第1章

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第1章

 ……………。  ……………。  ……………。  ……目が覚めると、見知らぬ白い天井があった。  ここはどこなのだろうか?  自分は今どんな状況なのだろうか?  よくわからない。  何も思い出せない。  頭は霞がかったようにボンヤリしている。  全身がすごくダルい。  俺は何も考えられず、しばらく白い天井を見つめた。  ……………。  ……………。  ……………。  ……………。  ……意識が少しずつハッキリしてくる。  どうやら俺はベッドのようなものに横たわってるらしい。  それは感触でわかった。  ここはどこなんだろうか?  周りを見る為、首を横に動かしてみる。  すると目の前には、イスに座ってスマホをいじってる中学生ぐらいの女の子がいた。  ……………。  ……………。  ……………………誰?  見知らぬ女の子を見つめてると、ふいに目が合った。  女の子はスマホを持って硬直したまま、こちらをガン見してきた。 「………」 「………」  お互い、無言で見つめあう。 「………」 「………」  なんだこの空気? 「……目、覚めたの?」  女の子は驚きと心配が入り混じったような表情をしていた。 「大丈夫? どっか痛いトコない?」  痛いトコ?  言われて考えてみたが、特に痛い所はない。  俺はごく小さく首を振ってノーの意味を伝えた。  寝ながら首を振ったので、上手く伝わったかどうかはわからない。 「ちょっと待って。お母さん呼んでくる!」  そう言った女の子が、やや急ぎ足で部屋を飛び出していく。  おいちょっと待ってくれ。  誰なんだキミは?  改めて部屋を見てみると、ここは病室だという事がわかった。  ベッドの横には点滴みたいなものがあったし、それが俺の腕に繋がれていたからだ。  他に入院患者はなく、どうやらここは一人部屋らしい。  ………点滴?  俺は病人なんだろうか?  ……………。  ……………。  ………いや、違う。  俺は病人ではなく怪我人だ!  思い出した!  俺は交差点でトラックに跳ね飛ばされるという事故に遭ったのだ!  トラックに跳ね飛ばされた大きな衝撃は覚えてる。  いやまったく、よく生きてたなーと思うよ。  ……………。  ……そうか。  死ねなかったのか……。  事故に遭う直前、死んでもいいと思っていた事も思い出した。  避けようと思えば避けられたけど、俺はぼーっと立ち尽くしたままトラックに跳ねられたんだ。  もう死んでもいいと思って。  初恋の人である藤谷茉奈。  彼女と同じ場所で死ねるなら、それも悪くないって、そういう恥ずかしい事を考えたのも覚えてる。 「茉奈!?」  歳は三十台後半ぐらいだろうか。  慌ただしく部屋に入ってきた女性が、そんな事を言ってきた。  傍らには、さっきの中学生の女の子もいる。  お母さんを呼んでくると言われたのだが、俺のお母さんではなく彼女のお母さんらしい。  それはともかく───  ───え???  さっき茉奈って言ったよね?  俺、恥ずかしい妄想、口に出したっけ?  まさか妄想聞かれた!? 「大丈夫なの!? あなた!?」  その女性は俺に向かって言った。  ……いや、大丈夫じゃないっす。  初恋の人と同じ場所で死にたいとかいう恥ずかしい妄想知られて、死にたくなったっす。 「びっくりしたわよ、事故に遭ったと聞いて。あなた丸一日寝てたのよ?」  この女性も見覚えがないのだが、親戚の誰かだっけ?  隣にいる中学生ぐらいの女の子も、誰なのかわからない。  たぶんこの三十代後半ぐらいの女性が、この中学生女子のお母さんなのだろう。  それはわかる。  だが、どこの誰なのかがわからない。  娘もお母さんもけっこう美人なんだけど、こんな美人親子の親戚いたっけ……? 「……誰?」  俺の口からポロっと疑問がこぼれた。 「え!?」  美人親子の親戚は揃って「え!?」という顔をしていた。  忘れられてショックだとしたら申し訳ないな。  だが、思い出せないものは思い出せんのだ。 「誰だっけ?」  俺はもう一度たずねた。  自分の声がいつもより甲高いのは事故の影響なのだろうか?  事故で声帯にダメージを負ったとか? 「……それ本気で言ってるの?」  俺の言葉に、お母さんはものすごく不安そうな顔をした。  同じく不安そうな顔になった女の子が口を挟む。 「ね、冗談だよね? 私の事はわかるよね?」  いや、わからないんですけど?  そんなウルウルした目で見られても困るぞ。  でも「知らない」とか言ったら泣かせてしまいそうだ。  とっさの判断で、俺は適当にごまかすことにした。 「いや、あの……ゴメン。なんか記憶がボンヤリしてて……」  そう言うと、美人親子は顔を見合わせて怪訝そうな顔をした。  どう対処したらいいかわからなくて困惑してる感じ。 「………」  場が妙な空気に包まれる。  なんだ? 俺が悪いのか? 「……ね? 自分の名前、言ってみて? お姉ちゃん」  お姉ちゃん?  なんだよ、お姉ちゃんって!?  なんで俺がお姉ちゃんなんだ!? 「お姉ちゃんって誰のこと?」 「!? なに言ってんの!? お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょう!?」  知らない俺が悪いみたいになってるけど、わけがわからん。  誰なんだ、この子は。  なんで俺を「お姉ちゃん」呼ばわりするんだ?  もしかして何かのドッキリなんだろうか?  いや、だが、トラックに跳ねられた入院患者に普通ドッキリなんて仕掛けるか? 「自分の名前は? 住所は? 生年月日は? 言ってみて?」  俺の名前は本田滉太なのだが、それは不正解な気がする。  自分の名前が間違ってる気がするというのも変な話なのだが、そう思ってしまったんだから仕方ない。  それは、この女の子が求める答えではないような……。  いや、この女の子が求める答えを出す必要もないのだが、なんだかその……間違った答えを返してはいけないような気がして……。 「………」  俺が黙ってると、見かねたのかお母さんが言った。 「沙織、そんな尋問みたいなマネやめなさい」  お母さん、ナイスフォローです。 「あんな事故に遭って大変だったんだから、お姉ちゃんは……」  いや、だからお姉ちゃんじゃないっての!!  あなたまで俺をお姉ちゃん呼ばわりって、どういうこと!?  あなた方には、男の俺がお姉ちゃんに見えるのか!?  いったい俺のどこがお姉ちゃんに見えるのか、問いたい。  問い詰めたい。  小一時間、問い詰めたい。 「お姉ちゃん、この写真は覚えてる?」  女の子がスマホの画面をこっちに向けてきた。  女子二人のプリクラ写真。  一人は目の前にいる、この子だとわかる。  そしてもう一人は─── 「!?」  あれ!?  これって!!! 「藤谷……茉奈……!?」  スマホに写っていたのは俺の初恋の人、藤谷茉奈だった。 「そうだけど……なんでフルネーム?」 「まあ覚えてたんだから、いいじゃない」  不思議そうな顔をしてる娘に母親は笑って言った。 「そうよ。あなたは茉奈。で、私はあなたのお母さん。こっちは妹の沙織。思い出した?」  俺が藤谷茉奈?  なに言ってんだ? この人は?  冗談にしても笑えない。  やっぱこれドッキリなんじゃねーの?  だけどなんか、冗談ではないような雰囲気も感じる……。 「……鏡、見せてくれる?」  不安な気持ちを押し殺して言うと、お母さんがコンパクトミラーを貸してくれた。  左腕は点滴の針が刺さってるので右手でミラーを受け取る。  そして鏡を見てみるとそこには───  なんだコレ!!!??? 「え!? これ……藤谷茉奈……だよね……!?」  思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。  鏡には俺、本田滉太の顔ではなく、なぜか藤谷茉奈の顔が写っていたのだ。  ……………。  ……………。  ……なにこれ!!?? 「当たり前じゃん。っていうか、さっきからなんでフルネームなの?」  沙織と呼ばれた女の子は呆れたように笑った。  俺は鏡の前で片目を閉じたり口を動かしたり、これが本当に自分の顔なのか確認するのに必死になっていた。 「顔にどこか痛い所でもあるの? 足は骨折したけど、顔に傷は無いわよ?」  お母さんが俺に言う。  どうやら顔に傷を負ってないかチェックしてると思われたらしい。 「それよりどこか痛かったりしない? 足の骨折以外に外傷は無いって話だったけど、大丈夫?」  お母さんは心配そうな表情で聞いてきた。 「大丈夫。どこも痛くないよ」  足を骨折してるとのことだけど、麻酔が効いてるからか足は全く痛みがない。 「……あの、悪いんだけど……ちょっと一人にしてもらえるかな? もうちょっと眠りたくて……」  眠くはなかったが俺は嘘をついた。  とにかく今は一人になりたい。  一人になって落ち着く時間がほしかったのだ。 「うん、そうだね。わかった。あんな事故の後だもんね。ゆっくり休むといいよ」 「お姉ちゃんを手術した先生、麻酔をたくさん使ったとか言ってたから、そのせいかもね」  お母さんと沙織ちゃんは、いたわるような目を向けてきた。  こういう気遣いは助かる。 「担当のお医者さんは後で来るみたいだけど、なにか困った事があったらナースコール押してね」 「わかった」  二人は部屋から出ていった。 「ふぅ……」  一人きりになった瞬間、俺の口からは勝手にため息が漏れた。  何がどうなってるのか、わけがわからん。  不安な気持ちで、もう一度鏡を見てみる。  ……………。  ……やっぱり藤谷茉奈だよなあ……これって……。  彼女は五年前だったか六年前だったかに死んだはずなんだが……。  ベッドのネームプレートも、ご丁寧に『藤谷茉奈』様と書いてあった。  ……そうだ。  顔は藤谷茉奈で間違いないが、体はどうなってるんだろうか?  ……………。  ……おそるおそる股間に手を伸ばしてみる。  ……………。  ……………。  ……………。  ……………………………ない。  ないよ!  あるべきはずのものが!  いや、顔は藤谷茉奈なので、股間にアレがあったらあったで驚きなんだけど!  それでも無いというのはショックだった。  代わりに胸を触ってみると、こっちは柔らかい膨らみがあった。  これもう、どう考えても女の体───というか、藤谷茉奈の体じゃん!  どうやら俺は本田滉太ではなく、藤谷茉奈の体になってしまったらしい。  初恋の人と同じ場所で事故に遭ったら、なぜか初恋の人になってしまった。  なに言ってるのかわからねえと思うが、俺自身もわからねえ。  ダメだ。混乱してきた。  病室によくあるテレビを置く台、いわゆる床頭台の上にあったスマホを手に取ってみる。  可愛いストラップのついた、いかにも女の子が持ってそうなやつ。  他人のスマホを勝手に見るのは気が引けたが、今は非常事態だ。  状況を整理するため大目に見てもらいたい。  いや、今の俺は藤谷茉奈なので”自分の”スマホを見るのは問題ないのかもしれんが。  とにかく、今は状況を整理する為の情報がほしい。  どんな情報であっても、自分が藤谷茉奈になる以上の衝撃はないだろう。  ……と思っていたのだが、俺はそれ以上の衝撃を受けることになる。 「うぇ!?」  スマホを見た瞬間、俺は変な叫び声と共に目が点になった。  画面には『2017年 12月』の文字が表示されていたからだ。  今は『2023年 3月』のはずなのに……なんだこれ?  一瞬スマホの故障を疑ったが、その一方で故障ではなく2017年が正しいという思いもしている。  だって今が2017年なら、藤谷茉奈が事故で死んだ時期とだいたい一致するのだから。  しかし2017年が正しいなら、俺は六年前へタイムスリップした事になっちまう。  体が藤谷茉奈になっただけではなく、タイムスリップ?  2023年から2017年へ?  ……………。  ……なんだこれ……………。  わけがわからな過ぎて頭がパンクしそうだ。  なんかいろいろあり過ぎて疲れた……眠い……。  俺はゆっくりと目を閉じた。  目が覚めたら、この悪夢が終わってればいいなと思いつつ……。 * * *  翌朝。  目覚めると俺は……元の本田滉太の体に戻っていた。  ……なんて事はなく、藤谷茉奈のままだった。  夢じゃなかったのか……。  どうやら俺の魂というか心は、藤谷茉奈の体に入ってしまったらしい。  理屈はわからないが現実がそうなのだから、そう考えるしかない。  いろいろあったが、状況を整理するとこうなる。  俺、本田滉太は2023年に交通事故に遭う。  目覚めると、初恋の女の子だった藤谷茉奈の体になっていた。  しかも目覚めたのは2017年で、六年前にタイムスリップしていた。  俺の記憶では、本来の藤谷茉奈は中学三年の冬に交通事故で死亡している。  そして今は十二月。  時期的に同じ事故だというのは間違いない。  事故で死ぬはずだった藤谷茉奈は死を免れ、今も生きてる。  ただし中身は俺、本田滉太なのだが。  つまり”俺が知ってる過去”は変わったことになるんだ。  藤谷茉奈の魂? 心?  なんて言えばいいのかわからないけど、それは消えてしまったのだろうか?  俺が藤谷茉奈の体に入ったという事は、彼女の魂は”今の時代の本田滉太”の体の中に入ってるんだろうか?  心と体が入れ替わったとしたら、どうやって元に戻ればいいんだろうか?  もう一度トラックに跳ねられたら戻るとか?  しかし次も生きてる保障はない。  冷静に考えてみると、トラックに跳ねられるってイヤすぎる。  というか、そもそも何故こんな事態に?  疑問は尽きないが、今は考えててもしょうがない。  なんせ俺は……というか藤谷茉奈の体は足を骨折していて、入院中という状態なのだ。  病院内の移動だって車イスなしではままならない。  コンコンというドアをノックする音。 「おはようございまーす」  という声と共に、看護師の女性が入ってきた。 「おはよう、茉奈ちゃん。よく寝られた?」  茉奈ちゃんって俺のことだよな?  慣れてないと違和感ハンパないわ。 「はい、まあ……」 「体温測りたいんだけど、自分で出来る?」  看護師さんは体温計を差出しながら尋ねた。 「ええ、たぶん」  俺は体温計を受け取った。 「測る場所はわきの下ですか?」 「それでOKだよ」  こう聞いたのは、胸をはだけるのが照れると感じたからだ。  いいんだろうか、そんな事して。  ……あれ?  そういや点滴がなくなってるや。 「昨日、左腕に点滴されてたと思ったんだけど、もう終わったんですね」 「ああ、終わったから外したの。夜、あなたが寝てる間に」 「そうでしたか」  俺は左のわきの下に体温計を当てた。  申し訳ないが、患者用パジャマのボタンは外させてもらった。  全部脱ぐより、なんかエロいな、これ。 「体はどんな感じ? どこか痛い所ある?」  麻酔が切れたからなのか、左足に鈍い痛みを感じる。 「左足を動かすと少し痛いです……」 「骨折してるからね。ギプスしてるとはいえ、あまり動かしちゃダメよ」 「いつ治るんでしょうか?」 「後でまた担当の先生から説明あると思うけど全治2~3か月だって。しばらくは車椅子と松葉杖で我慢してね」  不便そうだな。  でも、骨折ならしょうがないか。 「左足以外に痛い所はある?」 「いえ、特には」 「そう。何か違和感を感じたら遠慮なく言ってね?」  他人の体になったのが違和感です───と言ったら、驚くだろうな。  