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行き場のない怒りと悲しみを悶々と募らせていると、咳払いする声が聞こえてくる。振り返ると、オフィスカジュアルコーデに身を包んだ女性が仁王立ちしていた。
すらりと伸びた美脚で黒いパンツを見事に着こなし、ハイヒールもかっこよく決まっている。バランスの整った容姿をしているが、白いブラウスを内側から押し上げている豊満な胸だけがアンバランスだった。彼女は黙ったままバックヤードの扉を閉めた。
「亀甲縛りだの、童貞だの……バックヤードの扉開けっ放しで卑猥なワードを連発するのやめてくれる? お客さんに聞かれたらどうするのよ」
「だってさ。橋本に謝れ、由乃」
「なんで俺が」
「由乃君で遊ぶのいい加減にやめなさい。そあらちゃんも吉永の口車に乗せられないの」
「明里先輩……」
羨望の眼差しを向ける。さすが俺の周りで唯一の常識人。彼女の名前は橋本明里。大学のOBで吉永先輩と同い年。卒業後は出版社に就職して営業部に配属された。営業周りでこの書店にもよく来ているので、今も仲良くしてもらっている。
「人には触れられたくない事の一つや二つあるのよ。それを面白がって笑い飛ばさないの」
「そうだな。童貞なんて言って悪かったな。由乃」
「由乃先輩が卒業できるように、そあらが描いた同人誌プレゼントしますね!」
「いらないし、俺のことはもう放っておいてください!」
「またそんなこと言って。貴方達のせいで営業周り初めての川島さんも赤面よ」
話に夢中になっていて気が付かなかったが、明里先輩は後ろに女性を引き連れていた。スーツ姿があどけなく、堂々としている明里先輩とは違って新人っぽさが窺える。
「書店員さんって個性的なんですね……」
「ここの店が特別なだけよ。他の店はまともだから」
それから川崎さんは丁寧に挨拶してくれた。俺達バイト勢も揃って挨拶する。
「社員さんに用ですか? みんな表に出てると思いますけど」
「ううん、今日はみんなに報告したいことがあって。私、今月から編集部に異動になったんだ。今日は後輩に引き継ぎを兼ねてここに来たの」
「前から編集部に行きたいって言ってましたよね! おめでとうございます」
「ありがと。ところで由乃君は就職決まった?」
予期せぬ流れ弾が飛んできて俺から生気がなくなる。
「ごめん、聞かないでおく」
「さすが明里先輩は察しが良いですね」
「まだ七月だし。平気、平気! 十月の内定式までに決まればいいのよ」
「逆算すると二ヶ月半しかないという事実にはこの際、目を背けたいと思います」
「というか、バイトしてる場合じゃないんじゃない?」
「でも、生活費稼がないと。親の仕送りだけじゃ生活できないんで」
「これが苦学生の実情か。泣かせるわ」
明里先輩は憐れみの表情で額に手を当てる。
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