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あるべき場所へ
とうとう新月の夜が来た。才谷さん改め
坂本さんが元の時代へ帰ってしまう。わたしはずっと悩んでいたけれど、未だ何も言えないでいる。
窓の外は暗い。雨が降り、月も星も見えない。
どこか落ち着かない阪本さんを横目に、わたしは読んでいた本をパタンと閉じた。ちなみに、ようやく池田屋事件が済んだあたりまで読み進めたところだ。
サンマが焼けたのを確認して、坂本さんと頷きあった。香ばしいいい匂いが漂う。二人して居間を出て、箪笥部屋へ向かった。
わたしが引き出しを開けると、中はいつかのように光が渦を巻いていた。箪笥なのに、箪笥でないような不思議な空間が出来上がっている。
才谷さんと共に渦巻きが出来ていることを確認すると、彼は神妙な顔つきでわたしに向き直った。
「あかねさん。まっこと、世話になった」
「いいえ。寂しくなりますけど、頑張ってください」
「おう。任しちょき」
わたしは笑おうと努める。別れが辛い。けれどこの人は直ぐに殺されると思うと、尚の事上手くいかなかった。
寂しくて、悲しくて仕方がない。始めは早く出て行って欲しかったはずなのに、別れでこんな気持ちになるとは思わなかった。
妊娠中は感情の起伏が激しくなると言う。でも、きっとそのせいだけではない。こみ上げる物は、既に決壊寸前だった。
「帰りはるんですね……」
遂に泣けてきた。阪本さんは困ったような、でもすこし嬉しそうな顔でわたしを見る。
「あ、あかねさん。そんなに寂しがってくれるがか。参ったのう。ワシは離れとうないき、決心が鈍っちゅう」
頭をボリボリ掻きながら、阪本さんははにかむ。人を惹き付ける優しく微笑みだ。
妻がいると言いながら離れたくないだなんて、と思いつつ、それでも嫌な気はしないのはこの人の生まれ持った物なのだろう。実に得な性分だ。人たらしの異名は伊達ではない。
本当に、暗殺の事を話さなくていいだろうか。本人はそれを既に危惧してはいるようだ。だが、史実と彼が来た時に聞いた日付から勘案すると、帰った翌々日くらいには件の刺客が来るはずだ。
「あ、あの……」
「ん? なんじゃ?」
わたしが阪本さんを見上げると、彼はわたしに目を合わせた。
「最近、才谷さんの時代の小説を読んでるんです。ほんまに物騒なんですね。京って」
「おう。そこいらで死人が倒れちょる」
思わず想像してしまった。背筋がぞくりと冷える。
「ほんまに、気を付けてくださいね。狙われてるて、言うてはったし……」
また涙が溢れて来た。悩むくらいなら、もういっそはっきり言ってしまってもいいだろうか。
「あの、阪本さん……実は、あなたは近いうちに、その……暗殺されることになってるはずなんです。だ、だから……」
言い淀む阪本さんはわたしの涙を指で拭った。指が伸びてきた事に驚いて言葉を止めると、彼はどんと胸を叩いた。
「なんの、ワシはこれでも北辰一刀流の塾頭を勤めた男ぜよ。大丈夫、心配せんとき」
才谷さんは自信に満ちた顔で微笑むと、ニッコリ笑った。
「覚悟はとっくに決まっちゅう。そりゃあ、できれば死にとうないが、そんなこと言うちょったら何もできやーせんがよ」
「でも、生きて次の時代を見てほしい。あなたが作ったようなもんでしょ」
涙がぼろりと溢れると、坂本さんは困ったように微笑む。
「いや、ワシなんぞ何も……ああ、それやったらここで見せてもろうたきに。まっこと驚いたぜよ」
命の洗濯ができたと、坂本さんは顔を引き締めた。
汚れを落としてアイロンをかけた袴にはパリッとしたヒダが戻っているし、着物も繕った。ここへ来たときよりもずいぶんと小綺麗だ。そして、それが才谷さんの決意に満ちた佇まいをより引き立てている。
「阪本さんにはいずれ、海外へ出てみて欲しいわあ。きっと、気に入りはると思うんです」
「いつかこの仕事が終わったら、ぜひとも行きたいぜよ。ワシも飛行機にも乗りたいのう」
飛行機はいつごろできるのだっただろうか。乗れたらいいな、と思った。もしと暗殺されずに済むならば、そんな未来もあるかもしれない。
「それまで、生きてくださいね。ほんまに」
「おう。ワシらの働きが、あかねさんの居るこの時代に繋がるんじゃ。少なくとも、それまでは死ねんちゃ」
才谷さんはそう言い終わるや否や、わたしをぎゅっと抱きしめた。
「達者でな。あかねさん。ご亭主と仲良くのう。おおきに」
才谷さんは笑ってそう言ってわたしを離すと、あっという間に箪笥の中に消えていった。最後に残した大きくて明るい笑顔を、わたしはきっと忘れない。
2023/08/18
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