いや、驚くというか、全治3か月ではなく永遠に入院させられそうだ。  頭が変になったとかで。  「今って西暦何年ですか?」と聞いてみたい気もするけど、これもやめておく。  やっぱり頭が変になったと思われると困るので。  でも今の西暦は簡単に確認することが出来た。  お手洗いに行った帰り、談話室の壁にあったカレンダーを見たのだ。  そこにはしっかり書いてあった。  2017年の文字がね。  元号も令和じゃない。  しっかり平成29年と書いてあったよ。  どうやら藤谷茉奈の体になって、しかも六年前にタイムスリップしたのはまぎれもない事実のようだ。  理解が覚束ないけど、今はとりあえず現実を受け止めておくことにする。  本音は今すぐにでも俺に会いに───つまりこの世界の本田滉太に会いに行きたいけど、足も骨折してるし病院を勝手に抜け出すわけにもいかない。  まあこれはおいおい考えるとして、差しあたっての問題は───  これからどうやって過ごしていくのか、だ。  もっと具体的に言うなら、藤谷茉奈の家族や友達といった、人間関係全般をどうやって乗り切るか?  それが課題になってくる。  「実は俺、六年後の未来からきた本田滉太なんです」と正直に打ち明けても、受け入れてもらえるとは到底思えない。  それどころか頭のおかしな人扱いされるだろう。  だから藤谷茉奈を演じきること。  これが目下、俺に課せられた最大のミッションであり、一番重要な事柄なのだ。  でも、藤谷茉奈を演じきるって、どうやって?  どうしたらいいんだろう?  その日の午後。  診察を終えた俺は、藤谷茉奈の家族が来るのを病室で待っていた。  家族と接するのは不安もあるけど、大丈夫。  考えた末にひねり出した、ある秘策を使えば上手くいくはず……。 「茉奈」 「お姉ちゃん!」  お母さんと沙織ちゃんが病室に入ってくる。 「体はどう? 調子は?」 「左足を動かすと痛いけど、それ以外は元気だよ」 「安静にしなさいね。骨折してるんだから」 「わかってるって」  沙織ちゃんが俺に向かって、ファーストフードでよく見るドリンクカップを差し出してきた。 「??」 「あげる。苺シェイクだよ」 「ああ、ありがとう」  俺は礼を言ってカップを受け取った。 「……別のお土産のほうが良かった?」 「え、なんで?」 「だってストロベリーシェイク好きなはずなのに、あんまり嬉しそうじゃないから」  ヤバい!  本物の藤谷茉奈はストロベリーシェイクが好きなのか!?  もっと嬉しそうにするのか!? 「わ、わーい。嬉しいな!」 「………」  ……………。  ……………。  ……我ながら壊滅的な演技力だと思う。 「ぷ……ナニソレ。お姉ちゃんウケル! いいよ、無理に喜ばなくても」  沙織ちゃんは俺の三文芝居を見て笑い出した。 「いや、ゴメン。私の為に買ってきてくれたんだよね。ありがと。嬉しいよ」  俺が笑顔を向けると、沙織ちゃんは照れ臭そうな顔をした。 「キウイ買ってきたから剥いてあげるよ。皆で食べよ」  お母さんがデパートの袋からキウイのパックを取り出す。  キウイも俺の……というか藤谷茉奈の好物なんだろうか?  だとしたら合わせておいたほうが良さそうだ。 「キウイも大好きだよ! ありがとう!」  俺はややオーバーアクションで喜びを表した。 「あら? そうなの? アンタそんなキウイ好きだっけ?」 「……え?」  ち、違うのか!?  藤谷茉奈はキウイ好きじゃないのか!?  好物だからキウイを買ってきたんじゃないのか!? 「果物の中ではカルシウム豊富だからキウイにしたんだけど……骨折にはカルシウムが良いのかなって思って」  うぐ!  そんな理由だったとは!  ヤバいな。  やっぱなんかコミュニケーションがズレてしまう。  俺に藤谷茉奈の演技なんて無理だ。  これ以上、ボロ出す前に秘策を使ったほうが良さそうだ。  俺は心を落ち着かせて言った。 「ねえ、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」  お母さんと沙織ちゃんの二人がこちらを見る。  俺は二人を見ながら、考えておいた秘策を繰り出した。 「実はね、私……部分的な記憶喪失なの……」  俺が衝撃の告白をすると、二人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。 「………え?」 「はあああ!?」  まあ驚くよね。  記憶喪失なんて言われると。  でも許してほしい。  もう、こうするしかないんだよ……。 * * *  三日後。 「じゃ、また来るからね。何かあったらメールしなさい」 「ありがと。気を付けて帰ってね」  病室から出ていくお母さんを俺は笑顔で見送った。  記憶喪失と打ち明けてからも、藤谷茉奈の家族は普通に接してくれている。  打ち明けた直後は、さすがに慌てていただけどね。  今はもう普通の感じだ。  藤谷茉奈としてやっていく為にはどうしたらいいのか?  俺が出した答えは”記憶喪失のフリをする”というものだった。  こういう設定にしておけば、藤谷茉奈としての記憶がないことを怪しまれないからね。  周囲に嘘をつく後ろめたさはあったけど、これは仕方ない。  「実はオレ本田滉太なんです」なんて真実を話したら、異常者扱いされるに決まってるのだから。  家族も医者も俺の”記憶喪失”という演技を疑っていなかった。  これは後で知ったのだが、事故のショックで記憶障害になるケースというのはたまにあるらしいのだ。  種類も一時的な記憶障害や部分的な記憶障害など、いろいろあるらしい。  記憶は戻ることもあるし戻らないこともある。  記憶にこだわらず、今を大切に生きてほしいというのが担当医の弁。  担当医が家族を説得してくれたのかどうかは知らないけど、家族は俺に記憶を取り戻すことを強要せず、温かく見守る接し方になっている。  これは非常に助かる。  ともあれ俺は、記憶喪失の人というポジションを手に入れることに成功した。  これで藤谷茉奈の記憶がないことを誰にも怪しまれないはずだ。  それから数日後。  今日はクラスメートである、西野恵里香が見舞いに来ることになってる。  彼女は藤谷茉奈が一番仲良くしてた女子だったのを覚えてる。  この女の子も可愛かったから印象に残ってたんだ。  クラスの美少女ツートップって感じで。 「茉奈、久しぶり!」 「久しぶりだね、恵里香」 「………」 「………」  妙な間が空く。 「……私の顔は覚ええてくれたんだ?」  ああ、そういうことか。 「覚えてるよ。メールでも言ったけど、顔と名前は覚えてる人もいるのよ」 「忘れた人もいるんだよね?」 「うん。それはゴメンとしか言いようがない……」 「私はマシな部類で良かったよ。忘れられてたら、ショック受けたと思うんで……」  む、そういうものなのか。  人によって顔と名前が思い出せないのは申し訳ないな。 「とりあえず談話室行こう」  俺は場所替えを申し出た。  六人部屋より談話室のほうがゆっくり話せると思って。  事故直後は一人部屋だったけど後日、俺は六人部屋に移されたんだ。 「動いて大丈夫なの?」  恵里香が不安そうに聞いてくる。 「大丈夫だって。怪我したのは片足だけだから」  談話室。  面会に使われることが多い部屋だ。  幸い、今は俺たちのほか誰もいない貸し切りの状態だ。 「松葉杖、慣れた感じなのね。なんかサマになってたよ。松葉杖がサマになってるだなんて嬉しくないかもだけど」 「練習させられたからね。松葉杖の免許皆伝を目指して頑張ってるよ」 「それはすごいね」  冗談を言うと彼女は笑ってくれた。  松葉杖がないとトイレにも行けないので、松葉杖の使い方はすぐ練習させられたんだ。 「ところで記憶喪失って、どれくらい忘れちゃったの? 覚えてるのは顔と名前だけ?」 「正確には、覚えてる部分と覚えてない部分が混在してる感じだよ」 「それってどういう……?」 「例えばこのスマホの使い方は覚えてるし、ご飯食べる時の箸やフォークの使い方とか、そういう日常生活に関することは覚えてるの」  頷く彼女に説明を続ける。 「でも、どんな風に生きてきたのかがさっぱりで……わかりやすく言うなら思い出が空っぽの状態……といえば伝わるかな?」 「じゃあ例えば、修学旅行で私と一緒の班だった事も忘れちゃったってこと?」 「うん、ゴメン……修学旅行どこに行ったのかも覚えてないや」 「そっかあ……」  いや、ホントは修学旅行が京都だったこと覚えてるけどね。  本田滉太としての記憶はあるのだから。  でも俺は覚えてないと、嘘をついた。  だって学校に関する思い出は覚えてるのに、家族に関する思い出を一切覚えてないというのも変でしょ?  俺、本田滉太はクラスメートの事は知っていても、藤谷茉奈の家族の事はほとんど知らない。  クラスメートの事は覚えてるのに家族だけ過去を忘れ去られてる……となったら、家族としては悲しいじゃん?  あのお母さんと沙織ちゃんと、いい人そうだったお父さんを悲しませたくないというのもあってね。  俺は顔と名前以外は多くを忘れたという設定にしたんだ。  知らないフリをする、もどかしさはあるけどね。  藤谷茉奈の家族を傷つけずに済むなら、それに越したことはないから。  後日。  西野恵里香以外のクラスメートも見舞いに来たけど、俺は知らぬ存ぜぬを貫いた。  藤谷茉奈の家族の為に。  見舞いに来たのは全員、女子だった。  一番来てほしい本田滉太───というか藤谷茉奈は来なかった。  事故から一か月経っても。  結局、一か月経って退院する時になっても滉太は来なかった。  本田滉太の体の中には、藤谷茉奈の魂が入ってるはずなのだが、なぜ会いに来てくれなかったんだろうか?  学校に行ったら、たしかめてみたいと思う。 * * *  女の子なんだから一人称は”俺”ではなく”私”を使ったほうが自然だ。  でも気を抜くと”俺”とか言ってしまいそうなので、俺は心の中でも”私”を使うようにした。  そしてもう一つ。  ”この世界の滉太”は『コウタ』とイメージして呼ぶことにした。  考え事をする時に、ややこしくなるからね。  一月。  私はかなり藤谷茉奈として生活するのに慣れてきていた。  お風呂とかトイレとか最初は戸惑ったけどね。  わからないことはネットで解決した。  藤谷茉奈として生活できるのか?  という不安はあったけど、記憶喪失設定が不安を解決してくれた。  こっちが記憶障害だと、周りは勝手に気を使ってくれるんだ。  自分で言うのもなんだけど、記憶障害を装ったのは良い判断だったと思う。  おかげで藤谷茉奈の家族に対しても見舞いに来たクラスメートに対しても、ボロを出さずに対応できた。  女としての立ち居振る舞いは体に染みついてるようだった。  例えば本田滉太は右利きなのだが、私は箸やフォークを自然と左手で使っていた。  そう、藤谷茉奈は左利きだったのだ。  それと同じでイスに座る前はスカートをおさえたり、座ってる時は足をぴったり閉じるという仕草は自然にそうなった。  日常生活における所作や仕草を、藤谷茉奈の体が覚えてる感じ。  小股で静かに歩くとか、常に姿勢が良いとか、箸を上手に使って焼き魚を綺麗に食べるとかね。  意識してないのに勝手にそうなるのだ。  もともと彼女は育ちが良く、品の良い人間だったということなのだろう。  更に念のため、ネットでも女性についていろいろ調べたしファッション誌もたくさん読んだ。  藤谷茉奈としての生活は順調で、全く怪しまれていない。  たぶん学校生活も大丈夫だろうと思われる。  今日は退院してからの初めての登校日。  自分の部屋───というか藤谷茉奈の部屋で目覚めた私は、制服に着替えるべくパジャマを脱いだ。  足のギプスは取れてないので、着替えはベッドに座ったままだ。  ふと、全身を映せる鏡が視界に入る。  大きな姿見には下着姿でベッドに座ってる藤谷茉奈が映っていた。  う……。  慣れてきたとはいえ、やっぱりまだ少しドキドキしてしまうな……。  中学三年生とはいえ体は大人びてきてるし、何より初恋の女の子の下着姿だもんな。  ぶっちゃけ、かなりエロエロな気分になってしまう。  着替えの時パンツやブラジャーをガン見してしまうし、意味もなく胸を揉んだりしてしまう。  彼女の体をこんな風に扱うのは罪悪感あったけど、美少女が裸や下着姿になってたらエロい気分にもなってしまうというものだ。  風呂やトイレや着替えで、全部目隠しするなんて不可能だし……。  懐かしの学校。  松葉杖をついて教室に到着。  教室のドアを開けると、これまた懐かしいクラスメートの顔ぶれがあった。  うおおおお!  すげー懐かしい!!  病院に見舞いに来たのは女子だけだったので、男子を見たのは六年ぶりだ。  若いねー!  中学生だねー!  ちょっと気分が高揚してしまったわ。  ……って、あれ?  私の席って、どこだっけ?  中学三年の二月。  藤谷茉奈はどの席なんだっけ?  やばい!  わからない!  いくら初恋の人でも六年前の席なんて覚えてないぞ。  とりあえず近くにいた女子に声をかけてみる。 「おはよう」 「おはよう」 「ね、私の席ってどこだっけ?」 「え? ……ああ、あっちに変わったって。窓際の一番後ろ」  その女子は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに席を指差して教えてくれた。 「変わった? 席替えしたの?」 「そうじゃなくて、茉奈の席だけ変わったのよ」 「なんで?」 「松葉杖を立てかけて置くのに、後ろの席のほうが便利だろうって先生が」  なるほど。  一番後ろの席なら、掃除用具入れの前に松葉杖を立てかけて置ける。  窓際なら松葉杖が通行の邪魔にもならない。  なかなか考えられてるな。  こういう気遣いは助かる。  席に座ると女子たちがわーっと寄ってきた。 「今日から登校なんだね!」 「退院おめでとー!」  おお、さすが藤谷茉奈。  なかなかの人気者だ。  私は「どうもどうも」と人気者の気分に浸った。  たぶんハタから見ると顔はニヤけてたと思う。  いい気分に浸っていた私は更にテンションが上がった。  教室にコウタが入ってくるのが見えたのだ。  いたあああ!!!  いたよ!!!  この世界の私……というか俺が!!  私は思わずコウタに目が釘付けになった。  自分の姿を他人の目で見るなんて経験は、滅多に出来るもんじゃない。  ドッペルゲンガーを見てるような不思議な気分。  コウタが私の視線に気付き、目が合う。  ……と思ったのも束の間、コウタはすぐに視線を逸らし自分の席に座った。  ……………。  …………………あるぇ……?  ナニその対応?  その体の中には藤谷茉奈の”本人の魂”が入ってるんじゃないの?  私を見ても何も思わんの?  どういうこと???  それからも私はこっそりコウタの様子を観察したんだけど、向こうが私を気にかけてる様子は無かった。  ……あ、もしかして二人きりになるまで私との接触を避けてるのかな?  心と体が入れ替わったなんて、ヒト前でする話じゃないって事なのかな?  だったら気持ちはわかる。  二人きりで話したいというのは私も同じだから。  ……という事は、二人きりになるチャンスを作る必要があるね。  どうしよう?  話があるの……と呼び出すのは目立ってしまう。  コウタのメルアドは知らない。  というか覚えてない。  六年も前の自分のメルアドなんて。  メモや手紙でも送るか?  でも誰にも見られずに送る方法が思いつかない。  あーでもないこーでもないと思案していた休み時間。 「茉奈は自分が何委員だったか覚えてる?」  