迷子のいごっそう

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迷子のいごっそう

 午後の光りが徐々に薄らぎ、夕暮れの気配があたりに漂う頃のことだった。夕食のために焼いているサンマがいい匂いを漂わせ始めている。  わたしは取り込んだ洗濯物を畳んでいた。  箪笥の傍らに洗濯物を置いて、引き出しを開けようと取っ手に手をかける。すると、突然引き出しが音を立てて勢いよく開いた。それと同時にその中から男が飛び出して、そのままわたしの後ろにどさりと落ちる。  わたしは驚いて叫び声を上げた。その場に尻餅をついた時、辺りにはなぜか醤油の香りが漂っていた。  突然現れた見知らぬ男を、わたしはお恐る恐る振り返る。  男は痛いと唸りながら、大きな体をゆっくりと起こしてあぐらをかいた。彼はボリボリと頭を掻き、ぐるりと周りを見回す。ぽかんとして「何が起こったのかが分からない」と、いった顔つきをしている。  男は、紋の付いた黒い着物に袴を着けて、左の腰には短い刀の様な物を下げている。しかし、着物はドロドロに汚れ、袴もヒダがどこにあるのかわからないくらいにヨレヨレだ。どうしたらこんなに汚せるのかと思うほどの酷い有様だった。  また、髪は一応後ろで纏めてある。だが、酷い癖毛で(びん)のあたりはそそけ立ち、ボサボサだ。  男はまるで時代劇から抜け出てきた侍のようだが、とにかく不潔そうに見える。不信感も相まって、わたしは思わず顔をしかめた。  目の前にいる人物と起こった事に唖然としていると、男もわたしの存在に気が付いた。すると彼は、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべて「こんちゃ」と言った。わたしはゴクリと唾を飲み込む。  どう見ても変な人に見えるし、少し臭う。動物園でこんな臭いを嗅いだ事があったような気がする、と思った。  大声でも上げて助けを呼ぼうか。それとも警察を呼ぼうか。何れにせ、よこんな時に限って夫は長期出張中で当分帰らない予定である。  突如起こった緊急事態からとにかく身を守る為に頭を忙しく働かせていると、男はわたしに話しかけてきた。 「おや、近江屋にはこんな部屋もあったがか」 「……近江屋? 」  何の事だかさっぱりわからない。わたしが聞き返すと、男はさして気にしない風に続けた。 「しばらく世話になっとろう。ほれ、ワシじゃ。才谷ぜよ、才谷梅太郎」 「あのう、ここはわたしの家ですが……。宿やありません」  わたしがそう言うと、才谷と名乗った男は目をぱちくりさせた。彼は驚きながら慌てて謝る。 「なんと、ほんまか。こりゃあすまんかった。しかし、おまん、何ちゅう恰好をしゆうんじゃ。まるで夷人のようじゃき、京では危ないぜよ。それにしても、なかなか斬新やのう」  危ないと言われて、自分の服装を見下ろした。今日はベージュの薄いシャツワンピースを着ている。ごく一般的なそれは、決して変わった格好ではない。 「京? 危ない? 何で──」 「……んんん? おまん、もしや、お加尾さまかよ? 」  今ひとつ飲み込めずにいるわたしを気に留めず、男はわたしの質問を遮り、質問を被せた。わたしの顔を見て、何かはっとしたような表情をしている。けれど、それは人違いだ。少なくとも、わたしは彼を知らないのだ。 「……違います。それより、何で箪笥にいたんですか」 「ワシが? 箪笥に? ほんまか? 」  男は顔を上げて首を捻った。腕を組んでじっと考えている。  ふと、出たままになっていた引き出しに気が付いた。大の男がこんな所に入っていたのだから、中身はさぞ荒れているだろう。それに、何か盗られているかもしれない。慌てて引き出しの中を覗いく。しかし、引出の中は何事もなかったかのように、整然と洋服が並んでいた。 「あれ……」  中身が無事なのだから良いのだが、なんだか拍子抜けしまう。わたしは、男と引き出しを交互に見比べた。その時、男ははっと閃いた様子で突然ポンと手を売った。 「そうじゃ。近江屋に見慣れん箪笥があったがじゃ。そん引き出しを開けたら中に吸い込まれてしもうて、気づいたらここに居った」  思い出したように「そうじゃそうじゃ」言い、一人で勝手に納得している。泥棒の新たな手口だろうかとも思ったが、本当に泥棒ならもっと見つからない手口を考えるだろうと考え直す。  とは言え、男の言い分は信じがたい。それに、男の腰にある刀のようなものも気になる。知らない人間が家に現れるだけでも恐怖なのに、武器まで持っているなんて信じたくない  わたしが押し黙っていると、男は次第におろおろし始めた。 「ワ、ワシは怪しいもんやないきに。そう怖がらんでくれ」 「そうは言っても……」  怖がるなと言われても、怖いものは怖い。わたしは硬い表情でじっと見ていると、男は所在なさげにますます縮こまってしまった。 「ワシ、そろそろ帰ろう思うんやけんど、ここは京のどのあたりじゃろうか。教えとうせ」 「ここ、大阪ですよ」  才谷さんとやらの耳がぴく、と動いた気がした。怪訝な顔をして、再度わたしに聞く。 「なぬ? 大阪? ワシは確かに京に居ったはずやけんど、おかしいのう? 」 「でも、わたしはずっとここにいました。だから、大阪です」  わたしは才谷さんの顔をじっと見る。彼は両手を着物の袖の中へ入れて、頭を悩ませているようだ。そんなことよりも、わたしは早く出て行ってほしい。 「うーん。困った。しかし、早よう帰らんと……はっ」  才谷さんは、ガバッと顔を上げた。