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「ほたか!」
名前を呼ばれた。
今、この学校で彼を名前で呼ぶ人間は意外に少ない。相方でさえめったに呼ばないので、ほぼ三人だ。
一人はサッカー部MFの小林拓真、まあこれは当たり前。ちなみに、拓真はよく穂高から教科書を借りていくのだが、毎回落書きを足していくのは止めて欲しいと思っている。
それから、前正右翼手のマサハルが呼ぶのは中学時代の名残で、近畿大会等で幾度か顔を合わせたのだが、共通の知り合いが「こばやしまさき」だったので必然的に。ただ、他のチームメイトはコバと呼ぶので、今ではほとんどそちらだ。
で、三人目が、
「さくら?」
と振り返ると、視界が真っ白になる。おおっと、と穂高は大慌てで飛び込んできたものを受け止めた。呼ばれてから到着までの時間が予想よりだいぶ短い。速いな、と感心すると同時に、
軽い、と反射で呟く。
しかも薄い。容積では恐らく相方の半分くらいしかないのではないか? と夏に決勝弾を放った相方をベンチに迎え入れ、ハグしたときのことを思い出す。相方は穂高と身長はほぼ同じだが、体重が10kgほど重いのだ。
いや、比較している場合ではない。
「なに?! なんで??」
「や、久々だからちょっと」
えええええ… と眉尻を下げた穂高に、いきなり抱きついてきた長距離陣のエースは、ははっと笑った。
シュンスケとは一年で同じクラスになって知り合ったが、今は校内マラソン大会で上位を争う間柄である。後ろの、というか周囲の野球部員はもちろん、方々からの視線を感じる。
軽いけど熱いよ、お前、と言いながら手を離すと、おう、と白いトレーニングウェアのシュンスケはふわりと降りた。
「で、なんの用?」
改めて訊ねると、シュンスケはやはり華やかに笑う。
「今日、もうロード行った?」
「ロード? いや、まだだけど」
というか、アップ以外で走る予定はない。近頃とにかく雑事が多く、まともな練習ができなかった穂高としては、久々にきっちり投げ込む予定なのだが。
「よっし、じゃあ今から行こうぜ」
「はっ? 今から? てか、お前と?」
「そう」
「いやいや、ないない。佐倉とロード行ったら、それで今日の練習終わるだろ」
いくら長距離が得意な穂高でも、本職と走ったら体力を使い切る。ひらひらと手を振って断ったにも拘わらず、向こうのエースは諦めなかった。
「いいじゃん、終了で。しばらく走ってないだろ」
「よくないって… てか、俺、野球部やねんな」
恐ろしいことに、この友人はそこを理解していない気がして、思わず念をおす。至極当たり前、というか、超今更なことを口にしたのだが、もっと予想外な反応が返ってきた。
「もういいだろ、野球。日本一になったし。今度は陸上やろう」
「はい?!」
それは野球を辞めろということか? 穂高は返す言葉を見失う。
「わお、大胆…」
というのは後ろから聞こえた。相方の後を継いだ田村だろう。この後輩はとても味わい深いのだが、今はそこを味わう余裕はない。えーと、と穂高が口ごもっていると、彼は実に真摯な貌でこう言うのだ。
「一緒に箱根、走ろうぜ」
箱根…!
息が止まる。
箱根駅伝。年明け、二日間にわたり行われる超長距離の駅伝大会。関西出身の穂高にするとあまり馴染みがなかったのだが、こちらに来てその注目度を思い知らされた。系列大学が常連なせいもあるが、その単語は特別な響きを持っている。学生が陸上で長距離をやるならやはり、そこが頂点なのだろう。
自分たちが甲子園を目指すのと同じに。
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