西野恵里香がそんな事を聞いてきた。 「えーと、覚えてるよ。たしか美化委員だよね?」 「あ、それは覚えてるんだ」  ん? 待てよ。  美化委員……?  ……………。  そうだ! 思い出したぞ!  藤谷茉奈は美化委員で、コウタも同じ美化委員なんだった!  昔の私こと───本田滉太は藤谷茉奈と同じ委員会というのが嬉しくて、委員会活動の日が楽しみだったんだ! 「ねえ、委員会活動の日っていつだっけ?」  私は恵里香にたずねた。 「今日だよ。だから聞いたんだけど」 「そっか。今日か!」  これはラッキーだ。  委員会活動はクラスごとのペアで動くことが多いので、コウタと二人きりになるチャンスが生まれやすい。  あ、もしかして、向こうもそれがわかってたから素っ気なかったのかな?  放課後は委員会の集まりがあるから二人きりになれる。  話をするのは、その時でいいだろう……と。  そう考えたら私に素っ気なかった理由も説明がつくなあ。  そして運命の放課後。  いよいよ委員会の活動の時間だ。  この日の活動は清掃用具の点検。  掃除用具は壊れてないか?  数はいくつあるかというチェック。  私とコウタは自分のクラスと図書室と社会科準備室の点検が割り振られた。  点検は各クラスの男女ペアで行われるので、必然的にコウタと二人きりになる。  自分のクラスの点検を終えた私とコウタは、社会科準備室前の掃除用具を点検していた。  さあ、待望の二人きりの状況だ!  今は周りにヒトもいないので、心置きなく話しかけることができる。 「ね、私に何か言いたいことがあるんじゃない?」  そう質問をぶつけると、コウタは怪訝そうな顔で私を見返した。 「言いたいこと……?」 「うん」  ほら、あるでしょ!  いっぱい!  言いたいことが!  見た目は本田滉太だけど、中身は藤谷茉奈なんでしょ?  言っちゃいなよ!  ユー言っちゃいなYO!  期待に満ちた目で私はコウタを見つめた。 「………」 「………」  何かを考える素振りをしていたコウタは、少し時間が経ってからゆっくり口を開いた。 「……いや、特にないけど……?」  ないんかい!!  溜めがあったので、何かあると思ってしまったじゃまいか!  しかし……あれ?  え? どういうこと?  あなたの中身は藤谷茉奈なんじゃないの? 「なんで言いたいことがある、なんて思ったの?」  逆に質問されてしまった。 「え、いや……ほら、私、部分的な記憶喪失になっちゃったでしょ? だからなんか聞きたいことないのかなーって……」  とりあえず適当にごまかす。 「ふーん」  下手な言い訳だったが、コウタは一応納得した様子だった。  この反応、中身は藤谷茉奈ではなさそうに思える。  だって藤谷茉奈本人だったら、もっと違った反応するでしょっていう。  あるぇ……?  肩透かしを食らった私をよそに、コウタが追加の質問をしてくる。 「俺の名前はわかる?」 「うん。本田滉太クンだよね」  自分の名前を忘れるわけがない。 「もちろん覚えてるよ」  私はそう付け足して軽く微笑んだ。  するとコウタは顔を赤らめて視線を逸らし、用具の点検を再開した。  初恋の人に笑顔を向けられたら、照れ臭くもなるよね。  ……って、この反応。  もしかしてコウタの中身は、そのまま本田滉太なの?    え? どういうこと?  この世界に本田滉太の魂は2つあるってこと?  そんなのアリなの?  一人は私、外見が藤谷茉奈の本田滉太。  もう一人は、外見も中身も本田滉太───通称コウタ。  この二人が共存してる?  だったら藤谷茉奈の魂はどこにいったの?  まさか藤谷茉奈の魂は消えてしまったとか?  あの事故で死んでしまったとか?  昔の私の記憶では今の時期、藤谷茉奈はあの事故で既に死亡している。  だからいなくなってしまった?  それはそれで、ありそうな話ではある。  なんだかよくわからないが、この世界に本田滉太の魂は2つあるらしい。  ということは、心と体の再度の入れ替わりは出来ない?  元に戻れない?  私は藤谷茉奈として生きていくしかないってこと? 「茉奈、まだ帰らないの?」  委員会活動終了後の誰もいない教室。  恵里香が私に言った。 「あ、いや、親が車で迎えに来ることになってるから待ってるの」 「そっか。骨折だもんね」 「恵里香は部活? ソフト部だっけ?」 「三年生なんだから、もう引退したよ」  そういや今は三年生で、時期は卒業を控えた一月なんだった。  ソフト部に限らず、三年生は引退してる時期だ。 「茉奈、大丈夫? 何か心配事?」 「え……?」 「いや、なんか思いつめた表情してたからさ」  恵里香ちゃん……なかなか鋭いな。  しかしまさか、私ホントは六年後の未来から来た本田滉太なんです。  タイムスリップしたら藤谷茉奈の体になってました。  元に戻る方法もわかりません。  これから藤谷茉奈として生きていかなくちゃならないのかと思うと不安です。  ───なんて言えるわけもなく─── 「大丈夫だよ。久しぶりの学校でちょっと疲れちゃったのかも」  と、適当にごまかした。 「そっか。足はどんな感じ? 痛みとかない?」 「痛みはないよ。走ったりするのは厳禁だけど」 「卒業まで残り少ないけど体育は全てサボれるね。そこはちょっと羨ましいかも」 「恵里香って運動嫌いなんだっけ? ソフト部なのに?」 「ソフトボールとバスケットボールは違うよ。ボールの大きさ全然違うし」 「体育サボりたければ恵里香もトラックに跳ね飛ばされてみる? 運が良ければ生きてるよ」 「ふふ、それは遠慮しとくよ」 「だね」  くだらない話で私達は笑いあった。  何度もお見舞いに来てくれた彼女とは、もう会話も慣れたものだ。  正直、女子の中では一番話しやすく感じる。 「まあ何か困った事があったら何でも言ってよ。私でよければ力になるからさ」 「うん。ありがと」  いい子だなあ。  ありがとう恵里香。  少し気がまぎれたよ。  もうあるがままに事実を受け入れよう。  私はとりあえず、藤谷茉奈として生きていく覚悟を決めた。  心と体の入れ替わりは無理そう───というか意味ないし、藤谷茉奈の魂も行方不明だ。  もう一度事故に遭うことも考えたけど、運が悪ければ死ぬからなあ……。  いや、もともと死にたがっていた私の魂など、どうでもいいのだけどさ。  夜。ダイニングで夕飯を食べてる家族の顔を、私は順に見やった。  藤谷茉奈の家族。  お父さん、お母さん、妹の沙織ちゃん。  この家族を悲しませるようなマネはしたくない。  それは心から思うんだ。  家族も友達も優しいし、このままずっと藤谷茉奈として生きるのも悪くなさそうに思える。  いや、悪くなさそうどころか、可愛くて頭も良くて、男女問わず好かれる藤谷茉奈なら幸福になれそうな気もする。  元の本田滉太の人生なんかより、ずっと幸せな人生を送れるんじゃないかってね。  この奇怪な現象に戸惑ったけど、元に戻る方法なんて考える必要ない。  あるがままに受け入れ、藤谷茉奈として幸福になろうと思う。  きっとそれが正解なのだ。  ……………。  ……………。  ……………。  ……………。  ……………。  ……………。  ………………ん? あれ?  ……………。  ……………。  ……………。  …………なんか忘れてるような……?  ……………。  ……………。  ……………。  ……あっ!!  あああーーーーーっ!!!  大事なことを思い出した私は、ベッドの上でガバっと体を起こした。  違う!!  違うよ!!!  私が幸せなら、それでいいってわけじゃない!!  このままいくとコウタは二十歳で死んでしまうじゃないか!  トラックを避けることが出来たのに、わざと避けないという愚挙で自殺しちゃったんだ!  もしかしたらコウタが死んでも、藤谷茉奈の体になった今の私は死なないかもしれない。  でも、そういう問題じゃないんだ。  コウタの死を放っておけるわけない。  だってコウタは他の誰でもない、自分なのだから。  幸い、私には過去というか未来の情報がある。  これからコウタの身に起きる不幸な出来事の全てを知っている。  この情報を使って、コウタの自殺を阻止できないだろうか?  辛い事がたくさん積み重なったコウタは、二十歳で心が壊れて自殺しちゃう事になる。  コウタは能力が低いゆえに辛い出来事が発生しやすく、しかも豆腐メンタルだから心が弱いんだ。  この心の弱さは積極的に自殺する勇気がなく、トラックをわざと避けないという消極的な自殺という方法にも如実に表れてる。  コウタの身にこれから降りかかる辛い出来事を、なんとか回避できないだろうか?  辛い出来事を回避できれば、自殺しても構わないなんて思わなくなるんじゃないか?  いや、きっとそうなるはず。  コウタを助けられるのは私しかいないのだ。  ここまで考えた時、私の中には大きな使命感が芽生えていた。  過去……というか未来を変えて、コウタを自殺から救ってみせる───という大きな使命感が。  こうして私の中で始まったんだ。  <本田滉太・自殺防止プロジェクト>というのが。 * * * 「え!? 進学先変えるの!?」  学校で進路変更を告げると、恵里香は予想外のオーバーリアクションで聞き返してきた。 「うん。東浜高校を受けるつもり」 「東浜って進学校じゃないよね? 中央高校はやめたの? なんで?」  中央高校というのは進学校で、元の藤谷茉奈が希望していたらしい進学先だ。 「中央高校は家から遠いからね。東浜のほうが近いじゃん」 「そりゃそうだけどさ、そんな理由で変えちゃっていいの!?」 「いいの。東浜からでも大学進学は出来るし」 「そうだけど……進学校のほうが有利でしょう? 大学行くなら」 「本人のやる気さえあれば高校なんかどこだって勉強は出来るよ」 「………」  恵里香は無言になった。  あれ?  私が進学先変えたのって、そんな衝撃だった?  私が進学先変えたのって深い意味はないんだけどね。  だって単純にコウタと同じ高校に行きたいっていう、それだけなのだから。 「まあ茉奈が決めたんなら応援するけどさ……そっか……東浜か……」  恵里香はどこかスッキリしない様子だった。 「東浜に何か気になることでもあるの?」 「あ、ゴメン。そういうわけじゃないの。東浜もいいトコだと思うよ」 「恵里香は西林商業だっけ? 進路希望先」 「うん」 「高校は違うけど受験、頑張うよ。お互いにさ」 「……そうね。茉奈、高校別になっても友達でいてくれる?」 「もちろん!」  私は笑顔で即答した。  三月。  志望校には無事合格することが出来た。  ギプスも取れて、左足の痛みもなくなった。  心も体も快調そのもので気分もいい。  藤谷茉奈の体になって気付いたことがいくつかある。  お風呂やトイレや生理現象といったものは置いといて───彼女が元々持っていた能力、スキルの話だ。  例えば、目が良くなった。  本田滉太の視力は0.5~0.6ぐらいだったのだが、藤谷茉奈の視力は2.0と思われる。  何しろ、見える景色が異常に違うのだ。  今は距離があっても、いろんなものがクッキリハッキリ見える。  これは藤谷茉奈の身体的能力だ。  高校の入学試験、勉強は少ししかしてないのに問題はスラスラ解くことが出来た。  これも彼女の頭脳的能力なんだと思う。  ついでに言うと、字がすごく綺麗なのも彼女のスキルだ。  本田滉太の字はかなり汚かったので。  他にもこんな事があった。  音楽の授業の前の休み時間、クラスの女子に「ピアノ弾いてみて」とせがまれたことがある。  本田滉太はピアノなど全く弾けなかった。  私は「無理だよ」と言いつつ、もしかしたら弾けるかも……と思って試しに弾いてみたら───自分でもびっくりするぐらい見事な演奏をした。  指が勝手に動くというか、どう弾いたらいいか考えるより先に指が動く感じ。  このピアノ演奏スキルも藤谷茉奈のスキルなんだと思う。  まだある。  ギプスが取れた日、私は夕食の準備を手伝ったんだ。  入院中、世話になったお礼にね。  そのとき驚いた。  包丁をものすごく上手に使えたんだ。  玉ねぎは綺麗にみじん切り。  それを炒めてひき肉と混ぜて調味料で味を調えて、芯を除いたキャベツでくるむ。  要するにロールキャベツを作ったんだけど、どう作ればいいのか手に取るようにわかった。  キャベツを上手く包めなかった場合、爪楊枝を使えばいいという豆知識まであった。  無駄のない手際の良さでスムーズに手が動き、余ったキャベツも綺麗に千切りしてサラダにした。  この料理スキルも間違いなく、藤谷茉奈の能力だ。  本田滉太は料理なんかほとんどした事なかったのだから。  逆に、こんな事もあった。  リビングのパソコンを使ってネトゲをしていた時のこと。  私は普通にキーボードを打ってたんだけど、父親がすごく驚いていた。  「お前、キーボード見ないで打てるのか。しかも打つの早いな」って。  キーボード見ないで打つのはブラインドタッチやタッチタイピングと呼ばれる技。  本田滉太はこれが出来たんだけど───父親の話ぶりからすると、藤谷茉奈はこれが出来なかったらしいんだ。  こんな風に、本田滉太が出来なかったことが出来たり、”元の藤谷茉奈”が出来なかったことが出来たりした。  要するに今の私は本田滉太の能力やスキルに、藤谷茉奈の能力やスキルが上乗せされた感じなんだ。  いや、違う。  逆だ。  本田滉太のスキルなどタッチタイピングしかないのだから、藤谷茉奈の能力に本田滉太の能力がオマケとしてついてきた感じと言ったほうが正しいか。  まあどっちでもいいが<本田滉太・自殺防止プロジェクト>を進めるにあたって、これは非常に嬉しい発見だったな。  何事もそうだけど、何かをするにあたって能力が高いに越したことはないからね。  私が挑むプロジェクトは文字通り人生のかかった、非常に重要かつ難易度の高いものだ。  でも、今の自分───というか藤谷茉奈ならやれるんじゃないか。  明るい未来を作ることが出来るんじゃないか。  そんな期待があった。  中学の卒業式。  コウタを見ながら心の中で呟く。  私があなたを自殺から守ってあげるからね。  これから貴方には辛いことがたくさんあるけど、私が側についててあげる。  なんとかしてあげる。  だから、自殺なんかしないでね。  必ず、助けてあげるから───  私はコウタを見ながら、固く心に誓うのだった。 * * *  中学を卒業し、この春からいよいよ高校生となる。  私は部屋で真新しいブレザーに着替え、初登校の準備をしていた。  着替え終わり全身を鏡で確認してみる。  紺の上着に赤のリボン。  赤を基調としたチェックのプリーツスカート。  うん、可愛い。  さすが藤谷茉奈。なに着ても似合うや。  どこから見ても完璧なJK美少女だ。  駅前の大通り。  私は学校に向かいながらJKのすごさに感じ入っていた。  何がすごいって、このミニスカがすごい。  よくこんな短いスカートで外を出歩けるなあと。  中学時代の制服スカートは膝まであったので、ミニスカートで外を歩くのは初めてだ。  心なしか、男からの視線をメッチャ感じる。  すれ違う学生やサラリーマンは、たいてい私の足を見ていくのよね。  しかもなんか、イヤらしい目でジロジロ見てくる感じなんだ。  藤谷茉奈のような美少女がミニスカ履いてれば、見たくなる気持ちもわかる。  わかるのだけど、見られるほうとしては何か……なんて言うんだろ……。  本音をストレートを言うなら、気持ち悪いというのが正直な所だ。  男側からすると「生足出してるのはオマエのほうだろ」という反論があるかもだけど、女側から反論させてもらうとするなら───  そりゃチラ見するぐらいならいいよ。  