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 俺は走る速度を落とした。警察官が現われた瞬間、頭の中に二つの考えがさっと通り過ぎる。  一つは、助かった。これでこの異常な状況は終わる、という至極普通かつ『甘い』考え。  もう一つは、事態が加速度的に悪化していくぞ、という悲観的かつ『現実的な』考え。  警察官はこちらに俯いたまま、よたよたと歩いてくる。もう『俯いた状態』と『よたよた』の時点で頭の中に警報がガンガン鳴っているが、後からガチ走りで追ってくる犬猫の足音が聞こえる以上は止まれない。左は池で、右は藪だ。藪の中には何がいるか判らない以上は、早く走れる道から逸れるわけにもいかない。 「お――お巡りさあん!」  掠れた声でそう叫ぶと、警察官が顔を上げた。  影で目が見えない。  いや、目が無い。  目の部分がぽっかり空いている。  中で何か――動いている?  思考が絶望的な状況とダンスを踊る中、俺は走る速度を上げた。一応体は鍛えている。だから、普通の体格のよたよたしている奴なら、体当たりで突破できると考えたのだ。  公務執行妨害とか、まあ、後で色々問題にはなるだろうが、わけのわからない状態でわけのわからない病気に感染するよりは、『多分』ましなはずだ。  俺は奇声をあげ、姿勢を低くし弾丸のように駆ける。  警察官が銃を抜いた。  頭の中に電光が閃き、俺は走る速度そのままに池の周りの柵に駆けあがると。思い切り跳んだ。耳をつんざくような音が響き、空気が震える。  撃った!  こいつ撃ちやがった――  多分銃弾が遊歩道を抉る音と同時に、俺の膝が警察官の喉にぶち当たった。また轟音。頬を何か酷く熱い物が掠めていく感触が一瞬あり、俺は遊歩道に肩から落ちると、ごろごろと転がる。息が詰まるがすぐに膝立ちになると、後を見る。  警察官がこちらを向いている。  いや――警察官の首が、真後ろを向いている。  や、やっちまった……とすっと体温が下がるような感覚が襲ってくるも、警察官が首が折れているそのままの姿勢で、こちらに歩き始めたので立ち上がる。  なんだ――なんなんだ?  警察官がぎくりと立ち止まった。  俺を追ってきた犬猫が両足と右手に飛びかかったのだ。唸り声をあげながら、警察官の腕を引っ張る猫。左手でその猫の顔を殴ろうとする警察官。しかし左腕は大きな犬に拳ごと丸呑みされ始める。右手に噛みついていた猫が物凄い勢いで頭を捻ると、ボキボキと音がして警察官の腕が引きちぎれ、ついで噛みついていた猫の頭も――  俺は踵を返すと、また走り出した。  公園を出なくてならない。  今は三つ目のコーナーを曲がってしばらく走った辺りで、左は相変わらず池だが、ここから右側は芝生が拡がっている。休憩所や遊具が置いてあるのだ。奥の林を抜ければ山側の道路に出れる。  俺は速度を少し落とすと、芝生に入る。足の裏の感触が柔らかくなって、少し走り辛くなる。  俺は流れる汗を拭い、前方にあるものを認めてまた走る速度を落とした。  屋根つきの休憩所、そこのベンチに誰かが座っている。  こちらに背を向けているうえに、街灯は休憩所から離れた場所にある。  近寄るべきじゃない――俺はそう判断すると休憩所を大きく迂回しながら林を目指した。  だが、俺は方向展開せざるを得なくなった。  林の中に何かが居る。  人影、犬猫、鳥、暗くて良く見えないが、ともかく数が多い。そいつらが動き回っている。  正面左に休憩所を見ながら、俺は遊歩道に走り戻ろうとした。  だが、俺は結局足を止めてしまった。  休憩所のベンチに座っていた人物の顔が、うっすらと見えたからだ。  ここに肝試しに来ると言っていた、あの友人だった。  汗がどくどくと額から、脇から、胸板から流れ、シャツを、パンツを、太腿を濡らしていく。  息は酷くあがっている。足も震えている。  だが疲労ではない。疲労ではないのだ。  それでも俺は休憩所に吸い寄せられるように近づいていった。  友人は酷い有様だった。  服の間から見える皮膚はミイラのようにカサカサで、目はさっきの警察官のように無かった。開いた口はよく見ると、頬の部分に亀裂があり耳まで裂けている。あの犬猫のように何かを飲み込もうとしたのだろうか。  ぶうぅんと羽音が聞こえた。  友人の開いた口の中、その闇の中から音が聞こえる。  ぶうぅんぶぅんぶぅんと油の良く射されたモーターの回転音のような心地よい音。そして蠢く黒い塊達。  瞬間、俺は全てを理解した。  認めたくはない。  信じる事も出来ない。  でも、納得はした。  そいつらがぞろりと口の中から這いだしてきたのをきっかけに、俺は再び走り出した。  恐ろしくて恐ろしくて、悲鳴をあげながら走り続けた。  最後のコーナーを曲がって遠くに公園の入り口が見えてくる。街灯に照らされたそこから向こうは水田と滑らかなアスファルトがあって、静かで普通の世界に見えた。  あれは――『巣』だ。  あの亀の甲羅の中にいた、あの羽を持った虫。  警察官の空っぽの目の中で、友人の口の中で蠢いていたあの虫の『巣』なのだ。  あの虫は、多分動物の体を『巣』にしてしまうのだ。 『巣』になってしまった動物は、脳の一部を食われるか何かして、食物を摂取し続けようとするだけの存在になってしまうのだろう。そしてその間にも、あの虫は『巣』の中を食い荒らし、胃に落ちてきた物を食い荒らし、爆発的に成長して増えていく。  なんてこった、と俺は毒づいた。  連中はどんどん増える。  連中自体が飛んで移動できるうえに、『巣』自体も移動できる。しかも『巣』にできる動物は数えきれないほど無防備にそこら中にいるのだ。  一体いつから、これが起きているのだろうか?  公園が封鎖された頃から?  友人はきっと何日も前にここで肝試しをして――あいつの他の仲間は?  入口の封鎖は誰が解いたんだろうか?  あの警察官は『銃』を使った。 『狩り』の為に『道具』を使った。  『人』は『思考能力を持った巣になる』ということだろうか?  俺は――無事なのだろうか?   今この瞬間にも、『巣』になっていってるのだろうか?  もしかしたら、出かける前にかけた虫除けスプレーが効いているのか?  スマホのタイマーが鳴った。  同時に公園の入り口を潜った。  ベストだ。  見渡す限りの水田の向こう、明かりのついた住宅街、その向こうに見える繁華街の灯。  やけに静かじゃないか。  まるで、誰もいないみたいに静か……。  いや――何かが聞こえる。  ぶうぅんぶうぅんぶうぅん………羽音が聞こえる。  どこか酷く遠くから。  そして酷く近く、例えばスプレーがかかっていない――俺の耳の穴の中から。  了 
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