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ざわり
周囲の空気が動いた。
いや、グラウンド全体というべきか。なんだ? と思って振り返ると、野球部が校舎に隣接するグラウンドに出るところだった。練習が始まるらしい。
「野球部、か」
もちろん夏の大会終了後、直ちに新チームに移行しているが、前が前だけにかなり苦労している。おかげで日々の練習も非常に厳しいものになっていた。仕方がないとはいえ、下級生達がちょっと気の毒だった。もちろん他人事ならではの感想で、アツヒロとしてもわきまえているので口には出さない。
と、
「…今日もいねーなァ」
「えっ?」
思わず聞き返すと、また当初の気怠いふうの態度でシュンスケは短く答えた。
「二枚看板」
言われて探してみれば、確かに居ない。
野球部が誇る左右のエースは、ここしばらくはまさに震源地だった。予想できたこととはいえ、二人同時にドラフトにかかるというのはやはりおおごとだ。そういえば指名挨拶だの交渉だのと、ちょこちょこ二人の顔はニュースで見たが、グラウンドでの姿を目にする機会は減っていた。
「ああ、柳澤くんと、小林…」
とアツヒロが言いさすと、
「ほたか。小林穂高」
瞬殺でシュンスケが継いだ。そう、右腕の方は姓に比べて名は少し珍しい。だからつい声に出た。
「そうそう。穂高、っていい名前だよね。お父さんとか、山好きなのかな」
「は? やま?」
シュンスケが心底びっくりした、というように目を丸くするので、むしろアツヒロも驚いた。
「いや、ほたかって… 穂高岳由来だよね? たぶん」
「そんな山あんの?」
そうか、知らないのか。と内心、動揺しながらも、まあそれが普通だよなと自己完結する。アツヒロは深く頷いた。
「あるよ、長野かな。日本で三番目に高い山」
「三番目って… 中途ハンパ…」
徒競走のスペシャリストらしい発言に、アツヒロは少しだけ苦笑する。三位だってかなりすごいことなのだ、本来は。
「一番だと問答無用で”ふじお”とかだよ。それよかカッコいいって」
「そうか、そうだな… そうかな…?」
「高さはそうだけど、岩山で、難しいんだよ、穂高岳。日本三大岩場だったかな」
井上靖の小説、『氷壁』の舞台でもある。アツヒロの家の居間には、父が撮った冬の奥穂高の写真が掲げてあった。夏の碧い姿もいいが、やはり冬季の白く深く眠るような佇まいが素晴らしい。
ひたすらに、美しく雄々しい山なのだ。
「いい山、なんだ。いつか、撮りに行きたいんだけど」
日本三位の標高の上、険しい岩場があり、夏でも雪渓が残る連峰は、素人が登るにはそれなりの勇気が必要だった。もちろん、最近の望遠カメラは優秀だから、ある程度まで近付けばその姿もかなりの精度で撮影できる。
しかし、それではダメなのだ。
山の写真は、それでは駄目なのだ。アツヒロは自分もまず、学校の外周を走るところから始めた方が良いのかもしれない、と真剣に考え始めたところで、
「俺も山、登るんだ」
唐突にシュンスケはそう、宣言した。
それは間違いなく宣言だった。宣誓といってもいい。予定や希望を口にしたのではない。明らかな意志と祈りを込めて、彼は霊峰富士と対峙していた。
長距離ランナーが平坦道ではなく、山道を走ることがあるのだろうか? アツヒロは僅かに、首を傾げる。高地トレーニングのことだろうか。いや、この明確な決意をみれば、それが確固たる『目標』であることが解る。
ならば富士登山競走だろうか? ついつい
「やまって…」
どこの? と訊ねようとしたのを遮って、
「箱根」
彼はそれだけを答えた。
ああ、そうか、あの山だ。
そのために彼は、毎日まいにち走っているのだ。
富士よりはだいぶ低いかもしれないが、それは確かにランナーが目指すに相応しい山頂だった。
アツヒロは「そっか」と頷いてただ、シュンスケと同じように富士を眺めた。微かに白い葛を被った女王は、ただ泰然とそこに佇んでいる。
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