でも普通は知らない人をイヤらしい目で見たり、ジロジロ見たりはしないよね?  だからイヤらしい目でジロジロ見るのは、やめてほしいんだ。  イヤらしい目でジロジロ見られるのは、けっこう気持ち悪いんで……。  あと単純に、藤谷茉奈をイヤらしい目で見るのが腹立つってのもある。  高校に到着した私は、玄関脇に張り出されているクラス割り表をチェックしていた。  記憶がたしかなら、コウタは1年D組のはずだ。  なので先に1年D組からチェックしてみる。  同じクラスになれていればいいんだけど……果たして……。  ……………イエス!!  1年D組に藤崎茉奈と本田滉太の名前を見つける。  同じクラスだ!  これは嬉しい!  私は心の中でガッツポーズをした。  そして同じクラスといえばもう一人─── 「おはよっ!」  背後から肩を叩かれ、声をかけられる。  私は振り返って挨拶を返した。 「おはよう恵里香!」  そうなんだ。  実は恵里香も東浜高校に合格したのよね。  もともと彼女は私と同じ高校に進みたい気持ちがあったけど、中央高校は難しいので諦めてたらしいんだ。  ところが私の進学先が直前で東浜に変わった。  西林商業と東浜高校は難易度的に変わらない。  それなら私がいく東浜のほうがいいと思ったらしいんだ。  もともと西林商業を希望してたのは資格を取りやすいからで、資格をとるには普通高校でも可能。  本人のやる気さえあれば、高校なんかどこだって勉強は出来る。  何より私と同じ高校に行きたい───というのが彼女の弁。  どっかで聞いたようなセリフだけど、同じ高校に行けるのは私も嬉しい。 「恵里香も同じクラスだったよ! 1のD」 「そうなの!? ……あ、ホントだ! 嬉しい!」  ぴょんぴょんと飛び跳ねそうな勢いで、私達は手を取り合って喜びあった。  一番仲の良い友人である恵里香と高校も同じで、クラスも同じなのは心強い。  コウタとも同じクラスになれたし、これは幸先いいな。  他のクラスメートもチェックしていた私は一人の名前に目が留まった。  明るかった心に、少し暗雲がたちこめる。  ……むむ、やはり同じクラスか。  出来れば見たくなかった名前だな。  前田朋子。  幸先いいと感じていたが、この名前を見つけた瞬間、私は少し気が重くなった。  出来れば同じクラスになりたくなかったなあ……と。  本田滉太が自殺したくなった理由は複数あって、複数の辛いことが積み重なって死にたくなった感じだ。  そして前田朋子は私が自殺したくなった理由の一つに大きく関わってる。  といっても、彼女は別に悪人ではない。  善人でもないけどね。  自殺したくなった辛い出来事の一つに前田朋子が関わってるというのは、過去にこういう事があったからなんだ。 【本田滉太の過去の回想 高校一年 十二月】  放課後。  ひと気のない校舎裏。  俺は前田朋子を手紙で呼び出していた。  好きだという気持ちを伝える為に。  彼女とはクラスメートであり、バスケ部員とマネージャーという関係でもある。  前田朋子のことは初めて見た時から可愛いと思ってた。  ハッキリ好きだと自覚したのは、つい最近だけどね。  ただ、好きだと自覚してからは気持ちを早く伝えなければと強く思った。  なにせ初恋の人だった藤谷茉奈は、好きだという気持ちを伝える前に事故死してしまったのだから……。  あれは本当にやるせなかった。  だから、誰かを好きになったら早めに気持ちを伝えたいと思うようになったんだ。  気持ちを伝えるチャンスがなくなる悲しさを知ってしまったから。  数分後。  前田朋子がやってくる。 「あ、ありがとう。来てくれて」 「話ってなんなの?」  のっけから彼女はなんか、つっけんどんな感じだった。  俺から呼び出されても嬉しくは思ってなさそうというか、むしろ迷惑に思ってそうな……。  いや、ネガティブに考えてもしょうがない。  ここまできたら後には引けないのだ。  嫌な予感を振り払って、思いのたけを伝える。 「あの、実は前から前田さんのこといいなと思ってて、気付いたら好きになってたんだ」 「そうなの?」 「うん」 「………」 「……それで、出来れば付き合ってほしいんだけど……」 「ごめん無理だわ」  即答。  考える素振りなんて一切ない、電光石火の即答だった。  いや、断られることも想定はしていたけど、ここまで早いのは予想してなかった。  俺のことなど微塵も恋愛対象にならないというのがビンビンに伝わってくる。  これはけっこう心にくるな……。 「そっかあ……ダメなのかあ……」  俺は内心のショックをごまかす為に、なるべく明るく言った。 「………」  彼女は無言のままだった。 「好きな人がいるってこと?」 「いや、いないけど」  これも即答だった。  彼女は俺に対して申し訳ないとか、そういう気持ちは一切なさそうだ。 「好きな人がいないなら、参考までに俺のどこがダメだったのか聞いてもいい?」  俺はめげずに話しかけた。  たとえダメでも、彼女と気まずい関係になりたくなかったのだ。 「どこがって……」  俺の問いに対し、彼女は心底困ったような顔をした。 「………」 「………」  嫌な沈黙が流れる。 「ぶっちゃけ、本田君こと好きになれる気が全くしない」 「!?」 「………」 「………」  これはかなり辛辣だった。  好きになれる気が全くしないなんてさ。  存在を全否定されたような気分だ……。 「もういいかな?」 「………」  彼女の口調にはイライラがこもってるようだった。  この面倒なやり取りをさっさと終わらせたい、早くこの場から立ち去りたい───とでも言いたげな、そんなイライラが。  俺は更に惨めな気持ちになった。 「話が終わりなら行くね。それじゃ」 「………」  それだけ言うと、彼女は足早に立ち去っていった。  俺は彼女の後ろ姿を見送りながら、アホみたいに立ちつくしていた。  告白の翌日。  俺が廊下を歩いてると、いきなり派手めの女子二人組に声をかけられた。  コイツらは前田朋子の取り巻きだ。 「ねえ、あなた朋子に告ったでしょ?」  二人組はニヤニヤ笑いながら、嘲るような目で俺を見ていた。  俺をからかいたい、バカにして笑いものにしたい、という思いをこれでもかというぐらいに感じる。 「………」  俺が黙ってると取り巻きAが言った。 「ねえ、参考までにあたしにも教えてくれよ。『どこがダメだったのか』をさ」 「ぷははは! ウケル!」  取り巻きBが下品な笑い声をあげる。 「ウチも聞きたい。『参考までに俺のどこがダメだったのか聞いてもいい?』」  取り巻きBは、さも変な言い方で俺の言葉をなぞった。  あえてキモイ感じで真似をすることで、俺をより嘲笑したいという事なのだろう。 「似てるぅ! キモイー!」  二人はさも楽しそうに、はしゃいでいた。 「まあ気ィ落とすなよ、本田。この子が参考までに、どこがダメだったのか教えてくれるってさ」 「どこがダメだったかって? 全部だろ!」 「ぶはははは! そんな事実言ってやるなよ!」 「ちげーよ。優しさだよ!」  盛り上がりが最高潮に達した二人は大爆笑していた。 「………」  俺はその場から逃げるように立ち去った。 【回想終了】  こうして本田滉太の人生初の告白は、無残な結果に終わったんだ。  塩対応であしらわれたこと、告白の内容をバラされたこと。  この二つ、特に後者は心に大きなダメージを負った。  さすがにこれはない……と思ったね。  なぜ傷口に塩を塗るような真似をするのか意味がわからない。  ここまでされるとね、もう二度と人を好きになったりするもんかと思ったよ。  本田滉太が豆腐メンタルというのを差し引いても、これは酷い仕打ちだと思う。  前田朋子やその取り巻きにとって、本田滉太は嘲笑の対象でしかなかったらしい。  バカにして嘲り笑う為の玩具であり、どうでもいいゴミみたいな存在だったのだ。  じゃなきゃ、告ってきた相手を冷たくあしらって、その事を言い触らして嘲笑する……なんてマネが出来るはずもない。  告白を心底ウザがってた彼女の様子は今でも鮮明に覚えてる。  今でも思い出すと胸がキリキリ痛む……。  これが自殺したくなった理由の一つになってるのは間違いない。  バスケ部に関してはもう一つ嫌な思い出があるんだけど、それは後回しにするとして。    さしあたって、最初に対処しなきゃいけないのはこの前田朋子の案件だ。  具体的には、コウタが前田朋子に告るのを阻止すること。  これが最初のミッションとなる。  ……………。  ……………。  ……でも、告白を阻止するって、どうすればいいんだろう?  コウタが前田朋子に告るのを阻止するには、どうすればいいのか?  という事を悩んでいた私だが、よく考えたら既にミッションは達成済なんじゃないかとも思った。  いや、だってさ、コウタって藤谷茉奈が初恋の女の子なわけでしょ?  今もコウタが藤谷茉奈のことを好きだとしたら、前田朋子に告る未来は無くなったじゃないの? っていうね。  という事は、最初のミッションは何もせずにクリアだ。  いやー、楽勝だね。  次のミッションもこれぐらいラクだと嬉しい。  こうして<本田滉太・自殺防止プロジェクト>は順調な滑り出しをむかえる事となったんだ。  高校に入学してから二週間が経過。  コウタの事とは別に、藤谷茉奈の体で高校に入って友達が上手く出来るか少し不安だった。  でも、こっちの心配はあっさり杞憂に終わった。  藤谷茉奈は本田滉太と違って、人に好かれる魅力があるのだと思う。  わりと色んな女子に話しかけられたし、新しい友達も出来たんだ。 「茉奈は部活決まったの?」 「ううん、決まってないよ。まだ迷い中」  お昼休み。  恵里香にそう聞かれ、私は適当に濁した。  私はコウタと同じ部活に入りたいと思っていた。  最悪、コウタがバスケ部に入ったら、私がバスケ部のマネージャーになってコウタを助けたかったんで。  だからまだ部活は決めてない。 「ソフト部においでよ! エリリンの話だとマナミンもけっこう運動できる人なんでしょ?」 「うん、茉奈はけっこうスポーツ万能な人だよ」  ノリちゃんが目を輝かせて言うと、恵里香もかぶせてきた。  このノリちゃんというのが高校に入ってから知り合った新しい友達だ。  恵梨香とノリちゃんがソフトボール部で友達になり、私とも友達になったというわけ。  ちなみにマナミンというのは私のことで、エリリンというのは恵梨香のこと。  彼女はニックネームをつけるのが好きな人なんだ。 「いや、別にスポーツ万能って程ではないよ」  藤谷茉奈の運動能力は平均的だと思う。  万能って程じゃない。 「茉奈ちゃん、合唱部もお勧めだよ」  今度は有希が勧誘してきた。  彼女はノリちゃんの中学時代の友人だ。  ノリちゃんを通して私とも友達になったんだ。 「この間カラオケ行った時、茉奈ちゃん高得点出してたよね? その歌唱力があれば活躍間違いなしだと思う」 「いやいや、『恋チュン』を上手く歌える人は多いと思うよ」 「上手く歌えてるように見えても高得点取れない人っているじゃん。とにかく茉奈ちゃんなら歓迎だよ」 「ありがとう。誘ってもらえるのは嬉しいよ」  有希はカラオケ大好きな人。  合唱部なのも頷ける美声の持ち主だ。  恵里香、有希、ノリちゃん、私、この四人がよく一緒にいるグループというわけ。  こんな感じで友達関係は上手くいってる。  そういや高校に入って発見したラッキーが一つある。  それは女子の着替えが見放題ということだ。  女子更衣室。  周りには体操着に着替えるたくさんの女子がいる。  パラダイスだね、ここは。  中学の時は怪我のせいで体育は全て休みだったからな。  高校に入って初めて、女子更衣室を利用するようになったんだ。  着替えの時間はいつもドキドキしてしまう。 「茉奈? どうしたの?」  着替え中の恵里香が不思議そうな目を向けてきた。  藤谷茉奈ほどじゃないが、彼女もなかなかの美少女だ。  美少女が着替えてたら気になって当然だし、エロエロな気分にもなってくるというものだ。 「いや、その……可愛いブラだなーって……」 「なに言ってんの? 茉奈のだって可愛いじゃん。以前に一緒に買ったの忘れちゃった?」  うげ。  しまった。  やぶ蛇だったな。 「そ、そうだっけ……?」  バツが悪くなった私は笑ってごまかした。 「早く着替えないと遅れちゃうよ」  そうだね。  エロい気分に浸ってないで、私も着替えよう。 * * *  この高校は全ての生徒が委員会に所属する決まりになってる。  この日のホームルームは、その委員会決めをしていた。  私は選挙管理委員にするつもりだ。  過去に本田滉太の時、ラクそうだからという理由でそれをやってたんだ。  実際ラクだったし、コウタと一緒の委員会をやりたい気持ちもあったから。 「じゃあ次に、選挙管理委員になりたい人は挙手して」  司会進行役のクラス委員の男の子が皆に問いかける。  私は迷いなく手を挙げた。  そして辺りを見回すと、コウタを含む男子の何人かが手を挙げていた。  あれ?  なんで男子がいっぱい手を挙げてるんだ?  こんなにライバルいたっけ?  もしかして藤谷茉奈と一緒の委員をやりたいってことなのかな?  まあコウタが選挙管理委員になるのを知ってるからいいんだけど。  問題は女子だ。  女子は私の他に立候補したライバルが二人いたんだ。  なんとかジャンケンで勝たないとな……。 「最初はグー、ジャンケン───」  私はパーを出した。  そして他の二人は果たして…………グーだった。  よっしゃ!  勝った!  勝ったよ!  心の中でガッツポーズをする。  これで中学の時と同様に、コウタと同じ委員会という事になる。  と思っていたら……… 「勝ったのは藤谷さんと榊原君ね。黒板に名前書いといて。じゃあ次は保険委員になりたい───」  ……………え?  なんで榊原?  コウタ……負けたのか!?  これ、私の知ってる過去と違うじゃん!!  本当ならコウタがジャンケンを勝ち抜くはずだったんだ。  これって歴史が変わったって事だよね?  なんで変わっちゃったの?  ………って、もしかしてあれか。  私が立候補して、多くの男子が立候補しちゃった事が原因なのか!?  うわー!  こんな事あるのか!! 「次にボランティア委員。なりたい人は挙手して」  司会の男子が言うと、女子は前田朋子を含む二人が手を挙げた。  そして男子は三人が手を挙げた。  その中にコウタの姿があった。  うぉい!  アナタにボランティア精神なんかないでしょ!  なんで手を挙げてるのよ!  まさかコウタと前田朋子が一緒の委員になったりはしないよね?  ハラハラしながら見守ってると……。  うげ!!  勝っちゃったよ!  二人とも! 「よろしくね。本田君」 「う、うん。よろしく……」  前田朋子がニコやかに微笑むと、コウタは照れくさそうに返事をした。  待て!  その笑顔に騙されるな!  外面はいいけど、そいつ本当はすごく冷たい女なんだ!  彼女は外面だけはいいので、男子は騙されやすいんだな。  ホントは告白を笑いものにするような、性悪女なのにね。  コウタが前田朋子に告るのを阻止するミッション。  これはクリアしたと思っていた。  でも実は、全然クリア出来てない可能性がある。  私は胸に大きな不安が渦巻くのを感じていた……。 「茉奈、何か悩み事?」 「え?」  休み時間。  恵里香が心配そうな顔で言ってきた。  悩み事か。  コウタが前田朋子に告りそうなのが不安なのだが、そんなこと相談できないよなあ。 「あ、えーと、今日の占い最下位だったのが少しブルーかなーって……」 「え? 