たとえあなたが

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「初めまして。」 僕が初めて聞いたその人の声は、どこか懐かしい様な気がした。 僕は最近父と母を亡くした。 22の僕にはあまりにも大きな出来事だった。 父の運転する車に居眠り運転で突っ込んできたトラック。 車は半壊。 父と母は即死だったそうだ。 僕は父方の叔母さんに引き取られ、それまでずっと過ごしてきた街を離れて田舎に越してきた。 近くのスーパーに行くのに数キロメートル。 山々に囲まれた酷くローテクな場所だ。 それでも、僕にはありがたかった。 街の喧騒、人々の雑踏。 そういった物から隔絶されたこの場所は、僕にとっては全てを流していってくれる様な場所に思えた。 一人暮らしをする事も考えたが、叔母さんがそれを許してはくれなかった。 きっとそれが僕にとって1番いい事だと確信していたのだろう。 早くに旦那を亡くした叔母さんの考えはきっと正しいものだと思った。 僕はこちらに越してきてからは叔母さんの持っている畑を手伝って生活している。 男2人の子供が既に独り立ちしている叔母さんには男手があって助かるそうだが、一人増えるだけで家計を圧迫するには十分だということくらいは僕にだって分かる。 それでも嫌な顔をする事もなく、僕を毎日優しい顔で呼んでくれる叔母さんにはいつかきっと恩返しがしたいと思っている。 今はまだ無理かもしれないけれど。 僕はこちらに越してから散策がてらいくつかの場所を歩いて回る事にした。 外に出て歩く事も大切だと医者に言われた事が一番大きいけど。 週に1日だけ、僕は近隣を歩く事にした。 そんな風に過ごしていた時、ふと立ち寄った山の中の展望台に何か懐かしい物を感じて、歩く時はそこを終着点に決めていた。 何度目だろうか、いつもの様に終着点に辿り着くと屋根の着いたコの字型のベンチに腰を下ろして歩いてきた場所を見下ろす。 心地よい風が吹き、火照った体を少し冷ます。 ポツポツと降り始めた雨が風に吹かれて頬に当たる。 「初めまして。」 突然背後から掛けられた声に僕は振り返る。 そこには僕と同い年くらいの綺麗な女性が立っていた。 白いワンピースに黒く真っ直ぐで長い髪が風に吹かれて波打っている。 「は、初めまして。」 田舎は比較的都会に比べて知らない人に声を掛ける率が高いとは思うが、女性から男性に声を掛ける事はあまりない。 特にこんな清楚そうな女性は。 「隣……よろしいですか?」 「あ!はい!どぉぞ!」 コの字型のベンチに向かい合う様に座る。 ニコッと笑って見せた女性はベンチに腰を下ろすと右手で髪を耳に掛ける。 声も、その仕草も、どこか懐かしい気がする。 どこか母さんに似ているのかもしれない。 あまり見ては失礼だと思い、僕はまた来た道を見下ろす。 特に会話も無く、静かな時の中、女性がめくる本の音が耳に届く。 初めてその人に会ったのはその日だった。 その日から僕が展望台に行くと必ずその女性がいた。 後から来る事もあったが、何故かいつもその場所に女性が来た。 別に何を話す訳でもない。 いつも本をめくる音が聞こえてくるだけだ。 ある日僕は思い切って声を掛けてみることにした。 「あの…」 「はい?」 「いつも何を読んでいるんですか?」 「あー…これですか?」 「はい。」 「色々ですよ。小説だったり、文学書だったり…医学書も読んだりします。」 「へぇ。凄いですね。僕が読んでも分からないものばかりだろうな。」 「ふふ。そんな事は無いと思いますよ。」 それからは会う度に少しずつ色々な話をした。 好きな本。好きな色。好きな食べ物。 色々な話をしたのに、不思議な事に互いに名前を知らない。 何故か聞いてはいけないような気がした。 あの女性も聞いてはこない。 それでも、何故か僕にとってこの時間はとても大切なものの様に思えた。 父と母を亡くしてから、どこか穴の空いた様な、酷く色褪せた様な気がしていた。 でも。 この人の声を聞く度に、この人の笑い声を聞く度に、僕の世界に筆で一色ずつ色を足されていくような気がした。 「へぇ!そぉなんだ?!」 「ふふ。えぇ。」 「僕も…」 「え?」 「いや…… 一つ。お話をしても良いですか?」 「もちろんですよ。」 「ある所にそれはそれは仲のいい家族がいました。 父と母、そして一人っ子の男の話です。」 「……」 「ある時、両親が交通事故で亡くしたその男は、何かを考えるでもなく、何かをやりたいでもなく。言われるがまま、田舎に越してきました。」 「……」 「そんな男を引き取った叔母は優しく、その男を介抱しました。 