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5.夫婦
私は離婚届にサインをして判を押した。壮ちゃんは黙って私の手元を見下ろしている。
いよいよ五年に及ぶ私たちの結婚生活に幕を下ろすときが来た。
「あとは何をしなきゃいけないんだっけ?」
私が言うと壮ちゃんはニッコリと笑った。
「一応やらなきゃいけないことをリストにしておいたよ」
「おー、さすが」
私が手を叩いて褒めると壮ちゃんは自慢げに鼻を膨らませた。
「それぞれの職場のこともあるし、離婚届の提出は全部目処が付いてからでいいよね?」
「うん。あと少し、よろしくお願いします」
私が頭を下げると壮ちゃんも「こちらこそよろしく」と言って頭を下げた。
壮ちゃんは私が同性愛者であることを知っている。そして壮ちゃんも同性愛者だ。そんな私たちが結婚したのは互いの利害が一致したからだ。
私が結婚を望んだのは、多分『都』の影響だと思う。
『都』は三十五歳の若さで他界した。『都』の葬儀のときに母が言った「親不孝者」という言葉が、今の私にも後悔として強く残っている。
結婚することだけが親孝行だとは思わないけれど、何かそうだと思えることを実行したかった。
それに高齢で私を出産した両親は私のセクシャリティのことを説明しても理解できそうになかった。三十歳を過ぎても結婚しない私に「結婚はまだなのか」「相手はいないのか」「子どもは早く生んだ方がいい」などとしつこいほどに言ってきた。
そのうち諦めてくれるだろうと思って、うんざりしながらも聞き流していたのだけれど、その口撃は四十歳を手前にしても収まらなかった。
長く友人だった壮ちゃんにそのことを愚痴ったとき「じゃあ僕と結婚する?」と言われた。冗談だと思っていたのだけれど、壮ちゃんは本気で言っていた。
壮ちゃんの場合、両親とは疎遠になっていたようだ。だけど結婚して子どもを作れとだけは言われ続けていたらしい。父親はそれなりの地位のある人で、「お前には期待しないが跡取りは作れ」なんて言われたと嘆いていた。
壮ちゃんは親の手前結婚するというよりは、両親の元から籍を抜きたくて結婚を望んでいた。
だから苗字も私の『相馬』を選んでいる。
壮ちゃんから結婚の話を聞いたとき、そんな嘘の結婚をするなんてナンセンスだと思った。
だけど年老いた両親を見ているうちに気持ちがゆらぎ、せめて結婚をしたことくらいは見せてあげてもいいんじゃないかと思うようになった。
私にはパートナーがいなかったけれど、壮ちゃんにはパートナーがいた。だから私と壮ちゃんと壮ちゃんのパートナーの三人で話し合って様々なルールを決めた。
結婚の期間は五年。五年にしなければいけない厳密な理由はなかったけれど、それくらいたっていれば離婚をしても怪しまれないだろうというだけの理由だ。
一昨年に母が、昨年父が他界したからもっと早く離婚をしてもよかったのだけど、結局最初のルールの通り五年間の結婚生活を続けた。
それから部屋を借りて一緒に住むこと。これは二人で暮らした方が生活費を節約できるからだ。壮ちゃんのパートナーはフランス人で日本とフランスを行き来して仕事をしている。たまに壮ちゃんもフランスに行くから、渡航費用のためにそれ以外ではできるだけ節約したいらしい。
一緒に住むけれど寝室は別。互いの生活に干渉しない。つまり壮ちゃんとのルームシェアだ。壮ちゃんのパートナーは「ミヤがソウを見張ってくれるならボクも安心ダネ」なんて笑っていた。
家に二つ必要のないものは共同で購入している。離婚をするときそれらは売却してお金は二人で折半することになっている。
その他、細々としたことも含めてきちんと話し合い、書面に落とし込んでから結婚をした。
式は挙げなかったけれど写真撮影だけはした。
両親は想像以上に喜んで、壮ちゃんをとてもかわいがってくれた。壮ちゃんは少し気まずそうにしていたけれど、満足そうな両親の顔が見られて私はうれしかった。
壮ちゃんとは約束通り離婚をするけれど、同じ家に暮らした同志と離れるのはやはり寂しい。
「壮ちゃんは離婚しても苗字を戻さないの?」
「当然だよ。そのために結婚したんだから」
「でも、相馬壮太っておかしくない?」
「カッコイイだろう? 苗字でも名前でも「ソウ」でいいんだよ。それこそSo happyだよ!」
壮ちゃんはニカッと歯を見せて笑うとサムズアップした。
「うわ、さむっ」
私が体を抱えて寒さを堪える真似をすると、壮ちゃんはケタケタと笑い声をあげた。
「美也ちゃんは離婚してからどうするの?」
「仕事は辞めようと思ってる」
「辞めるって、どっちの仕事?」
「両方」
「え? 大丈夫なの?」
壮ちゃんが目を丸くした。
「どうなるかわからないけど、まぁなんとかなるんじゃないかな」
「美也ちゃんのそういところ、僕は好きだけどさ」
「ありがとう」
「図書館の仕事、好きなんでしょう。本当に辞めてもいいの?」
「契約更新時期だし、環境を変えるにはちょうどいいかなと思って」
「美也ちゃんは優秀な司書だからすぐに次は見つかるかもしれないけど……」
「なに? 今日は褒め殺してくれる日?」
「心配してるだけだよ。せめてどちらかの仕事は続けておけば?」
「んー、でもデリヘルもそろそろ潮時だからね。年が年だし」
「美也ちゃんはまだまだ魅力的だと思うけど……」
こんな話を明け透けにできる相手は壮ちゃんくらいしかいない。