茉奈って占いは特に好きじゃなかったよね? 占いがなくても既に幸福だって言ってたじゃん。覚えてない?」  そんなこと言ってたのか、茉奈ちゃん。  いかんな。  適当に喋ってしまった。  たいていの女は占い好きだから、藤谷茉奈もそうだと思ってしまったい。 「そうね。そう言われると、言ったような気もする。記憶戻らなくてゴメン」 「違うの! 趣味が変わったのかなって思っただけで、別に責めてるわけじゃないの!」  恵里香はあたふたしながら言った。 「ふふ、わかってる。冗談だよ」  彼女も私の家族と同じで、失われた(という設定の)記憶にこだわってないのは知ってる。  そうやって見守ってもらえるのはありがたいよ。  しかし、既に幸福ってのはすごいな。  まぁこの藤谷茉奈の容姿と能力があれば、幸福を感じてても当然か。  ……………そうだ。  私は本田滉太とは違うんだ。  不安があれば、なんとかしてみせるさ。  コウタが前田朋子に告らないよう祈るだけではなく、自分から動いてみよう。  コウタが前田朋子に告るのを阻止する方法は二つ思いついてる。  一つは私もバスケ部のマネージャーになる方法。  でもこれは却下。  出来れば前田朋子とは関わりたくないから。  だから私が選んだのはもう一つの方法だ。 「マナミン、映研に入ったんだ?」 「うん。ゴメンね。いろいろ誘ってもらったのに」 「気にしないで。茉奈ちゃんがやりたいことやるのが一番だから」 「それは言えてるな」  有希の言葉にノリちゃんが頷き、恵里香もウンウンと同意を示した。 「ありがとう。みんな」  私は三人に笑顔を返した。  映研に入ったのは、コウタが映研にも興味あるのを知ってるからだ。  高校の時、バスケ部とどっちに入ろうか本気で迷ったのよね。  そして、バスケ部に入ったのは前田朋子が目当てだったからだ。  だとしたら、藤谷茉奈が目当てで映研に入る可能性もあるよね?  私の狙いはそこなんだ。  自分をエサにして、コウタを映研に釣りあげたいのだ。  自信はそこそこある。  なんたって私は、コウタの初恋の女の子なのだから。  と思っていたら─────  休み時間。  コウタと小池君の話し声が聞こえてきた。 「部活どーすっかなー。本田は部活決めた?」 「決めたよ。バスケ部にした」  えええ!?  聞き耳を立てていた私は驚いた。  コウタ、バスケ部に入ったの!?  オマエの初恋の人である藤谷茉奈は映研なんだぞ!!  部活間違えてないか!? 「へー。バスケか。本田は体育会系って感じがしなかったんで少し意外かも」  ほっといたれよ、小池君。  どうせコウタは気弱な草食系だよ。 「バスケ面白そうだったからね。スラムダンク好きだし」  オマエがそれよりもっと好きなのは前田朋子だろ!!  ───って、突っ込んでやりたい。 「茉奈、どうかした? 何か気になることでも?」  ガールズトークがうわの空だった私は、逆に恵里香に突っ込まれた。 「あ、いや、なんでもないよ」  ヘラヘラ笑いながら私はごまかした。  コウタめ。  私というものがありながら、前田朋子のいるバスケ部に入るなんて許すまじ。  うーむ。  やはり未来は変えられないのだろうか?  コウタは前田朋子に告ってしまうのだろうか?  いや、諦めたらそこで試合終了だ。  まだ打つ手はあるはず。  諦めずに頑張ろう。  放課後。  私は駅でコウタを待っていた。  映研よりバスケ部のほうが活動時間が長いので、コウタに会う為には待たなきゃならない。  一年生って用具の片付けとかもあるしね。  しばらく待って、コウタがやって来る。  私はさも偶然を装って声をかけた。 「本田君」  コウタがこちらに気付く。 「いま帰り?」 「うん。部活やってたんで」 「そうなんだ。私も帰るトコだよ。一緒に帰らない?」 「……いいよ」  言葉は素っ気なかったが、一瞬コウタの頬が緩んだのを私は見逃さなかった。  初恋の人に『一緒に帰ろう』なんて言われたら嬉しくなって当然だよね。 「部活ってバスケ部だよね?」 「そうだよ。よく知ってるね」 「昼間、男子が話してたの聞こえたから」 「そっか」 「正式に入部したの?」 「いや、まだ仮入部だよ」  よっし!  これならまだコウタをバスケ部から引き離すチャンスはある。 「だったらさ、ウチにも仮入部してみない?」  ウチの学校、仮入部期間なら掛け持ちOKという事になってる。  一か月程度やってから正式に入部するかどうかを決めればいい、というシステムになってる。 「藤谷って映研だっけ?」 「そうだよ。よく知ってるね」 「昼間、女子が話してたの聞こえたから」  似たような会話を繰り返したことに、私たちは小さく笑いあった。  ちょっとイイ感じだ。 「それで、どうだろ? 映研に興味とかない?」 「うーん。なくはないかなあ」  もう……なんでこんな嘘つくんだろ。  バスケ部と映研どっち入るか、迷う程だったのを私は知ってるんだぞ? 「少しでも興味あるなら、どうかな? 一年生の男子がゼロなので部員は絶賛募集中なんだけど」 「新入部員の男子ゼロなの?」 「うん」  今のトコ、映研の新入部員は女子しかいない。 「だから皆で歓迎するしハーレム状態になるよ」 「うーん」  悩んでるフリをしてたが、コウタの表情がだらしなく緩んだのを私は見逃さなかった。  自分の事ながら、しまらない顔だと思う。 「とにかくさ、一度見学でもいいから遊びに来てよ。気軽に。仮入部なら掛け持ちOKなんだから、この制度利用しないのは損だと思うな」  何が損なのかは私にもわからないが、熱意は感じ取ってくれたと思う。 「わかった。そこまで言うなら見学に行ってみるよ。映研ちょっと興味あるし」 「ホント? ありがとう! 待ってるね!」  とびっきりの笑顔を返す。  演技ってわけじゃない。  嬉しかったのは本当だから。  こうしてコウタは映研にも仮入部することになったんだ。  映研の先輩は二年生も三年生も良い人だったし、私もコウタが馴染めるよう付きっきりで傍にいたので、わりとスムーズに馴染めたと思う。  映研の部活がある日は、コウタと一緒に帰るのが当たり前になった。  途中の駅までは映研のメンバーがいるけど、ある区間からは二人きりなんだ。  降りる駅も同じで、自転車で向かう方向もだいたい同じという下校デート。  この初恋の女の子と下校デート出来るというのが、コウタの中で大きなポイントになってるのは想像に難しくない。 「俺、正式に映研に入ろうと思うんだ」  体験入部を始めてから二週間ほど経った帰り道。  コウタはそんな事を言ってきた。 「そうしてもらえると皆喜ぶと思うし、私も嬉しいよ」  よしよし。  狙い通りの展開だ。 「改めてよろしく。楽しくやろうね」 「うん、こちらこそよろしく」  ニッコリと笑いかけると、コウタは目を逸らし顔を赤らめながら答えた。  ふぅー。  とりあえず話がまとまって良かった。  これでバスケ部への入部を回避するというミッション達成だ。  ようやく過去を良い方向に変えることが出来た。  これなら前田朋子を好きになる可能性も低くなったと思う。  失恋の悲劇も回避しやすくなったと思う。  つまり、いつか自殺する確率は下がったはずなのだ。  こうやって過去を変えていけばコウタは自殺せずに済むはずだ。  <自殺防止プロジェクト>は今度こそ、順調な滑り出しを見せたと思う。 * * *  六月。衣替えの季節。  自分の部屋の鏡の前で、私は夏用の制服姿をチェックしていた。  うん、可愛い。  夏用のベストを着た制服姿も可愛いな。  鏡で藤谷茉奈の姿を見ても違和感なくなったし、慣れてきたなーって思う。  リビングに降りて、朝食の準備をしてるお母さんに声をかける。 「おはよー」 「おはよ。今日から夏服なのね」 「うん」 「その腕はどうしたの?」 「腕?」  腕がなんだっていうんだろう?  お母さんに言われ、自分の腕を見てみる。  が、特に変わった所はない。 「そのアザ、どこかにぶつけたの?」  お母さんが指差したのはアルファベットの『N』の形をしたアザだった。  このアザって、前からあるんじゃないの? 「このアザって、前はなかったんだっけ?」 「そうよ。あなたは綺麗な腕してたじゃないの」 「だったら事故の時に出来たアザかも。事故直後からあったアザなのは確かだから」 「そうなの? 大丈夫? 痛くない?」 「痛くないよ。大丈夫だから心配しないで」  私は安心させるよう笑顔で言った。  骨折するほどの事故だったからねえ。  腕に打撲痕が残ってても、おかしくない。  まあ腕の内側だし、薄いアザだから目立たないと思う。  藤谷茉奈の可愛さが損なわれるようなアザではない。  学校。休み時間の教室。  少し離れた所にいるコウタと小池君の会話がまた聞こえてきた。 「本田ってバスケ部やめて映研に入ったん?」 「そうだよ」 「映研って女子が多いんだよな? もしかしてそれ目当てか?」 「ちげーよ。なに言ってんだよ」 「本田と藤谷さんが一緒に帰ってるの見たって奴がいるぞ。藤谷さんが目当てなのか?」 「だから、違うって言ってるだろ」  オイ。  そういう話は、私の耳に入る声で言うなよ。  リアクションに困るだろうが。 「デリカシーないね。小池君」  恵里香が苦笑しながら小声で私に耳打ちした。 「教室に居辛いなら外行く?」 「うん……」  私は小さく頷いて席を立った。  まったくもう……。  もしかしたら、小池君は私のことが好きなのかもしれない。  気付いたら見られていたって事が何度かあるし、心なしか私を見る目に熱がこもっていたように感じたから。  勘違いであればいいんだけどね。  だって私は気持ちに応えることなど出来ないのだから。 * * *  九月の終わり。残暑が弱まりだすと夏の終わりを感じてくる。  学校では来月やる文化祭の準備が始まっていた。  ウチのクラスは、定番のお化け屋敷だ。 「皆で見て回れるといいんだけどねえ」  ノリちゃんが皆に言った。 「当日のシフトがどうなるかだよね。まあ空いてたら一緒に回ろう」  文化祭の一日目は友達と過ごすとして、二日目はコウタを誘ってみようかなと思う。  藤谷茉奈と文化祭を一緒に過ごせれば良い思い出になるだろうし、自殺防止プロジェクトも良い方向に進むと思ったから。 「ソフト部ってなんかやるの?」  私が恵梨香とノリちゃんに聞くと、恵里香が答えた。 「特に何もやらないよ。だから当日はけっこう時間あると思う」 「そうなんだ」 「ユキぽん、合唱部はなんかやるのか?」  ノリちゃんが有希に聞く。 「合唱部も特にないかな。映研はどう?」  聞かれたので答える。 「初日が自主制作映画の上映で、二日目が普通の映画の上映みたい」  映研の活動内容は自主映画の制作や、皆での映画鑑賞。  自主映画は高校生映画コンクール───通称『映画甲子園』に出品するもので、ウチの学校の映研はけっこう真面目に活動してるのだ。 「自主制作映画って茉奈も出てる?」 「脇役だから出てないに等しいよ」 「え! でも出てるんだよね!? 見たーい!」 「マナミンが出るならアタシも見たいぞ!」  いや、恥ずかしいのでやめてくれ。  ホントに脇役なんだってば。 「まあ時間があればって感じで……」  私は苦笑いを浮かべながら答えた。  映研の部室で、私はジャンケンをしていた。  相手がチョキで私がパー。  負けた……。  負けてしまったよ! 「じゃあ二日目の当番は俺と藤谷ってことで。よろしくな」  佐倉先輩がニコやかに言った。 「はい……よろしくお願いします……」 「ガッカリしてる風だが、なんか予定でもあったのか?」  二日目はコウタと一緒に回ろうと思ってたからね。  予定がダメになって、ちょっと凹むよ。  でもそんな事を正直に言うわけもいかず─── 「いえ、特に予定はないです。映研の為に頑張りますね」  と、作り笑いを浮かべて取り繕っておいた。 「まぁやる事といっても上映の準備と片付けだし、それが終われば自由だ。頑張ろうぜ」  作り笑いだとバレたのかな。  佐倉先輩がそんな風に私を慰めた。  この先輩、けっこう優しいんだよな。  女子にも人気あるみたいだし。  ま、いいか。  先輩の言う通りなら当番が終わったら自由みたいだし、そこからコウタを誘ってもいいわけだから。  秋になり、文化祭が始まった。  運命の神様は残酷だと思う。  私とコウタの予定が見事にすれ違ってしまったのだ。  コウタの自由時間は私のクラス当番の時間だし、私の自由時間はコウタのクラス当番のシフトになったのだ。  もう!  これじゃコウタを誘えないじゃないか!  運命の神様はなんでこんな意地悪するんだろうな……。  一日目は幸い、恵里香とノリちゃんと有希とは一緒に回ることが出来た。  自主製作映画を皆で見て、私のチョイ役の演技を良かったと褒めてもらえたのは嬉しかった。  けっこう楽しかったのが救いだ。  友情も深められたんじゃないかと思う。  そして二日目。  私は朝もはよから上映会の準備に追われていた。  午前と午後で違う映画を上映するので少し面倒なんだ。  意外……と言っては悪いけど、そこそこ客も入ってたしね。  肝心の映画はどうだったかというと─── 「面白かった! 面白かったですよ先輩! ショーシャンクの空に!」  胸が熱くなる、とても爽やかで良質な映画だった。  上映会が終わり、私は興奮しながら佐倉先輩に言った。  興奮するほど面白かったし、映画の感動を誰かに伝えたい欲求に駆られたのだ。 「そりゃ良かった。あの映画をセレクトした甲斐があったよ」 「佐倉先輩のセレクトだったんですか?」 「そうだよ。ちょっと古い映画だけど、オレ達ぐらいの年代だと見たことない人多いから」 「ナイスなセレクトでしたね。私も知りませんでした。もっと語りたいです!」 「オレで良ければ聞くよ。ついでに文化祭、一緒に見て回るかい?」  え………。  突然の提案に私は一瞬固まった。  それは……どうしよう……。  シフトが違ってコウタを誘えないから、予定は白紙なんだよな。  ただ、予定はないが、いきなり誘われてしまうとドキっとしてしまう。  うーん。  まあいっか。今は映画について語りたい気分だし。 「……えっとじゃあ、はい。ちょっとだけでいいなら」 「オケ。じゃ行こうか」  こういうわけで、私は佐倉先輩と文化祭を見て回ることになったんだ。  先輩は私の映画の感想にも上手い返しをしてくれて、話してて楽しかった。  話題も豊富で、会話を途切れさせないコツを掴んでるような感じだった。  話し上手なんだろうな、佐倉先輩って。  映研の女子に人気あるのもわかる気がする。  コウタもこれくらい話し上手ならいいんだけどねえ……。  校内を見て回ってる途中、焼きバナナを売ってる店を見つけた。  あれけっこう好きなんだよな。  と思って見てたら─── 「すいません。それ一つください」  と、佐倉先輩は焼きバナナをひとつ購入した。  そして私に向かって「食べるかい?」と差し出す。 「!? あ、ありがとうございます……」  私は差し出された焼きバナナを受け取った。  先輩がもう一つ焼きバナナを買う。  たぶん、私がいらないと言ったら、私に差し出した分は自分で食べるつもりだったのだろう。  ちょっとキュンときた。  なんだよ!  カッコイイじゃんか!  気が利く素敵な先輩だな。  その後も私達は出し物をいろいろ見て回った。  初日に見たものもあったけど退屈はしなかったな。  先輩の話が面白かったので。  私を楽しませようと、いろいろ気を遣ってくれてるのがわかるんだ。  こうやってエスコートされるのは悪くない気分だ。  いや、悪くないどころか、すごく気分が良かった。  