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3.転機のはじまり
耳元で懐かしい曲が流れて私は目を開けた。私はスマホに手を伸ばしてアラームを止める。
まぶたが糊をくっつけたように貼り付いていてなかなか開けることができない。どうやら夢を見ながら泣いていたようだ。私は指先で軽く目をこする。
小学校に上がるころには『都』と『尚子』が登場する夢を見ていたような気がする。
それでも幼いころは年に数回見る程度だった。夢の内容も断片的で、ただやけに印象深い夢だなと思うくらいだった。
中学に上がるころから夢の内容を理解できるようになってきた。それでもまだお気に入りの映画を少しずつ見ているような感覚で面白いとさえ思っていた。
高校生になって、それがただの夢ではないという気がしてきた。
『都』と『尚子』が実際に存在していたという実感があった。繰り返し夢の中で『都』として生きたことで、私がかつて『都』だったことを確信していた。
人に話せば笑い飛ばされるかもしれないけれど、私は生まれる前、つまり前世で『都』だった。そう確信すると夢を見る頻度はさらに高くなった。
夢の中の記憶を辿って『山野辺都』と『古河尚子』を探そうと思ったこともある。だけど結局怖くて実行できなかった。
『山野辺都』は既に他界しているが、『古河尚子』はまだ生きている可能性があるからだ。記憶を元に計算をしてみたところ、生きていれば今は九十歳くらいだと思う。
探してみようかと最初に思い立ったのは高校生の頃だから、きっと六十歳前後だったはずだ。それならば存命の可能性は今よりももっと高かったと思う。だからこそ怖くて探すことができなかった。
私が『ナオ』に会ったとき、どうなってしまうか予測できなかったからだ。『ナオ』が幸せに暮らしていたとしても、逆に苦しんでいたとしても、私は取り乱してしまうような気がした。
それは『ナオ』も同じだと思った。生まれ変わって『ナオ』よりもずっと若くなった私を見たら、きっと穏やかな気持ちではいられないだろう。
かつての恋人がこの世のどこかで生きているかもしれない。前世の記憶を確信してから、私はその気配を探すようにして生きてきた。
『都』が私の前世だとわかってから、『都』のことをそれまでよりもずっと身近に感じるようになった。だけど決して同一ではないとも感じている。
それでも私の思考や言動は大いに『都』の影響を受けていた。
今世でも私は同性を好きになる。同性に好意を寄せることに違和感はなかったけれど、『都』が『尚子』に対して抱いた気持ちの残滓なのではないかと思うと、なかなか行動に踏み切れなかった。
『都』は『尚子』を残して死んだことを心から悔やんでいた。だから私は恋人を作ることができなかった。また恋人を残して先立ってしまうかもしれないという恐怖が私の心にブレーキをかける。好きだと感じる相手が現れても無意識に遠ざけてしまうのだ。
それはまだ尚子が生きているかもしれないということも関係している気がした。私の心のどこかに住んでいる『都』が「この子はナオじゃない」と訴えるのだ。
それでも人肌がたまらなく恋しくなることがあった。
そうしてまだ二十代だった頃、私はお金で女性と肌を合わせた。女性向けの風俗もあったかもしれないけれど、簡単に探すことはできなかったから、男性向けのデリバリーヘルスを利用した。呼んだ女性にダメ元で頼み込んだのだ。
そのときに呼んだ彼女は「女性相手にしたことないから、満足させてあげられないかもしれないけど、いい?」と戸惑いながらも了承してくれた。
今世の私は女性と関係を持ったことが無かったけれど、前世の私は何度も『ナオ』と肌を合わせていたから戸惑うことはなかった。
それでも実際に肌を合わせ、その温もりややわらかさ、声や匂いや味という情報量の多さに圧倒された。
そして私はその行為にハマっていった。寂しくなると彼女を呼んだ。他のお店の女性を呼ぶこともあった。
