口を開いた。
「左側のドアが寝室。右側のドアがゲスト用の寝室。目の前のドアがリビングルームだ。で、寝室に連れていってもいいか?」
暁史はすっかり取り繕うことをやめたようだ。
丁寧な口調が抜けているし、ふたばの覚悟を試すようなことも口にする。
もう、ここまできたら進むしかない。
ふたばはキュッと唇を噛むと、拳を握りしめて左側の廊下の先にあるドアを見つめた。
「おいで」
手を差し出されて、彼の手を取るかを迷っていると、拒絶できる程度の力で腰に腕が回された。無理強いはしたくないがその気だという彼の意思表示なのかもしれない。
ふたばは足を進めて、開けられた左側のドアに入った。
ベッドが置いてあるだけかと思っていた主寝室は、応接セットに壁掛けのテレビ、ソファーなどもあり、この部屋だけでも三十畳はありそうだ。
(スイートルームってやつ……?)
スイートルームが一体いくらくらいで泊まれるものなのかふたばにはわからない。
弁護士である彼の給料は安くないだろう。しかし、少なくとも一泊数十万は下らない部屋に簡単に泊まれるほどなのだろうか。
豪華絢爛とした内装に立ち竦んでいると、ポンと背中が軽く叩かれて「ベッドに座ってて」と告げられる。
言われるがままベッドに腰掛けて暁史の後ろ姿を目で追った。彼は別の部屋のドアを開けて、数十秒も経たずに何かを手に持って戻ってきた。
「なんですか……それ」
濡らされたキッチンペーパーのような物を手に持った暁史に、途端に警戒心が芽生える。一体何をされるのかと身を強張らせていると、予想外の言葉が暁史の口から漏れた。
「クレンジングシート」
「えっ? どうし……っ」
これから話を切り出そうと思っていたふたばは呆気に取られてしまう。思わず立ち上がろうとすると腕を取られて、太もも同士が触れ合うほど近くに座る。
「ちょっと黙って。目瞑って」
濡れたクレンジングシートを唇に当てられて、優しい手つきで擦られる。頬をピンクに染めるチークに、真っ赤な口紅が落とされていく。
アイメイクさえも落とされてしまい、あどけないまだ二十二歳のふたばの素の表情があらわになった。
「あの……なにを?」
「キスしたくなったから。やっぱり君は化粧しなくても十分に綺麗だ」
身体中の血液が沸き上がるかのように頬が熱くなる。
暁史は自分に自信があるんだろう。だから、こんなくさいとも言えるセリフがすらすらと出てくるのだ。
ベッド脇に置いてあるゴミ箱へとクレンジングシートが捨てられて、暁史の手で顎が持ち上げられた。銀縁の眼鏡を外し、キスされると身構える間もなく端正な顔が近づいてくる。
軽く伏せられた切れ長の目を縁取るまつ毛は、かなり長い。息を呑むほど綺麗な男だと、こんな時なのに見惚れてしまう。
「ふ……っ、ん」
初めてのキスは、かすかに酒の匂いがした。
目をギュッと瞑ると、宥めるように軽く下唇が啄ばまれる。大丈夫だ、怖くないと言われているようだ。
誘われるままに着いてきたし、彼が部屋に誘ってきた理由もわかっているが、ふたばは彼に抱かれるつもりは毛頭ない。
ただ、部屋での方が誰に聞かれることもなく、ゆっくり話ができると思ったのだ。
それなのに、唇が重なって、熱い舌が口腔内に差し挿れられると、頭の中が朦朧として拒絶することができなくなる。
流されてはダメだと自分に言い聞かせながらも、本能のままに流されたいと思う自分もいる。彼に対して恋心を抱いているわけではない。
けれど、彼の熱を持った唇が心地よくて堪らなかった。
「はぁっ……ん、ん」
「可愛いな、その声」
「待って……っ、あ」
耳元で囁かれる暁史の声に、甘い官能めいた声が漏れてしまう。
男性に慣れていない自分など、暁史からしたら簡単に落とせるような相手なのだろう。けれど、果たさなければならない目的がある。そのために近づいた。
今までは話にしか聞いたことがなかった彼に、ようやく会えたのだから。
「おねが……っ、ん、あっ」
身体を後ろに押されて、気づいた時には彼の身体が真上にあった。体重をかけないようにしてくれているのか重くはなかったが、筋肉質の太い両腕に閉じ込められて、また唇が塞がれた。
「ふっ、う……んっ」
クチュっと唾液が絡まる濡れ音が響く。ふたばの舌をすくい取るように彼の舌が動く。ヌルリと口腔で動かされるたびに、息が上がっていく。
(こんなの……ダメなのに……っ)
やはり部屋についてくるんじゃなかった──なんて、そんなことを考えてももう遅い。自分で決めて、自分から誘ったようなものだ。ただ、彼は絶対に強引にはしてこないはずだと甘い考えがあった。
いや、きっと今も強引ではないのだろう。ふたばが拒絶を見せれば、きっとすぐに上から退くはずだ。
では、どうしてそうしないのか。嫌だ、やめてと言えばいいのに。
怖いのかもしれない。ふたばに対して、劣情を抱く彼から話を聞くのが。
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