ルックスもなかなかのイケメンで、端正な顔立ちに少し見惚れてしまう。  こんな風にイケメンにエスコートされたら、たいていの女の子はグラっときちゃうんじゃないだろうか。  私もちょっとキュンときてしまったし。  …………。  …………。  …………。  ……?  ………ん?  …………んん!?  ……………見惚れてしまう!?  ………………たいていの女の子?  …………………キュンときてしまった!?  うわー!!!!!  ナニ考えてんだ私は!?!?  なんで私が男にキュンとしなきゃならんのだ!?  私の中身は男だというのに!?  これはいったい、なんなんだろうか。  私の魂が女に染まってきてるんだろうか?  そういや、いつからだろうか。  着替えやお風呂で、藤谷茉奈の下着姿や裸を見てもエロエロな気持ちが微塵もわかなくなったのは。  体育の時も他の女子の着替えがバッチリ見えるんだけど、ドキドキなんて全くしなくなった。  慣れと思ってたが、実はヤバいんじゃないだろうか?  このままだと私は身も心も女になってしまうんじゃないだろうか。  男の先輩にドキっとするなんて、相当ヤバいんじゃないだろうか。  ああ、なんか不安になってきた!! 「どうかしたのか?」  佐倉先輩が心配そうに私の顔を見つめる。  やめろ!  イケボで囁くな! 「……いや、なんでもないです……」  そう言った私の顔は引きつっていたかもしれない。  とにかく今は一人になりたい思いでいっぱいだった。 * * *  自殺防止プロジェクトは順調なのだが、代わりに面倒な問題が持ち上がった。  それは、私は男なのか女なのかという根源的な問いだ。  『体は子供、頭脳は大人』───じゃなくて『心は男、体は女』と思っていたのだが、どうも最近、心まで女性化してきてるような気がする。  これは非常に恐ろしいことだ。  だって心も女になってしまったら、佐倉先輩のようなイケメンに心を奪われてしまう可能性があるのだから。  そうするとコウタの事がどうでも良くなってしまうかもしれない。  どうでもいいは言い過ぎにしても、二の次になってしまう危険性はある。  要するに<自殺防止プロジェクト>に支障で出る可能性を恐れてるんだ。  それに、私が男とイチャイチャするなんてゾッとする。  だって私は見た目は美少女でも、中身はれっきとした男なんだもん。  本田滉太としてのアイデンティティが消失してしまうのは怖い。  自分が自分でなくなるような恐怖は感じる。  というわけで、早急に男としての自我を取り戻す必要性を強く感じる。  男としての自我を取り戻す。  その為にはどうしたらいいのか?  まず思いついたのはエロ作品に触れること。  エロほど男の自我を意識させられるものはないからね。  とりあえずネット通販で官能小説を買ってみた。  私はけっこうむっつりスケベなタイプで、想像力のエロスというのが好きなのだ。  実際、本田滉太だったとき官能小説が大好きだったし。  ……でも、全然ダメだった。  本田滉太だった時は興奮できたのに、なぜか全く興奮できない。  次に試したのはエロ動画。  チラリズム系が好きなので、それを中心に観賞してみた。  ……が、これもダメ。  ではエロ漫画ならどうかと読んでみたが……。  ……これも全くダメだった。  おかしい。  おかしいよ、全然興奮しないなんて!  私の魂は本当に女に染まってしまったのだろうか。  そんなのイヤだ!  ここであることに気付く。  もしかして、バーチャルだからダメなのかな?  リアルのエロなら、あるいは……? 「茉奈! お待たせ!」  休日の街中。  待ち合わせ場所に恵里香がやってくる。 「待った?」 「ううん、全然───と答えるのがデートの模範解答だよね」 「ふふ、これデートだったの?」  恵里香が笑いながら言う。 「デートだよ。二人きりで遊ぶわけだしね」  私も笑いながらシレっと答えた。  私が考えた男としての自我を取り戻す方法───それは、女の子にドキドキして男の自我を取り戻そう作戦だ!  恵里香は十分に美少女なので、この作戦にうってつけの相手というわけ。 「前日の誘いだったのに、来てくれてありがと」 「ううん、いいの。今日は別に予定もなかったし、茉奈に誘ってもらえて嬉しかったから」  はにかんだ笑顔を浮かべる恵里香。  なんていうか……恵里香ってホントに藤谷茉奈のことが大好きなんだろうなーって思う。  事故直後、入院してた時も頻繁にお見舞いに来てくれたし。  きっと過去に、私にはわからない絆があったんだろうな。 「それで今日はどうするの? 何して遊ぶ?」 「ボウリングにしよう! 私、メッチャやりたい!」  私はわざと元気のいい声で答えた。 「ボウリングかぁ……うーん……」  恵里香はちょっと乗り気でなさそうな顔をした。  まあそうだろうね。  何しろ彼女は今日、ミニスカートを履いていたのだから。  ボウリングだとミニスカがひらひら揺れて下着が見えてしまうかもしれない。  俗にいうパンチラが心配なのだろう。  だが、それこそが私の狙いなのだ。  可愛い女の子のパンチラを見れば、男としての自我が復活するんじゃないかなーってね。  自分でも下衆な作戦だと思うが、自我が崩壊するかもという一大事なので許してもらいたいと思う。  今日はわざわざ、ミスニカを履いてくるよう頼んだ。  私はチラリズムが好きなので。  女子の着替えを見てもエロい気持ちにはならないが、逆に日常的なパンチラだとエロい気分になるかもしれない。  あれだよ。  女性に堂々と裸を見せられてもエロくは感じないよね?  でも日常の中で不意に訪れるラッキースケベにはエロさがあるみたいな、そんな感じのやつ。  ミニスカ履くよう頼んだとき理由を聞かれて、私もミニスカ履きたいけど一人じゃ恥ずかしい。  だから一緒に履いてほしいという強引なお願いをしたのだけど、彼女は頼みを聞いてくれたんだ。  だからまあ、私も今ミニスカだったりするのだけど、それはしょうがない。  恥ずかしいが、必要経費ってことで我慢してる。 「ね、やろうよ! 久しぶりにやってみたい!」 「うーん……わかった。茉奈がそこまで言うならいいよ。ボウリングにしよう」  恵里香はいい子だなあ。  ホントは気が進まないはずなのに。  この笑顔を見てるとパンチラ見たがるゲスい私でも心が痛みますわ……。 「やった! ストライク!」  上機嫌でハイタッチを交わす。  一応対戦形式で、勝ったほうがジュースを奢ってもらえるというルールにはした。  が、別に私達は勝ち負けを気にするわけでもなく、相手のストライクにも喜んだりするような和気あいあいムードで遊んでいた。 「ほっ。良かった、スペアだ」 「ナイスリカバリーだね!」  彼女のパンツは見えそうで見えなかったな。  惜しいトコまではいくんだけどね。  あと一歩が足りない感じ。  肝心のエロスはどうだったのか……というと……残念ながら、あまり感じなかった。  うーん。  作戦失敗だったかな?  リアル美少女でチラリズムという性癖を刺激すればあるいは……と思ったが全然ダメらしい。  どうやら『男の自我を取り戻そう作戦』は別のアプローチを考えたほうが良さそうだ。 「ボウリング久しぶりだったけど、楽しかったね」 「そう言ってもらえて良かったよ」  結局ドキドキはしなかったな。  でもまぁ楽しかったからいいか、という気分にはなってる。  私としても久しぶりに二人で遊べて楽しかったし。  このまま帰るのも勿体ないな。 「せっかくだし、どこかでお茶しようか。ゲームは恵里香の勝ちだったので奢るよ」 「うん」  お茶に誘うと恵里香は嬉しそうに返事をした。  ボウリング場の帰り道。  エレベーター前の出来事。 「ねえ、彼女たち。二人ともすげー可愛いね。ボウリング上手いし」 「良かったらもう1ゲームやってかない? 奢るからさ?」  ナンパなんだろう。  突然、見知らぬ男二人が声をかけてきた。  見た目はホスト崩れのチャラ男という感じ。  正直、あまり関わりたくない人種だ。 「いえ、私達、もう帰るトコなんで」  私は愛想ゼロの素っ気ない口調で断った。  こういう輩には毅然とした対応をしたほうがいいのだ。 「そう言わずにさ、ちょっとぐらいイイじゃん」  よくねーよ!  さっさと失せろ!  と言ってやりたいが、乱暴な言葉は飲み込む。  どう言ってやろうかと思案していたその時─── 「ほら行こうよ」  いきなり男の一人が恵里香の手首を掴んだ。  恵里香の顔が一瞬で青ざめる。 「そっちの彼女も」  もう一人の男が私の手首も掴んできた瞬間、私の体は勝手に動き、手首をぐるっと回して男の手を断ち切った。  これはいわゆる護身術というやつなんだろう。  体が勝手に動いたのは、藤谷茉奈が護身術を身に着けていたからだろうと思われる。 「って! 何しやがんだテメー!」  反撃にあった男は声を荒げて凄んできたけど、私は全くひるまなかった。  本田滉太ならビビったかもしれないが、不思議と勇気が湧いてくる。  藤谷茉奈には、こういう肝が据わった部分もあるらしい。  こんなチンピラに負ける気はしない。  エレベーターが到着し、扉が開いたのを確認。  恵里香の手首を掴んでいた男の手も、彼女の手首をぐるっと回して振りほどく。   「あ! お巡りさん! こっちです!」  警官を見つけたような演技でベタなセリフを吐くと、男達はいっせいに後ろを振り返った。  アホ二人で助かる。  そして素早く恵里香の手首を引っ張ってエレベーターに乗り込み、閉じるボタンを押す。  ここまで2秒ぐらい。  男達は騙されたことに気付いて扉に迫ってきたけど、ギリギリアウト。  直前で扉は閉まり、エレベーターは下降を始めた。  扉が閉まって良かったよ。  最悪の場合、防犯ブザーを鳴らしてやろうかと思ってたけど、そこまでオオゴトにするのも気が引けたから。  しかしバカだねーあの男達。  あんな手に引っかかるなんて。  ボウリング場は5階で、エレベーターは一気に1階まで降りたので男達は追いつけないと思われる。  念のため、徒歩移動を避けてタクシーに乗り込む。  ここまですれば安全だろう。  万全を期して最寄り駅ではなく、少し離れたバス停にでも行けば完璧に撒けると思われる。  タクシーの車内で隣に座ってる恵里香に話しかける。 「大丈夫? 恵里香?」  恵里香はまだ顔が青ざめていて、体も震えていた。 「………」  彼女は何も答えなかった。  いや、そうではなく、何も答えられない状態なのだろう。  こういう怖い目にあったのは初めてなんだろうと思われる。 「ゴメンね。怖い目に遭わせて……。でも、もう大丈夫だから。今日は家まで送っていくよ」 「………」  ふぅ………。  まったくもう。  せっかくのデートなのに、あのチャラ男のせいで台無しだよ。  しばらく距離を稼いでからタクシーを降りて、今度はバスを待つ。  ようやく落ち着いたのか、恵里香が口を開いた。 「茉奈、ありがとう。あんなに強いなんて知らなかった……」  私も知らなかったよ。  藤谷茉奈があんなに強いなんて。  ほとんど体が勝手に動いてたからなあ。  彼女の能力には本当に驚かされる。  まだまだ知らないスキルがありそうだ。 「護身術だよ。役に立ったようで良かった」 「そうなんだ。全然知らなかった……」 「あまり使う機会もないし、知らなくて当然だと思う」 「護身術もそうだけどさ、あの咄嗟の判断力とか素早い行動にも驚いたよ」 「そう?」 「うん、映画や漫画に出てくるヒーローみたいだった」  そこまで褒められると照れるな。 「それより恵里香が無事で良かったよ」  恵里香を守ることが出来て良かったと心から思う。 「まったく……あのアホ男どもめ……デートが台無しだよ」  天罰くだってほしいよ、アイツらには。 「ゴメンね恵里香。ミニスカなのに、私がボウリングに誘ったばかりに……」  これは私が本当に反省しなければいけない点だ。  冷静に考えると美少女二人がミニスカでボウリングなんて、ナンパ男を呼び寄せてるようなものだから。  これについては、あの男達にも1ミクロンぐらいは申し訳なく思う。 「そんな事ないよ。ボウリングは私も賛成したわけだし、悪いのはあの男達で茉奈が謝る必要は全くないよ」 「ありがと。そう言ってもらえると少し気がラクかな」 「茉奈、すごいカッコ良かった。茉奈が男の子だったら、完全に惚れちゃってたかもしれない……」  ……………。  ……………。  ……………。 「………」 「………」 「……………へ?」 「あ! いや、ゴメン! 茉奈はどこからどう見ても可愛い女の子だし、男の子だったらっていうのも変な話だよね!」  恵里香は慌てて取り繕った。  彼女の顔は少し赤くなっていたけど、私の顔も赤くなってたかもしれない。 「………」 「………」  なんか妙な空気だな、おい。  どう対応していいのか、さっぱりわからんぞ。  そんな少し気まずく、くすぐったい空気のままバスが来る。  バスの中では私も恵里香も無言のままだった。  なんか気軽に雑談できるような空気じゃなくなったんだ。  嫌な雰囲気ではないんだけどね。  とてもくすぐったいような、そんな感じ。  目的地のバス停に着いてバスを降りる。  そしてそのまま私は、彼女を家まで送っていった。 「送ってくれてありがとう。でも茉奈の帰り道も、やっぱり心配だよ」 「大丈夫だって。護身術も防犯ブザーもあるから」 「そうやって過信するのは危ないよ? いきなり不意打ちされたらどうするの?」 「不意打ちって……まあ、ないとは言わないけどさ……」 「でしょ?」 「………」  何が言いたいんだろうか、恵里香は。 「……ねえ茉奈。今日泊まってく?」 「え!? そこまで心配!?」 「あ、いや、心配というか……私がなんていうか、今日は茉奈と一緒にいたいかなーみたいな……」  恵里香は目を伏せ、少し照れ臭そうに言った。  気持ちは嬉しいし泊まりたい思いもある。  ……けど、なんかこの妙な空気に耐えられないような気がする。  さっきから恵里香の私を見る目って、恋する乙女みたいに見えるのは気のせいなんだろうか?  そう言ってる私のほうも少しおかしい。  心なしか、恵里香のことがいつもと違った感じで可愛く見える。  この子を守りたいというか、いとおしいというか。  なんかドキドキしてきた。  許されるなら、彼女を抱きしめたいかもしれない……。  仮に私達が好き合ったら、レズって事になるんだろうか?  そういうのは経験ないので困る。  いや、レズの経験なんて、中身が男の私にあろうはずもないのだが。  いかん。  なんか私も少しおかしくなってきたような気がする……。 「うーんとゴメン。今日は帰るね。お泊り会はいずれ改めてしよう」 「あ、うん。無理にとは言わないよ。でもお泊り会してくれるなら楽しみにしてる」  こうして私は自宅へと帰った。  最後、恵里香のことがいつもと違う感じで可愛く見えたのはなんなんだろうか。  男として、可愛い女の子だなあと感じたような気もする。  いや、きっとそうだ。  そうであってほしい。  私の自我の問題は完全に解決されたわけじゃないけど、ひとまず安心していいような気がした。  男としての自我は消滅したわけじゃなさそうだから。  このまま自我が女に染まるなら一人称を”俺”にしたほうがいいと思ったけど、その必要もなさそうだ。  ”私”は私。  当分これでいこう。 * * *  十二月中旬。  たまには学食でお昼食べようか、という話になって私はいつものメンバーと学食に来ていた。 「あれ、前田さんも来てたんだ」  有希が食堂から出ていく前田朋子の姿を見つける。  