男は何か恩返しがしたいと、毎日考えているのに、何も出来ない男は困ってしまいます。 何をしたら恩返しが出来ると…思いますか?」 「………」 何故こんな話をしたのか…僕にも分からなかった。 名前も知らない他人の女性なら別に大丈夫だと思ったのか、今でもよく分からない。 それでも、その女性は下を向いて顔を上げると、僕の目を見て言った。 「生きて…生きて下さい。」 「……」 「あ!えっと…きっとその叔母様はその男の人にそぉ言いたいんだと思います。 そして何よりそれが恩返しになると…私は思います。」 「それだけ?」 「それだけです。」 「ふむ…」 「納得してないですか?」 「どぉなのかな…?男だからなのかな?即物的な物をイメージしてしまうんだけど…」 「ふふふ。そんなものは望んでいないと思いますよ。」 「そぉかな?」 「えぇ。」 また笑って答えてくれた顔はどこか寂しそうな…切なそうな顔をしていた。 それからも何度もその女性と会っていくつも話をした。 なんの変哲もない話なのに、日に日にその女性について詳しくなっていっている自分がいた。 そして…その場所に行くことを楽しみにしている自分も。 「ここから……ここから落ちたら…」 その日も僕は展望台にいた。 毎日大変な仕事をこなして僕を養ってくれている叔母さん。 何も出来ない自分。 そんな自分が許せない自分。 展望台から身を乗り出した僕を強く引っ張った手は細く美しい手だった。 「なにを……何をしているんですか?!」 「……」 初めて見せた女性の怒ったような泣いている顔に僕は一言しか返せなかった。 「……ごめん…」 「心臓が止まるかと…思いました…」 涙を頬に伝わらせる女性に僕は何も出来ずに尻餅を着いたまま固まっていた。 「私の……私のせいでしょうか…」 「え?」 絞り出すように出てきた言葉は僕の思いがけない言葉だった。 涙を拭って走り去った女性を眺める事しか出来なかった。 そして、その女性とはそれきりずっと会えなかった。 いつもそこにいたはずの女性の特等席は、ずっと空いたままだ。 怒ったのだろうか…悲しんだのだろうか… 聞くことさえ出来ない。 そんなある日、風邪をひいてしまった叔母さんを病院に連れていった時の事だった。 診察が終わって病院から出ようとしていた時の事だ。 あの女性を見つけた。 「あ……」 目が合った女性は気まずそうに僕から目を逸らす。 いつものワンピースではなく、入院服を着ている女性。 叔母さんが何かを感じ取ったのか軽い風邪たからと僕を無理矢理置いて帰ってしまって、僕は女性の前に立ち尽くしていた。 「あの…座りませんか?」 「え?あぁ!はい!」 僕は女性と中庭にあるベンチに向かった。 ベンチに座り一息ついた所で女性がポツポツと言葉を紡いだ。 「私…病気なんです。」 「病気?」 「治らない病気じゃないんですけど…時間が必要で。」 「どれくらい?」 「分かりません。何年も。」 「そんなに……」 「でも外には自由に出られるし、別に大丈夫なんですよ?たまに体調が悪くなっちゃいますけど。」 僕との一件はその要因になったのだろうか。 「それでも……良くなるんですから。頑張らないと!」 「強いんですね…」 「私がですか?」 「…えぇ。僕にはとても…」 「そんな事は無いですよ。あなたは…強いです。」 「そんな事は…」 「ふふふ。大丈夫。あなたは強い人です。」 また見せてくれた笑顔に僕はほっとした。 「あの……今更なんですけど。お名前。教えて頂けませんか?」 「………」 「やっぱりダメ…ですかね?」 「百合子。」 「え?」 「百合子って言います。」 「百合子……ゆり…こ?」 突然僕の頭の中に何かが浮かんでは消えていく。 「ゆりこ…百合子…」 あぁ。そぉだ。 あの時……僕は百合子の移った病院に家族でお見舞いに行く所だった。 最愛の人。 結婚まで考えて、両親に話した。 両親は百合子を好いていてよくしてくれていた。 「百合子…百合子!!」 「……」 なんで忘れていたのだろう。 なんで… 「あなたが……私のことを思い出してしまうと…事故のことを思い出してしまう。だから…ずっと名前を聞かなかったの…」 「そんな…」 あぁ…思い出した。 トラックが近づいてくる恐怖。 へしゃげる車体に潰されていく両親。 恐ろしい。 「でも……」 「??」 「なんで…??言ってくれれば…」 「約束…したもの。 例えあなたが私を忘れても…私は…」 「あぁ…そぉだったね…覚えているよ。 約束した……その約束を守ってくれたんだね。」 「……」 「ありがとう。 次は僕の番だね。 たとえ君が…………」
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