たった一夜の割り切った関係だったけれど、彼女たちの肌は私の心を温かく包んで癒してくれた。
三十歳を過ぎたとき、レズビアンの風俗があると知って、私は迷わずそのお店にキャストとして登録した。買う側から買われる側に変わっても、束の間の関係が私を癒してくれることに変わりはなかった。
四十五歳になった今、風俗のキャストを務めるのも潮時かもしれないと思っている。だからこのタイミングで大内さんに見つかったのは良かったのかもしれない。
束の間の関係に依存している私は、そんなきっかけが無ければ足を洗えないだろう。
大内さんがデリヘルで年上の女性を呼んだのにも何か理由があるのかもしれない。そんな彼女の心を癒してあげられなかったのは残念だ。そればかりか傷つけてしまったかもしれない。
だけど彼女はまだ若い。
これからたくさんの出会いをして、たくさんの経験をして、本当に愛し合える人を見つけることができるだろう。
そしてそれは私ではないのだ。
私はベッドから起き上がりリビングに出る。夫の壮太(そうた)はすでに朝食をとっていた。
「おはよう、壮ちゃん」
私は壮ちゃんに声を掛けて洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗うとまだ頭の隅に残っていた『都』の感覚が落ちていく。
洗面所を出るとトーストにかぶりついていた壮ちゃんがチラリと私を見た。
「おはよう……もしかしてまた怖い夢をみたの?」
「うん、まあね」
答えながら私はキッチンに立つ。食欲がないのでコーヒーだけで済ますことにした。
「コーヒー淹れるけど、壮ちゃんもいる?」
「うん、欲しい」
壮ちゃんの返事を聞いて、二人分の粉末コーヒーをコーヒーメーカーにセットする。
そのとき視野に入った左手に結婚指輪が無いことに気が付いた。昨日外してバッグの中に入れたままだった。
目ざとい同僚たちに詮索されないように忘れずにつけておこうと考えながらマグカップを二つ用意する。
ポコポコと音を立てながらゆっくりとコーヒーが落ちるのを眺めていると、壮ちゃんが「あっ、そうだ」と言った。
私が壮ちゃんの方に顔を向けると、壮ちゃんは笑顔を浮かべてテーブルに置かれた紙を指さした。
「コレ、昨日もらってきたよ」
私は壮ちゃんが示した紙に視線を落とす。
「ああ、ありがとう」
私も笑顔を浮かべて感謝の言葉を伝えた。
その用紙には『離婚届』と印刷されていた。
大学の図書館は広い。学科に即した専門書も多いため、一般的な図書館よりも蔵書に偏りがある。最初は専門的な蔵書に戸惑ったけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
私は返却された書籍をカートに積んで所定の位置に戻していく。
その際、近くの書架もザっと見渡して間違った場所にしまわれている書籍がないかを確認する。
面倒臭がりの学生は、読んだ本を手近な場所に適当に戻してしまうことがあるのだ。それで結局次に探すときに自分たちが苦労するのに、なぜか元の場所に戻すことができない。
うんざりする作業だけど、所定の位置に書籍がないと騒ぐ学生と共に広い図書館中を歩きまわるよりましだった。
図書館の端まできて本を並べていると背後から声がかかった。
「辞める気はないんですか?」
振り向かなくても声の主が誰だかわかる。
「大人だからね。昨日の今日でどうにかできる話じゃないでしょう」
「辞める気はあるんですね?」
声を潜めているけれど大内さんの声には棘がある。
「さて、どうかしらねぇ」
私の言葉に大内さんが振り返る気配がした。私は構わず手を動かす。
「取り返しのつかないことになっても知りませんよ」
「それは怖いわね」
私はカートを押して次の書架に移動した。なぜだか大内さんもその後に続く。
「大内さんは入学したときからよく図書館に来てくれてたわよね」
「……」
「もしかして、図書館で大学を選んだクチ?」
振り返って大内さんの顔を見ると、図星をさされたと言った顔で目を見開いてから俯いた。