食堂から出ていく彼女の周りには女子が二人、男子が五~六人いた。 「前から不思議だったんだが───」  その様子を見ていたノリちゃんが言った。 「ウチのクラスで一番男子に人気あるのって、アイツなんかねえ」 「そうなの? どの辺が不思議なの?」  恵里香がノリちゃんにたずねる。 「だってアイツ、友達以外の女子と男子では態度スゲー違うじゃん」  何かあったのだろう。  ノリちゃんが話を続ける。 「男子が野球の話してた時あってさ、あたしもその試合見てたから話に加わったんだが、その場にいた前田にスゲー嫌そうな顔で睨まれてな。『オマエ話に入ってくんじゃねーよ!』みたいな? あれはスゲー怖かったわ」  話を聞いた私と恵里香と有希は苦笑いした。  いかにも前田朋子らしいなーと。  しかし、物怖じしないタイプのノリちゃんを怖がらせるとは……前田朋子、恐るべし。 「可愛さでいうならマナミンのほうが上だと思うんだよな。なんでアイツがモテるのか意味がわからん」 「前田さん、男子に媚びるの巧いからじゃない?」  有希がノリちゃんに言った。  彼女はたまに辛口になるんだ。 「茉奈ちゃんは男子に媚びることはしないけど、前田さんは男子の気を引くの巧いからね。その差が出てる感じ」  これはすごくわかる。  私も昔、前田朋子が自分に好意があるんじゃないかと勘違いした一人だから。 「なるほど。男はわかりやすい女が好きなのか」 「男子の多くは前田さんのこと好きだと思う。彼女がそう仕向けてるってのもあるけど」  これもわかる。  私も昔、そう仕向けられた一人だから。 「そのクセ言い寄られると、冷たくあしらったりする事が多いのよね」  これもすごくわかる。  私も昔、冷たくあしらわれた一人だから。 「それは言い過ぎじゃねえか、ユキぽん。そんな実例でもあるのか?」 「あるよ。最近も前田さん、男子の誰かに告られて手酷く振ったらしい」  これも、ものすごーくわかる……………って、おいィ!? 「え、ちょ、待って! 前田さん、男子の誰を振ったの!?」  思わず大きめの声をあげた私に有希が驚いた顔を向ける。 「誰って……そこまでは知らないけど……」  前田朋子に振られた男子ってまさか……コウタ……なのか……?  時期的にはピッタリ合う。  本田滉太が前田朋子に振られたのは、ちょうど今の季節。  冬休みを控えたクリスマス前、十二月の中頃なのだ。  前田朋子に手酷く振られた時の、ショッキングな出来事の数々がフラッシュバックする。  心臓の鼓動はいつの間にか早くなっている。  手に嫌な汗が滲んでくる……。  <本田滉太・自殺防止プロジェクト>は順調だと思ってた。  コウタが前田朋子を好きになる未来を防ぐ為に、バスケ部への入部を阻止した。  二人の接点を減らせばコウタが前田朋子を好きになるのを防げるんじゃないかと思ったけど……。  ……もしかして違うのか!?  私のやったことは無駄だったのか!?  昼休みが終わり、教室。  少し離れた席にいるコウタを見ると、なんとなく元気無さそうに見えた。  午前中は普通に見えたけど、無理してなんでもないフリをしてたのかな?  もしコウタが前田朋子に振られたとしたら、ホントはすごくショックですごく傷ついてるはずだ。  それこそ傷心のあまり、今すぐ教室の窓から飛び降りてもおかしくないぐらいに。  ……うう、胃の痛みが止まらない。  そういやコウタと前田朋子は同じ委員会なんだった。  仲良くなるチャンスは十分にある。  何より”コウタが前田朋子に振られた”時期がぴったりというのが大きな不安要素だ。  うん、もう、嫌な予感しかしないよ。  あの辛い過去は、変えられないんじゃないかって……。  映研の活動がある日、私とコウタは一緒に帰ることが多い。  地元の最寄り駅まで来ると完全な二人きり状態になる。  駐輪場まで来た所で、私はコウタに話を切り出した。  あまり人もいないし、聞かれたくない話をするには悪くない場所だ。 「ところでさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどいいかな?」 「聞きたいこと? なに?」  冴えない顔色だな。  今日の部活でも元気ない感じだったし、最悪のパターンなんだろうか……。 「最近、ある噂を聞いたのね」 「噂?」 「うん。本田君が前田さんに告ったっていう噂」  若干の嘘を混ぜてダイレクトに聞いてみる。  正確に言うと男子の名前は伏せられてたけど、私はあえてコウタの名前を出した。  告ったのは誰なのか?  それが一番知りたいポイントだったから。 「どう? ホントなの?」  ズバっと聞いたけど、内心は心臓バクバクである。  肯定されたらどうしようって……。 「………」  コウタは何も答えず、宇宙人を見るような目で私を見ていた。 「……それ誰が言ってたの? その噂」 「誰って、一部の女子だけど……」  有希の名前を出すのがためらわれたので、適当にごまかす。 「一部の女子って……誰だか知らないけどさ、なんでそんな噂が立つのかわけがわからないんだけど」  コウタはやや迷惑そうに言った。 「前田さんに告ったのは本田君じゃないの?」 「違うよ! なんで俺が前田さんに告らなきゃならんのか、意味不明だよ」  ち、違うのか?  コウタの口ぶりからすると、嘘はついてなさそうに思える。 「俺と前田さんなんて、たいして仲良くないし接点もなかったじゃん」 「接点はあるんじゃない? 委員会は一緒だよね?」 「そうだけど……たいして活動もしてないし、ほとんど喋ったこともないよ。なんでそんな噂になるのか……誰が言ってたの? そんなデタラメな噂」  心底迷惑そうな表情。  コウタは少し怒ってるような感じだった。 「ゴ、ゴメン。一部の女子のちょっとした噂だから、皆が信じてるわけじゃないよ」 「………」 「………」  ひあー。  これはちょっとまずったかもな。  コウタに怒気を向けられるなんて初めてだ。  何かフォローを入れねば。 「わかった。ゴメン。私から言っとくね。あの噂はデタラメだって」 「うん、そうして」 「………」 「………」  居たたまれない空気の中、コウタが口を開く。 「……いや、俺もなんかゴメン。別に藤谷に怒ったわけじゃないんだ」 「………」 「ただ、俺が前田さんを好きみたいな事実無根の嘘を広められるのも迷惑だから……」 「ああ、うん。よくわかるよ。デタラメな噂流されても困るよね」  誤った噂=『本田君が前田さんに告った』  正しい噂=『とある男子が前田さんに告った』  誤った噂のほうは私が元の噂を改変したものなので、私が誰にも言わなければ大丈夫だ。  事実を確認する為とはいえ、悪いことしたなあと思う。 「間違った噂に関しては私が訂正しとくから大丈夫。任せて」 「うん、頼むよ」 「話はそれだけ。呼び止めてゴメンね。それじゃ、明日また……」  居たたまれなくなった私は、その場を後にしようとした。 「待って!」  呼び止められ、振り返る。 「その、なんていうか……」  なんだ? 「怒ったつもりはないけど、もし怖がらせてたらゴメン」 「………」 「………」 「……ううん、変なこと聞いた私が悪いよ。気にしないで」  コウタは少し視線を逸らして言った。 「俺、藤谷とは同じクラスで同じ映研の仲間で、普通に喋ったりしたいっていうか───」 「普通に喋ってると思うけど?」 「うん、そうなんだけど、そうじゃなくて……」 「?」 「ギクシャクしたまま、変な空気のまま別れたくないっていうのがあって……」  ああ、そういうことか。  なるほどね。  気持ちはわかるよ。  変な空気のまま別れると後味良くないもんね。 「それに、帰る方向は途中まで同じだろ? たまには一緒に帰ろう」  私はクスっと笑って言った。 「ふふ、そうね。自転車押して、途中まで一緒に帰ろうか」 「!」  笑顔で言うと、コウタも笑顔になっていく。  結局、コウタが前田朋子に告ったというのは私の勘違いだった。  話を聞いた限り、コウタは前田朋子を好きにはならないだろう。  コウタが前田朋子に告るのを阻止するというミッションは、今度こそ完璧にクリアと思われる。  <自殺防止プロジェクト>は順調ということだ。  帰り道、自転車を押しながら私達は他愛もない雑談に興じた。  怪我の功名っていうのかな。  誤解から始まった事だけど、前よりもコウタと───ほんの少しだけ仲良くなれたかもしれない。  未来は確実に良い方向に変わり始めた。  そう思わせてくれる、そんな冬の一日。 * * *  冬休みが終わり、暦は三月になっていた。  昼休み。  お手洗いから帰る途中。  私は恵里香、有希、ノリちゃんといういつものメンバーと廊下を歩いていた。  歩いてる時、気になる二人を見つけたんだ。  一人はコウタ。  そしてもう一人はクラスメートの矢島君。  矢島君は深刻そうな顔をしていた。  深刻そうな理由の察しはつく。  彼はバスケ部なので、おそらくバスケ部の先輩の横暴に心を痛めてると思われる。  バスケ部はね、引退した三年生は普通の人だった。  でも二年生に後輩をいびる、メチャクチャ嫌な奴がいたんだ。  私も昔バスケ部だったからよくわかる。  コウタがバスケ部のままだったら……と思うとゾッとするよ。  絶対、いびられてただろうから。  横暴な先輩にいじめられるというのも回避できて、<自殺防止計画>は変わらず順調だと思う。 * * *  四月。桜の季節。  高校二年生になった私はクラス分けの表を眺めていた。  やった!  またコウタと同じクラスだ!  同じクラスの名前に本田滉太の名前を見つけた私は、叫びたいぐらい嬉しい気持ちになった。  やったね!  これで<自殺防止計画>も進めやすくなる。  次の”辛い出来事”は、たしか体育祭前だったかな。  なんとか回避を頑張ろう。  そして六月。  体育祭までは、あと三日に迫っていた。  この学校は体育祭と文化祭を交互にやる所であり、今年は体育祭なのだ。  私は体育祭本番で着るチアガール衣装に着替え、サイズの最終確認をしていた。 「どう? サイズは? 採寸通りに出来たと思うけど」  衣装を作ってくれた恵里香が私に聞く。  彼女は衣装係なんだ。 「うん、ぴったり合ってるよ」 「良かった。衣装作った私が言うのもなんだけど……茉奈、よく似合ってる。可愛いよ」 「ありがと。似合ってるなら授業中もこの格好で過ごそうかな」 「そうしたいなら止めないよ」 「止めてよ。恥ずかしいじゃん」  くだらないことを言いあってクスクスと笑いあう。  冗談めかして言ってみたものの、実はこの格好すごく恥ずかしいのよね。  いつもの制服スカートより丈が短いからだろうか。  制服より生足全開で、上もノースリーブで全体的に薄着になる感じがね。  なんかこう、羞恥心を煽られるんだ。  男子からの視線もメッチャ感じるし。  ちょっと振り返っただけで、たくさんの男子と目が合った。  こらー!  このスケベども!  生足をイヤらしい目で見るんじゃない!  と言ってやりたい気持ちになっちゃったよ。  今日はチアガール衣装のまま体育館で振り付けの練習をした。  体育祭の一週間前からは部活も休みなので、体育館は自由に使えるんだ。  踊る前は不安だったけど、私は上手くチアダンスをこなしていた。  チアダンスを器用にこなすリズム感や体のキレは”元の藤谷茉奈”の能力なんだと思う。  なにしろ本田滉太ときたら、リズム感ゼロの人だったんだから。  練習が終わり、明日はいよいよ運命の日だ。  ”運命の日”とは何か?  昔、こんなことがあったんだ。 【本田滉太の過去の回想 高校二年 六月】  俺はジャンケンに負けて、体育祭の看板作りの係になっていた。  体育祭はあまり好きじゃない。  何が嫌かって、応援練習や準備で放課後の時間を潰されるのが腹立たしいんだよな。  授業を潰してやるならともかく、放課後を潰されるのがね。  特に今の俺は帰宅部なので、放課後を潰されるダメージはすごく大きいのだ。  看板作りは俺と矢島と、松谷と伊藤の計四人でやっていた。 「よし、完成だ!」  最後のペンキを塗り終わった松谷が言う。  体育祭二日前のタイミングで、看板はようやく完成した。 「長かったなー、この道のり……」  俺はしみじみと言った。  たくさんの放課後を潰されてきた、心からの言葉である。 「そうだな。んじゃシートかぶせるか」  完成した看板はグラウンドの片隅に置いて、雨対策のブルーシートをかぶせておいた。  あとは本番まで、このまま置いておけばOKだ。  こうして全作業終了。  看板作り係は解散のはこびとなった。  帰り道。  駅の手前まで来た時、雨が強めに降り出した。  けっこう降ってきてるな。  このまま帰ってもいいのだが、最寄駅から自宅まで雨でズブ濡れになってしまう。  そういや学校に、持ち帰るの忘れてた傘があったっけ?  いい機会だから持って帰ろう。  そう思った俺は再び学校へ戻った。  あったあった。  傘をゲットして、まずは一安心。  雨降ってきたけど看板は大丈夫かな?  ガラにもなく看板を心配した俺は、帰りがてらグラウンドに立ち寄った。  うん、問題ないみたいだな。  ブルーシートは、しっかり雨を弾いていた。  ……いや、待てよ。  ブルーシートの中央に水がたまったらヤバくないか?  もうちょっとシートを伸ばしたほうがいいかもしれない。  そう思って近付いた、その時だった。  俺は看板の淵につまづき、膝から前のめりに倒れてしまったのだ。  両膝をついた瞬間───バキッ!  という嫌な音と感触がした。  まさか……そんな……。  嫌な予感しかしない状態で、俺はおそるおそるブルーシートを捲ってみた。  するとそこには……俺の両膝でのニードロップにより、無残に破壊された看板があった。  全体重をかけた両膝蹴りの破壊力は想像以上で、看板全体に大きな亀裂が入ってる。  これを直すのは一日じゃ絶対に無理と思える程の、壊滅的な損傷。  俺はすごく怖くなった。  無意識にブルーシートを元通りかぶせる。  どうしよう!?  どうしたらいいんだ!?  こんな傷、一日じゃ絶対に直せない。  俺の仕業だとバレたら看板製作チームだけじゃなく、クラス中から責められるだろう。  バレたら立場が非常にヤバくなる。  そこまで考えた俺は、その場から逃げ出していた。  あまりに怖かったので、自分のしでかした事に向き合う勇気が出なかったのだ。  大丈夫。  言わなければ俺だとわからないはず……。  不安が渦巻いた落ち着かない状態で、俺はその日を過ごした。  翌日。  俺はすごく不安な気持ちで登校した。 「よう」  松谷がいつもと変わらぬ様子で挨拶してきた。  変わらぬ様子なのはホッとする。  俺は安堵しつつ「おう」と挨拶を返す。 「本田、朝からバッドニュースだぞ。看板チームは今日も死ぬほど忙しくなる」 「……なんで?」  俺は不安に押し潰されそうになりながらも、とっさにとぼけた。  正直に言う勇気がなかったんだ。 「俺らが作ってた看板だけ壊れたらしいんだ。なぜなのかは知らんけど」 「そう……なのか?」 「オマエは何か知らんか?」 「いや……」  目を逸らし、うつむきながら答える。  さすがに松谷の目を見て答える図太さはない。  この時、クラス中の時間が止まったように感じた。  いきなりシーンと静まり返ったんだ。 「……サイテーだな、オマエ」  松谷の俺を見る目は、汚いものを見るような軽蔑に溢れていた。 「看板壊したの、オマエだろ?」  俺は一瞬で青ざめた。  昨日、松谷は雨が降ってきたことを心配し看板の様子を見に戻った。  その時、俺が看板を壊したことを目撃していたらしいのだ。  最悪だ!  俺は松谷の三文芝居に引っかかったのだ。   