「ねぇ壮ちゃん、壮ちゃんも風俗で働くのはダメだと思う?」
「僕も? 誰かにそんなことを言われたの?」
「うん、まぁね」
「もしかして辞めるのってそれが原因?」
「そういうわけではないけど……」
原因のひとつであることは間違いないけれど、大内さんに辞める責任をなすりつける真似はしたくない。
「まぁ、人それぞれ色々な考え方があるからね。だけど僕はそう思わないよ」
壮ちゃんは真面目な顔で続けた。
「風俗を利用するのは色んな理由があると思うけど、特にマイノリティの風俗って、自分が暮らす世界の中では気持ちを誰にも打ち明けられなくて救いを求めるようにして来る人もいるでしょう。美也ちゃんに救われた人も少なからずいると思うよ。ぶっちゃけ、僕もはじめては風俗だったもん。ずっと自分の気持ちを否定して、ダメだって思い続けてきたんだけど、風俗ではじめて裸で抱き合ってさ、なんだか許されたような気がしたんだよね」
「そうなの? 壮ちゃんって社交的なオープンゲイって感じなのに」
「僕だって十代には結構悩んだんだよ。それに、本当のオープンゲイはこんな風に結婚したりしないでしょう」
「そりゃそっか」
壮ちゃんはカラカラと明るい笑い声をあげた。そして笑いを止めて表情を引き締めた。
「けどね、美也ちゃんが本当に好きな人と出会えたらいいなと思ってるよ。美也ちゃんが頑なに恋人を作ろうとしない理由は知らないけど、少し見ていて悲しいんだ」
私は目を伏せる。
私は『都』ではない。だけど『都』として本当に愛する人に出会っていて、『尚子』以上に愛せる人を見つけられるような気がしなかった。それに『尚子』にしてしまったように愛する人を置き去りにしてしまうのが怖い。
そんなことを壮ちゃんに説明してもきっと理解できないだろう。
「でも美也ちゃん、好きな人ができたんじゃないの?」
「え?」
「なんとなくそうなんじゃないかなって思ったんだけど、違う?」
「何言ってるの? そんな子いないから」
「そうかな? 美也ちゃんが気付いてないだけじゃない?」
「いない、いない。それにもしもいたとしても付き合えるとは限らないでしょう。もしかして私がモテないって言いたいだけなんじゃないの?」
私が笑って言うと、壮ちゃんはまだ何か言いたそうな顔をしたけれど「あ、バレたか?」と笑いながら頭を掻いた。
壮ちゃんとの関係は心地いい。
「私たちの間に恋愛はなかったけど、結構いい夫婦だったよね」
「うん、そうだね」
「もしも私が男に生まれてたら、壮ちゃんと本当の夫婦になれたのかな?」
「どうだろうね……って、前提がおかしくない?」
そうして二人で声を立てて笑った。
「だけどさ、僕たちは今の僕たちだったからきっと仲良くなれたんだと思うよ」
「そうだね……あ、そうだ。今日は壮ちゃん何の用事もないんだよね?」
「うん」
「だったら最後に夫婦でデートしようよ」
「お、いいね」
壮ちゃんは立ち上がって服を着替えに行った。
明るい街の中を壮ちゃんと二人で歩くとまるで普通の夫婦のように見える。なんだかそれが少しおかしくなってくる。
「周りには普通のカップルに見えてるんでしょうね」
「え? 普通のカップルにはみえないんじゃない?」
「そう?」
「美男美女の超絶カップルに見えてると思うよ」
「何それ」
ケラケラと笑いながら目的も決めずに歩く。
「そういえば壮ちゃんは離婚した後どうするの?」
「とりあえず一回フランスに行こうと思ってる」
「フランスかぁ」
「で、式を挙げるつもり」
「わっ、おめでとう!」
「ありがとう」
「壮ちゃんがドレスを着るの?」
「そうそう、背中がパックリ開いたマーメードラインのやつをって、着ないよ!」
壮ちゃんはノリノリでノリツッコミをしてくれた。
「二人のタキシード姿、かっこいいでしょうね」
「まぁね、惚れなおすだろうね」
壮ちゃんはパートナーの顔を思い浮かべているのかニヤニヤと頬を緩める。
「あー、でも壮ちゃんはちょっとこの辺りを絞った方がいいんじゃない?」
私はそう言って壮ちゃんのポッコリと突き出たお腹の肉をつまむ。
「つまむな。彼はこれが赤ちゃんみたいでかわいいって言ってるからいいんだよ」
壮ちゃんの反応に声を上げて笑って顔を上げたとき鋭い視線を感じてそちらに顔を向ける。
雑踏の中、大内さんが私と壮ちゃんの姿を睨んでいた。
私は視線を逸らして壮ちゃんの腕に自分の腕を絡ませる。
「美也ちゃん、どうしたの?」
キョトンとして壮ちゃんが私を見る。私は笑みを浮かべて「別に」と答えながら足を速めた。
大内さんがまだ私たちを見つめているのが視界の端に映る。壮ちゃんも大内さんに気付いたようだ。
私は壮ちゃんの耳に手を当てて「見ないで」と小声で伝えた。
そうして大内さんとすれ違い、しばらく進んだところで壮ちゃんはチラリと後ろを振り返った。
「あの子?」
「何が?」
「美也ちゃんの好きな子」
「そんなはずないでしょう。二十五歳も年下なんだよ」
「年齢は関係ない、とは言わないけど、落ちちゃったらどうしようもないからね」
「落ちる?」
「そう。恋に落ちる」
「だからそんなんじゃないってば」
壮ちゃんを掴んでいた腕を離して私は自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動がうるさくて耳障りだった。
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