「この辺りの大学では一番蔵書が多くて立派だからね。本好きには魅力的だと思うわ」
「あなたには関係ないでしょう」
「私がここで働きたいと思ったのも同じ理由なの」
私が笑みを浮かべると大内さんは悔しそうに唇をかんだ。
「それなら、どうしてあんなことを……」
大内さんはどうしても図書館司書が風俗をしているのが気に入らないらしい。
「大内さんには理解できないかもしれないけれど、私にとってはこの仕事もあの仕事も必要だったのよ」
「理解できません」
「大内さんはどうしてそんなに図書館を大切に思っているの? 本が好きだというだけじゃない気がするんだけど?」
私は作業の片手間を装って大内さんに尋ねる。「あなたには関係ないでしょう」なんて言って去っていくかと思ったのだけど、大内さんはその場にとどまっていた。
「避難場所だったんです」
大内さんは小さな声で言う。
「中学生の頃、学校に馴染めなくて、自分のことがわからなくて、そんなときいつも図書館に逃げ込んでいたんです」
私は手を止めて大内さんを見た。大内さんは誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。
十年程前、私がこの大学の図書館で働く前のことだ。
中学生になったばかりの大内さんが私の勤めている図書館にやってきた。まだ幼かった大内さんは、本を読むこともせず、人目に付きにくい図書館の隅に佇んでいた。
平日に来ることも多く、そんなときは司書と目を合わせないようにして逃げるように書架の影へと身を隠していた。
平日に図書館に来ることを咎められると思っていたのだろう。
だから私は一冊の本を持って大内さんに話しかけた。
「少し長いお話だけど、良かったら読んでみない?」
ハードカバーの分厚い本だけど、平易な文章で綴られているから中学生でも読むことができる。それは孤独だった少女が不思議な生き物たちと出会って冒険の旅に出る話だった。悩んだり迷ったりしながらいくつもの障害を乗り越えて成長してく少女の姿は、大人が読んでも感銘を受ける。
大内さんは身じろぎもせずに私を見上げていた。
「ごめんね、急に話しかけて。無理して読む必要はないんだけど、せっかくだからと思って」
私がそう言うと、大内さんは私をジッと見つめたままポソリと言った。
「怒らないんですか?」
「怒る?」
「学校に行かないこと……」
「ああ、そんなことでは怒らないわよ。図書館で走り回ってたり、わざと本を破ったりしたら怒るけどね」
すると大内さんは少しだけ笑った。
「本は嫌いじゃないから、そんなことはしません」
「だったら怒ることなんてないわね」
「だけど、学校に行かないのは良くないから……」
「そう? 私は難しいことはわからないけど……毎日がんばってたら疲れちゃうもの。こうして図書館でのんびりしたっていいんじゃないの?」
すると大内さんはホッと息を付いて笑みを浮かべた。
「なんだかいい加減……でも、ありがとうございます」
そうして私が持ってきた本に手を伸ばして「読んでみます」と言った。
学校や家庭で居場所を見つけらえない子どもたちの避難場所になろうというのが司書たちの共通認識だった。
だから平日に図書館にやってくる子どもがいても私たちは基本的に詮索しない。さりげなく様子を伺い、声を掛けられたら話をするけれど、何かを強制することはしない。
大内さんはその日からも度々図書館に顔を出していた。少しずつ司書たちとも話すようになり、その中でも特に私に懐いてくれていたと思う。
勧めた本を読み終わるとうれしそうに感想を語り、新しい本が読みたいとせがむ大内さんのことを私もかわいがっていた。
そうして会話を重ねるうちに、大内さんが図書館に通う理由がわかってきた。
家庭に問題があるわけではなく、学校に行きづらくなったようだ。
家族にはそのことを打ち明けられず、いつも通りに家を出て学校の近くまで行くけれど、足がすくんで進めなくなるらしい。
いじめではないと大内さんは言っていた。