「壊しただけならしょうがないにしても、何食わぬ顔で嘘ついてバックレようとするって最悪じゃね?」 「………」  俺は何も言い返せないまま押し黙った。  なじられても、何も反撃できないのが悔しい。  何しろ非は百パーセント俺にあるのだ。  気付くと、クラス中の皆が俺を白い目で見ていた……。  結局、看板はひどく不格好なものになった。  一日で修復できるレベルじゃなかったのだ。  これをきっかけに、俺はクラス中から白い目で見られるようになった。  ハブとまではいかないまでも、それに近い状態になったんだ。  矢島、松谷、伊藤の看板チームだけじゃなく、クラス中から無視されるようになった。  こうして俺は、ぼっちになったんだ。 【回想終了】  いやー、地獄だったね、あれは。  休み時間の時に話す相手がいないだけで、針の筵の感じなんだよね。  体育の時もペアがいないし、修学旅行では余り物のヤンキーと組まされるし散々だったよ。  この黒歴史のきっかけになった看板破壊事件。  それが明日なんだ。  これを防ぐのが目下、最大のミッションとなる。  そして運命の日である、体育祭二日前。  チアダンスの練習が早めに終わったのは助かる。  最悪、仮病で練習をサボってコウタを見張ろうと思ってたんだけど、その必要もなさそうだ。  これなら普通にコウタを見張る余裕は十分にある。  たしか看板作りはグラウンドのどこかでやってたはずだ。  私は高所からグラウンドを見渡せる、三階にあるパソコン準備室からコウタの様子を見ていた。  ここは半ば物置みたいな小部屋なので誰もいないし、滅多に人が来ない場所なのだ。  グラウンドには看板作りをやってるコウタの姿があった。  適当にスマホをいじりながら、その様子を見守る。  しばらくして、看板作りが終わりチームが解散する。  グラウンドは誰もいなくなった。  この後、雨が降るはずなのよね。  念の為さっきスマホで天気予報をチェックしたけど、降水確率は五十パーセントになっていた。  案の定、ぽつぽつと窓ガラスに雨粒が見えだす。  ほら、降り出した。  ここまでは過去と同じ展開だ。  過去を変えるのはここからだ。  この後、コウタが傘を取りに教室の前まで戻ってくるはず。  そこに私が登場して「一緒に帰ろう?」と声をかける。  そうやってコウタを見張り、グラウンドには立ち寄らせない、というのが私の計画なんだ。  そろそろコウタが傘を取りに、学校へ戻ってくる頃かな?  私はコウタを待ち伏せするべく傘置き場へ向かった。 「藤谷、なにやってんだ?」  これから傘置き場へ向かおうという時に、パソコン室から出てきた担任の先生に声をかけられた。  そういやこの初老の先生、パソコン部の顧問なんだっけか。 「いえ何も……帰るトコです」 「そうか。ちょうどいいや。すまんが帰る前に、プリント運ぶの手伝ってくれんか。職員室までだから通り道だろ?」  ええー!?  メンドクサイなあ、もう!  教師ってのは、なんでこう強引なんだろうな。  生徒にも断る権利与えてほしいよ。  ただまぁたしかに、職員室までは通り道なので頼む気持ちもわからなくはない。  これから『帰るトコ』って言っちゃったしな……。 「えーじゃあ、ハイ。手伝います……」  上手い逃げ道を思いつかなかった私は、プリント運びの手伝いをするハメになった。  おも……。  束になったプリントは意外と重い。  さっさと運ぶつもりが、移動に時間をとられてしまう。  お爺ちゃんのような先生なら、なおさらだ。  先生の歩くスピードは非常に遅かった。  もう……じれったいなあ!  もっと迅速に動いてほしい。 「おっと一枚落ちてしまったな」  歩く風圧でプリントの一枚が落ちた。  先生はそれを拾うべく、プリントの束をいったん床に置いた。  そして落ちたプリントを拾う。  あう!  イライラするー!  お爺ちゃん先生は動きがとてもスローリーだ。  もうね、一時間ぐらいかかったんじゃないかってぐらい、長く感じちゃったよ。  こうしてる間にも、コウタが破滅へ向かって歩みを進めてるのだ。  もうコウタをグラウンドに行く前に捕まえるのは無理かもしれない。 「先生、早く行きましょう」 「おお、すまんすまん」  ゆっくり歩く先生に、更なるイライラが募っていく。  イライラが募っていくと同時に、不安も増大していく。  なにしろコウタが看板を破壊したらアウトなのだ。  破壊されたら一日で修復できるレベルじゃないのは私がよく知ってる。  ようやく職員室に到着。  そこで私は、職員室の窓から衝撃的な光景を目にした。  看板が置いてあるほうへグラウンドを横切っていく、コウタの姿が目に入ったのだ。  しまったー!  プリント運びが予想外に時間かかった!!  これマジでヤバいんじゃない!?  待ったなしの状況に、心臓が飛び跳ねそうになる。  作戦は失敗するかもしれない。  そんな恐ろしい可能性が脳裏をよぎる。  もう一刻の猶予もない!! 「藤谷、ありがとうな。助かったよ。お駄賃として飴をあげるな。えーと、どこだったかな……」 「いえ、大丈夫です! 急いでるんで失礼します!」  私は職員室を出ると、ダッシュでグラウンドへ向かった。  グラウンドに出ると遠目に、コウタが看板の傍に立ってるのが見えた。  一気に絶望的な気分になる。  ダメだこれ!  間に合わない!  作戦失敗になるのか!?  ええい! 最後の手段だ!! 「本田くーーーーーん!!!!!」  私はグラウンドの端から、コウタの背中へ向かって精一杯の大声を出した。  力の限り大声を出してみたが、距離がある上に雨音もうるさい。  声が届いたかどうかは、わからない。  だが……届かなかったらアウトだ。  声は届いたのか?  いやもう、届いたことを祈るしかない。  果たして………。  ……………。  ……………。  ……………。  ……………コウタがゆっくり振り返る。  届いた……のか?  コウタがこちらに向かって歩いて来るのが見える。  ……良かった……届いたんだ……。  声が届いたとわかったら、急に雨の冷たさを感じてきた。  私はそのとき初めて、自分が傘も差さずに外へ出た事に気付いた。  人間、何かに夢中になってる時って、傘を差さずに雨中へ出たことも忘れるらしい。  雨に打たれながら歩いて来る彼を待つ。  なんかこれ、ドラマのワンシーンみたいだな。  そう思ったら笑いが込み上げてきた。  ナルシスティックな想像であるし、私はドラマの主人公なんてガラじゃないので。  でも藤谷茉奈みたいな美少女なら、雨に打たれる姿も絵になるのかもしれない。  ……なんて、バカなことを考えて風邪でもひいたらたまらん。  校舎の壁のひさしになってる場所へ移動。  ここなら雨をしのげる。 「藤谷? どうしたの……? あんな大声で叫んで?」  コウタの平和そうな顔を見て、一気に力が抜ける。 「……さっき看板、触った?」 「いや、触ってないよ? それがどうかした?」  ホッ……。  どうやら看板は無事らしい。  私は安堵の息を洩らした。 「ううん、触ってないならいいの」 「???」  コウタは怪訝そうな顔をしていた。  ま、そりゃそうだろうな。 「藤谷は何やってんの? 傘も差さずに……?」 「えーと……それなのよ。傘がないから本田君に入れてもらおうと思って。それでつい大声で呼んじゃったの」  私はとっさに適当な嘘をついた。  ホントは傘置き場に自分の傘があったからね。  でもこれはしょうがない。  ほかに適当な言い訳も思いつかなかったので。 「なんだ。そういうことか。いいよ。傘に入れるぐらい」  ふっと笑ったコウタの視線が、私の足元に注がれる。 「……ところで、なんで上履きのままなの?」  うげ!  しまった!  私、上履きのままなんだった。  まあ靴を履き替えるヒマなんてなかったからねえ……。  これもしょうがないか。 「んーと、履き替えるの忘れちゃったみたい……」  私は照れ笑いを浮かべてごまかした。 「ぷっ……あははは!」  コウタが急に笑い出す。 「しっかり者の藤谷も、そういうドジっ子の部分があるんだな」  おい、笑うな。  誰のせいでこんな苦労してると思ってんだ。 「帰る前に上履き洗うから、待っててくれる?」 「いいよ。待ってる」  力なく笑いかけると、コウタは爽やかな笑顔を返すのだった。  ………。  …………。  ……………………疲れた。  体育祭は楽しく、良い思い出になったな。  元の世界では体育祭の後ハブになったのだけど、そんな事もなく。  コウタは男子達と上手くやれていた。  あわや作戦失敗という危機はあったものの、なんとかミッションクリアだ。  よしよし。  これで高校時代の辛い出来事は全て回避だ!  次は三浪決定という辛い出来事の回避が目的となる。  この調子なら自殺という最悪の未来も回避できるんじゃないかしら?  次も頑張ろう!  <自殺防止計画>はいよいよ大詰めに差し掛かり、完全クリアまであと一歩に迫ったという充実感を私は感じていた。 * * *  ───2021年 3月───  二年後。  私は大学生になっていた。  コウタは現役での受験は全滅だったので、一浪の受験生だ。  そして私とコウタとの関係も高校の同級生から、たまにメールする関係というのに変わっていた。  まぁ頻繁に会って遊んでも良かったけど一浪中の受験生だからね。  勉強の邪魔をしたくはなかったのだ。  それが原因で受験失敗されても困るし。  私もコウタに合わせて浪人することも考えたのだが、余計な出費は藤谷茉奈の両親に申し訳ないという気持ちがあった。  それに、ひと足先に大学に合格して、コウタが大学生活を楽しく送る為の情報を集めておくのも悪くないかなって思って。  ちなみに私が入学したのは、コウタの滑り止めである明城大学というところだ。  ランク的には中堅ぐらいの大学だ。  藤谷茉奈の頭脳なら、もっとランクの高い大学も狙えただろうけどコウタが入れる大学がここしかなかったからね。  同じ大学でキャンパスライフを過ごすべく、私が合わせたんだ。  今日は合格発表と同時に、記念すべき<自殺防止計画>の集大成の日でもある。  コウタが自殺したくなったのは辛い出来事が重なったからだ。  でも辛い出来事である失恋や、看板破壊事件のハブは私のサポートにより回避した。  後は三浪という辛い出来事を回避するだけなのだ。  今日合格することで三浪を確実に回避すれば、自殺という未来は無くなるはず。  そういう、めでたい日なのである。  私はコウタから合格を知らせるメールを待っていた。  合格したら教えてとメールで言っておいたのだ。  コウタが今日、滑り止めである明城大学に合格するという事を私は知っている。  過去では滑り止めの大学に入学しなかったのだが、入学するよう説き伏せるつもりだ。  その為に私はわざわざ同じ大学に入ったのだから。  ホワンホワンというメールの着信音がした。  来た!  合格通知!  私はスマホを手に取った。  スマホの画面には─── 『落ちた……』  というコウタからのメールが表示されていた。  ……………。  ……………。  ……………。  …………………………え?  どゆこと?  私が知ってる過去は二回目の受験時、明城大学には合格したのだけど?  なんで……? 『見間違いじゃないの? こっちでも調べるから受験番号教えて?』  と返信を送ってみる。  数分後、受験番号はすぐに教えてもらえた。  教えてもらった受験番号をメモして明城大学のHPにつなぎ、合格発表欄をチェックしてみる。  やっぱり見間違いだった!  コウタの受験番号あるじゃんか!  ………と言いたいが、ない。  ないよ。  ホントにどこにもない!  マジかーーー!?  見間違いだとタカをくくっていたので、私はここで初めてコトの重大さを認識した。  過去が変わってんじゃん!  悪い方向へ!  コウタは一浪中に明城大学には合格するはずだったのだが、なぜか過去が変わって不合格になってしまった。  なんでこんな事に!?  なぜ過去が変わったんだ!?  どこで間違えたんだ!?  原因を考え始めて数分後、私はある仮説に思い至った。  ……これもしかして、ある過去を変えた事が、別の過去を変える要因になってしまったんじゃないだろうか?  わかりやすく言うなら、こういう事だ。 【実際の本田滉太の過去】 ・コウタは二年生になってバスケ部を退部 ・体育祭の看板破壊事件のせいでクラスで孤立する ・やることないもんだから、二年生の夏頃から受験勉強を始める(クラスメートよりも良い大学に行って見返してやりたいという気持ちもあった) 【今回のコウタが歩んできた道のり】 ・部活は映研を三年間楽しむ ・体育祭の看板破壊事件を回避し、クラスで孤立しない ・なんだかんだで高校生活は楽しいので、受験勉強開始が遅れる  大学には現役で合格しなかったので、あまり影響はないとタカをくくっていた。  でも、違うんだ。  受験勉強を始めた時期が遅れたことで後に大きな禍根、ビハインドを残してしまったのだ!  うわー!  さすがに、こんな展開は予想してなかった!  受験勉強開始の遅れが、一浪後の受験結果にまで影響するなんて誰が予想できようか。  とにかくこれは、私のミスだ!  しかもけっこう大きな致命的なミス!!  来年コウタは滑り止めにも落ちて三浪が決定してしまう。  自殺しちゃう未来になっちゃうじゃんか!  ドクン───  胸の中で、言い知れぬ巨大な不安が脈打った。  とても嫌な予感が頭をもたげてくる。  急にコウタのことが心配になってきた。  コウタ……!  会いたい!  今すぐ会わなきゃ!  今日は傍についててあげたい。  そう思った私は上に羽織るパーカーを引っ掴んで、家を飛び出した。  自転車を全力で漕ぎ、駅に到着した時は息が切れていた。 「ハァハァ、ハァハァ……」  ホームへ向かいながらコウタへメールを打つ。 『今どこにいるの?』  コウタは合格発表をネットではなく、直接見に行くと言ってた。  ので、電車に乗り込み明城大学へ向かう。  その電車の中で返信が来る。 『いま松葉公園』  松葉公園!?  地元じゃんか!!  しまった!  すれ違ったのか! 『今すぐそこに行くから、待ってて!』  メールを送り、電車を乗り換える。  戻りの電車を待ってる間、返信が来なかったので直接電話をかけてみた。  が、つながらない。  どうして!?  電源切ってるのか!?  いよいよ嫌な予感が強まっていく。  今はとにかくコウタの無事な姿が見たい。  私の思いはそれだけだった。  地元の駅へ引き返し、急ぎ松葉公園へ向かう。  ……………。  ……………。  …………………ダメだ。どこにもいない。  どこだ?  どこにいるんだコウタ!?  焦りが募るなか、コウタがいる場所を思いつく。  まさか……!?  そこには居ないでほしいという思いに駆られながら、そこへ向かう。  藤谷茉奈、そして本田滉太が死亡した運命の交差点へ。  そこにコウタの姿は………あった………。  居た。  虚ろな表情でボーっと突っ立ってるコウタの姿を見つけた。  と同時に、強引な右折により直進車と右折車がぶつかり、それを避けようとしたトラックがコウタのほうへ向かっていくのが見えた。  ………なんで………また………  コウタがトラックに跳ねられるのは変えられない運命なのだろうか?  トラックに跳ね飛ばされて宙を舞ったコウタの姿を見た瞬間、私の意識はプツっとスイッチが切られたように消滅した。 * * *
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