まるで「しまった」と顔に書いてあるようだ。 「ど、どうしました? 」 「刀を、部屋に置いてきてしもうた」  坂本さんは肩を落とし、しょんぼりとしている。大きな体が小さく見えるほど、頭を項垂れた。 「腰に、差してあるのは……? 」 「こりゃあ、脇差しぜよ。これでは少々心許ない。京は物騒やか」   気恥ずかしそうに苦笑いして、才谷さんはポリポリと頭を掻いた。 「あの、今時そんな物持ってる方が物騒や思いますけど……? 」 「そうか? 」 「それより、それ、本物やったんですか」  わたしは思わず、才谷さんの脇差しをじっと見つめながら言った。 「おう。えいじゃろ。ワシのお気に入りじゃ。この鞘がなかなか凝っておってのう、ここは……」  そのまま刀の自慢話が始まってしまった。  どう見ても不振人物なのに、何故だかもう憎めない。恐怖もだんだん消えてゆくのを自覚すると、むしろお茶目だとす見えてくる。  初めは怖かった。けれど興奮気味に刀の自慢をする男の様子からは、少なくとも斬られる心配はしなくてもいいかもしれない、とまで思えた。  ふと、才谷さんの動きが止まった。一点をじっと見つめて動かない。その目線の先を辿ると、壁にかけてあった日めくりのカレンダーに行きついた。彼は目が悪いのか、少し目を細めて見ている。  その表情をどこかで見たような気がする。けれど、どこで見たのかは思い出せない。そもそも先程初めて会ったばかりなのに、それもおかしな話しだ。  わたしが思案を巡らせている間にも彼は未だ微動だにせず、穴の開くほど日めくりを見つめていた。  「あ、あの、才谷さん。その日めくりが、どうかしましたか」 「ん、あ、いや……今日は、10月13日かと思うちょったんじゃが」  わたしが声をかけると、才谷さんはゆっくりと振り向いた。震える指で日めくりを指し、恐る恐る日付を確認する。 「まだ9月ですよ? 」 「それに、あれは……へいせい、と読むんがか? ありゃあなんじゃ? 」 「何って、年号ですけど。知らへんような事はないでしょう? 」  才谷さんはますます困惑した顔をした。軽く首を横に振り、続いた言葉に今度はわたしが唖然とした。 「いや、知らんちや。おまんこそ、今は慶応やなかったがか」 「慶応? 慶応いうたら、150年は昔の年号やないですか」 「ほ、ほんまか? そんな……そんな冗談はいかんぜよ」  才谷さんは困惑を通り過ぎて、段々顔が青ざめていく。 「ホンマですよ。嘘やと思うなら、新聞でもニュースでも、いくらでも証明できますよ」 「しんぶん? にゅうす? 」  才谷さんは首を捻った。わたしは彼に今日の新聞紙を見せたが、彼はどうもピンと来ていない。 「けんど、そんなこと言うたち……まあ、とにかく。ワシは帰るぜよ。邪魔をした。玄関はどこじゃろうか」   才谷はそう言って立ち上がり、キョロキョロと玄関を探し始めた。彼を案内して玄関に来ると、才谷さんはまたしょんぼりとした顔をした。 「そうじゃ、ワシ、草履もないんじゃった。すまんが、貸してくれんかの」 「ありませんよ。草履なんて」  才谷さんは愕然とする。 「草履が、ない? ほうか、ワシ、えらい嫌われてしもうたんじゃな」  才谷さんはそう言うと、益々しょんぼりしてしまった。 「いえ、そうじゃなくて、我が家には草履はないんです。誰も履けへんから」 「……しゃあない。裸足で帰るか。それにしても、大阪にもこんな洋館があったがか。グラバーさんの屋敷を思い出すぜよ。お上に目を付けられはせんがか」  果たして感心されたのか、それとも心配されたのか、またしても話を飲み込めないでいるうちに才谷さんはドアを開けた。  けれど一歩踏み出し、外の景色を目にした才谷さんは、そのままピタリと動きを止めた。 「ここは、ほんまに大阪なんか……? 」  才谷さんは目を見開いて、辺りの風景をじっと見ていた。  空はすっかり暗くなっており、ぽつぽつと街灯が灯り始めている。空にはぽっかりとまん丸の月が浮かび、そこを飛行機がすっと横切っていく。  8階立てマンションの最上階は眺めは良いが、特別珍しい事はないと思う。けれど、才谷さんは、信じがたい、というような面持ちで立ち尽くしていた。  才谷さんのノブを掴む手はプルプルと小刻みに震えて、足元も崩れそうなのを必死で絶えている。その様子は冗談だとか、ふざけいる、などという雰囲気ではない。本当に、心底困惑しきっているようだった。  追い出そうとしていたものの、だんだん気の毒に思えてくる。本当に150年前から来たのだとしたら、この時代に彼が帰る場所なんてあるはすがない。  気が付けば、わたしはたまらず声をかけていた。 「あ、あの、才谷さん。よかったら、お茶でも飲んで行きませんか」  才谷さんはノブを掴んだまま、くるりと振り向く。 「けんど、おまん。迷惑やないんか」 「でも、行くところ……ないんでしょう? 」 「しかし……」  渋い顔をして、身の振り方を決めかねているように見える。 「それに、今から京都に行っても近江屋はもうありません。寺田屋は、昔に復元した建物が伏見に残ってるそうですけど……」 「……近江屋が、ない? なんで知っちゅうがか」 「跡地の石碑と、説明書きみたいなんだけ残ってるそうです。わたしは見に行ったことはないけど、有名な話です」  才谷さんは暗い顔をして、どんよりと落ち込んでしまったようだ。わたしはそっと玄関を閉めて、彼をリビングに通した。
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