ただ他の人との違いが怖いのだと言った。
小学生のころはみんな『子ども』だった。それが中学生になって『男』と『女』に変わっていくことに戸惑っていたのだ。そして大内さんは『女』に変化しつつある自分と、そんな『女』の中でも異端である自分に気付いてどう受け止めていいのかわからなくなった。そして周りの子たちとどう接すればいいのかもわからなくなってしまったようだ。
本を読み、私たちと話をするうちに自分の気持ちに整理ができたのか、図書館通いが一年を過ぎようとするころから、徐々に図書館に通う回数が減っていった。
学校に戻れたことを知って私はとてもうれしく感じたけれど、少しだけ寂しく感じたのを覚えている。
だから大学生になった大内さんを見て、ひと目であのときの子だと気が付いた。そして立派に成長した大内さんの姿に胸がいっぱいになった。
だけど大内さんは私に気付かなかった。中学生の大内さんにとって、二十五歳も年上の大人なんて全部同じに見えたことだろう。あえて教える必要もないと黙っていた。風俗のことが知られた今となっては、その判断が正しかったと思える。
大内さんは窓の外をぼんやりと眺めていた。中学生だった自分を思い浮かべているのかもしれない。そして力の抜けた声で話し始めた。
「そのときの司書さんが『知らなくて恐れていたことも、その正体を知れば平気になることもある、知識は自分を守る盾になる、図書館にはあなたを強くしてくれるものが溢れているんだよ』って教えてくれて……」
その話をしたとき、目を輝かせて図書館を見渡していた中学生の大内さんの姿が脳裏に蘇る。大学に入ってすぐにこの図書館を訪れたときにも同じ顔をしていた。
大学生になった大内さんがあの頃のことを覚えていてくれていただけで満足だ。私は心置きなくこの図書館を去ることができる。
「すごく年上の女の人だったけど、私、多分、その人のことが好きだった……」
大内さんの言葉にチクリと胸が痛んだ。
「その人、図書館を辞めちゃってて。探したんだけど名前も覚えてなかったから探せなくて……」
「そうなんだ。その人も司書冥利に尽きるわね」
私は軽い口調で平静を装う。
「あんな素敵な人が図書館を辞めたのに、ふ、風俗をしている人が働いてるなんて許せないんです」
大内さんは冷たく私を一瞥して言った。
どっちも私なんだけどなと思うと笑ってしまいそうになって、慌てて表情を引き締めた。大内さんに出会ったころにはもう風俗の仕事をしていたから、実際には今となにも変わらない。
「司書って非正規雇用が多いから契約期間が切れて別の図書館に移っただけじゃないの?」
「え?」
大内さんは私への敵意を忘れたように目を見開いて私をまっすぐに見つめた。
「司書をする人って司書の仕事が好きな人だから、きっとどこかの図書館にいると思うけど……」
私がそう言うと、大内さんは「そっか……」とつぶやいて笑顔を浮かべた。
大内さんにそこまで想われている十年前の自分に嫉妬してしまいそうだ。
私はふと思い出したことを尋ねてみることにした。
「ねえ、大内さん」
「なんですか」
「ミーちゃんって猫、飼ってたのよね?」
すると大内さんは少し嫌そうな顔をした。猫を亡くしてから時間はたっているが、まだ触れられたくないのかもしれない。
「突然、なんなんですか?」
「いつ頃から飼ってるのかなと思って」
「私ははっきり覚えてないけど、私が三歳とか四歳とかそれくらいだったと思いますよ」
「ミーちゃんって名前は誰がつけたの?」
「気が付いたときにはそう呼んでたから、きっとお母さんだとおもいます」
「そう」
「猫にミーなんて単純ですよね」
ミーのことを思い出したのか、大内さんが久しぶりに笑顔を見せた。
「ミー、今頃どうしてるんだろう……」
大内さんがつぶやく。
自分から話題を振ったのに『ナオ』に名前を呼ばれたような気がして落ち着かなくなっていた。
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