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人違い
わたしは座布団の上で、ちくちくと針を動かしていた。
日が落ちてから針仕事をすることに才谷さんは驚いたが、今や行灯よりも明るい便利な道具がいくらでもある。問題ないと始めたものの、黒っぽい生地に黒い糸を使うとなると、やはり昼間の方がよく見える。次からは昼間に済ますべきかと、すぐに思い直しているところだ。
才谷さんの着物は、あちこちに破れたり解れたりしている所がある。一見すると浮浪者のようで、あまりにもみすぼらしかった。なのに、それを着ている本人は全く気に留めていない。
香水を使うほどの洒落者なのに、服装に関しては相当な無頓着だ。そこで、わたしには和裁の経験はないのだが、せっかく家にいるのだからと着物を繕い始めたのだった。
才谷さんはわたしが貸した夫のスエットを着て、リビングのフローリングの床の上にごろりと寝転がっている。そして、瞬きもせずにじっとこちらを見ていた。
今はテレビも消していて、針を動かす音が部屋中に響きそうなほどしんとしている。
才谷さんから注がれる視線がこそばゆい。1メートルほど離れているとはいえ、真正面からのあからさまな視線に、わたしは耐えかねていた。
「……なんですか? 」
「いや、なんでもないがよ。あかねさんが縫い物しゆうところを見よるだけやきに、気にせんちょき」
眩しいほどの笑顔でそう言うが、あまり居心地は良くない。好意的なのはよく分かるけれど、変に緊張してしまう。
着物の裾を広げて、縫った場所の出来栄えを確認する。次に繕うべき場所を探しながら、口を開く。
「そんなにじろじろ見られたら気になります」
「うーん、そうかえ?おまんは何度見てもお加尾さまによう似ちゅうと思っての」
視線が外れそうにない。せめて自分は才谷さんを見ないようにする事にしたのだが、自分とよく似ているという人のことは気になる。
裾は縫い終わった。次に袖を広げてみると、袖口はほつれて縫い代が飛び出しているし、脇のあたりは大きく破れていた。これは恐らく、みやつぐちとは別だろう。随分と派手な破れ方だ。
「お加尾さまって、誰ですか? 」
「土佐での知り合いぜよ。友人の妹やき」
「へえ、どんなひと? 」
「和歌も楽器も嗜む才女じゃった」
才谷さんは、寝ころんだまま返事をする。チラリと彼を伺うと、どうやらお加尾さまとやらの顔を思い浮かべているらしい。少し上を向きながら、嬉しそうに頬を緩めている。
「仲良しやったんですね。なんや楽しそう」
「おう。ワシの初恋やき、よう覚えちょる」
才谷さんは照れたように、鼻の下を指でゴシゴシ擦った。
「わあ、素敵ですやん」
「けんどのう……土佐は身分制度が厳しいきに。お加尾さまの家は上士じゃが、ワシは郷士。ワシの身分では、なんぼ好いちょっても一緒にはなれんちや」
「え? そんなもんなんですか? 」
わたしは思わず手元の着物から目を離し、才谷さんの方を見た。才谷さんは不愉快さをなるべく押しとどめようとしているような、複雑な表情をしていた。
「おう。どうもならん」
「……なんや理不尽やわ」
「他にも馬鹿げた制度がこじゃんとあるがよ。列強に対抗しゆう力が要る今、このまま幕府に任せておいたら日本がダメになる。だから、ワシは日本を洗濯しよるんじゃ」
急に険しい表情に変わった才谷さんは、勢いよくがばりと起き上がった。アグラをかいて、ぎゅっと拳を握りしめる。
「洗濯? ……その台詞、どっかで聞いたことがあるような……? 」
誰から聞いたんだろう。思わず考え込むわたしを見て、才谷さんは一瞬だけ怪訝な顔をした。けれどすぐにふわりと微笑んで、座ったまま膝行するようにしてわたしに近づく。わたしの針仕事をする手元を覗き込みながら、さらに話を続けた。
「しかし、あかねさんがこういう事を知らんちゅうことは、今の日本には身分なんぞないんやろう。えい世の中になっちゅう証拠やとワシは思うがよ。ワシらぁのしゆうことが、実を結んだがかのう」
才谷さんはにっこり笑った。大輪のひまわりを連想するような、明るくて力強い笑顔だ。その顔のまま、今度はお腹の辺りをぼりぼりと掻きながら大あくびをする。その仕草が何とも可愛らしく、先程の勇ましい台詞とのギャップが堪らなかった。
わたしは縫い物を再開するふりをして下を向き、こっそり笑った。
「しかしのう。お加尾さまとはもう今生では会えんと思うちょったが、まさかここで会えるとはなあ。しかも腹にはお子までおったき、嬉しいのう」
「わたしはお加尾さまと違いいますよ」
「わかっちゅう、わかっちゅう。けんど、おまんはまっことよう似ちゅうがよ。ちくと思い出に浸らせてくれ。初恋に破れた男への情けと思うて、のう」
そう言って、才谷さんは再びその場に寝転がった。ごろごろしながら、またじいっとわたしを眺める。
才谷さんは目が見えにくいのか、時々目を細くする。まるで凝視するような見方だ。
今の才谷さんは、それは嬉しそうな顔をしている。物思いに沈んだような憂いは、すっかり鳴りを潜めた。
一方わたしは、才谷さんの目を細めた顔がどうにも引っかかって仕方がなかった。
先程の台詞といい、目を細めた顔つきといい、何か知っていそうなのに、あと少しのところが繋がらない。いくら考えても思い出せず、頭の中がもやもやする。きっと知っているはずなのに、肝心なところに霞がかかっているような感覚だ。もどかしくて仕方がなかった。
満月まで後少し。その頃に、もう一度実験してみるつもりだ。
もしも才谷さんの仮説通りだったなら、彼は次の新月の夜に帰ってしまうだろう。普通の日常は恋しいが、この賑やかで人懐っこい侍が居なくなるのも少し惜しい。早く帰って欲しい気持ちと、名残惜しい気持ちが同居している。
元は会うはずのなかった相手だ。いずれ別れる時が来る。そして、それで良いのだ。
寂しくなるな、とわたしはもう一度才谷さんを眺めた。
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