岸田國士『桔梗の別れ』

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ

岸田國士『桔梗の別れ』

 先に取り上げた『カルメン』、またその中で言及した『サロメ』などは、ファムファタルといっても異論は上がらないだろう。本人に自覚があろうとなかろうと、悪いことをしているのだから。  今回取り上げる『桔梗の別れ』に登場する笛子という女性は、悪意など持っていないし、悪人でもない。彼女自身、罪などひとつも犯していない。魔性ということばも似つかわしくない、ピュアな魅力を持った女性である。—— そのことは、最後の母親の行動からも読み取れる。 afe26294-54c9-4de1-a653-196ed0c5398b  主な登場人物は、笛子とその母親、そして、ある高原の避暑地で出会ったふたりの青年の合わせて四人。ふたりの青年は母とともに避暑地にやってきた笛子と友達になり、母も交えて四人でテニスをする仲になっている。この物語は、笛子と母親が明後日には帰らなくてはいけないというところから始まる。  これまで拙作で取り上げてきた戯曲作品の例にもれず、この作品にも、じっさいに芝居として見せるよりも登場人物の回想として語らせるという手法が使われている。笛子とその母親の会話が、小説でいうところの語り手のような役割で、青年たちのキャラクターを浮き上がらせているのだが、ここで大事なのは、あくまでも彼女らの主観による描写だということだ。  『ハムレット』におけるオフィーリアの死はガートルードによって語られるが、あくまでもオフィーリアが死んだという客観的な事実と視覚的なようすを伝えるといった要素が大きい。しかし、この岸田作品で語られる青年たちのキャラクターは、笛子とその母親の捉えた彼らであるといった主観の要素が強いのだ。岸田作品は他にも何作か読んだが、こういう観客・読者に対して事実をベールに包んで伝えるような手法が巧い。こうしてふたりの青年のキャラクターを浮き上がらせつつ、笛子に対する思いがあるやらないやらを観客・読者にほのめかしながら、笛子というヒロインのピュアでとても愛らしいようすを描写しているのだから、美しい。  ラストもまた象徴的である。桔梗の花の描写が光景として美しいのもさることながら、母親の行動が、この物語における笛子のキャラクター・立ち位置を静かに明確に際立たせているのが、なんとも切ない。芝居はリアクションが大事ということはいわれるが、これは演じる者だけでなく、観客・読者、そして人物と物語とを構成する作者にとっても重要なことなのだと思わされる。  避暑地の爽やかな光景と切なさのある青春の物語を合わせて「情景」とした作品。小品ながら、絵になる物語である。こんなものを —— 絵を浮かばせる物語を —— 、筆者も書いてみたい。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!