ソポクレス『オイディプス王』

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ソポクレス『オイディプス王』

5112617e-b239-48c9-b67a-dc2a1820f822  女怪スピンクスを倒し、テーバイの王となった英雄オイディプスが、疫病から街を救うために神託に従い、街の(けが)れを取り除かんとして、テーバイの前王を殺した犯人を捜す。  前王ライオスはオイディプスがテーバイへやってきて王に即位する以前に、何者かによって殺されていたが、その穢れによって街は疫病を(こうむ)っているという。  英雄オイディプスは犯人の捜索を開始するが、やがて自身こそがその犯人であり、街の穢れであるのだと知るにいたる。—— しかも、彼がこの街の王と知らずに殺害してしまったライオスは、彼の実の父親であり、その後、彼自身の妻となった妃イオカステが実の母親であったということをも知る。—— 自身が何者か、素姓を知ったオイディプスは、みずから両目をつぶして街を出た。  とまあ、要約するとこんな物語だ。  おもしろいのは、正義漢オイディプスが我知らずに罪を犯し、罰する側であると思って疑わなかったのが、最後にはもっとも罪深いのは自分なのだと気がつくという、鮮やかな逆転の構成だ。  彼は犯人捜しの過程で、預言者テイレシアスや義弟クレオンが怪しいと感ずるや、徹底的にその人を責め立てようとする。己が正義だと信じている者は強い。—— 事実、オイディプスは悪い男ではない。道で喧嘩をふっかけてきたライオス王一行を殺しはしたが、邪悪な心から行動を起こすような悪漢であるわけではない。英雄として王位に就き、彼自身もそれを誇りに思う、そんな人間だ。——  はじめこそ、自身の正義に関して自信満々のオイディプスだが、義弟クレオンとの(いさか)いののち、妃イオカステとの会話の中で、徐々に疑念を抱き始める。—— ここがまたおもしろいのだが、妃が彼を安心させようとして言う過去の出来事が、かえって彼を不安にさせることになるのだ。妃はオイディプスの素性を知らないし、オイディプスも過去のテーバイを知らない。自身の知っている事柄によって、その人の得た情報の持つ意味、その認識は変わってくる。が、すべての情報が合わさったとき、真実はひとつしか浮かび上がらない……。  シェイクスピアの『マクベス』で、魔女の預言はマクベスをいったん安心させるが、この時点で、魔女はすべてを知っていた。つまり魔女は、「森が迫って来ないかぎりマクベスは無敵」などと言って彼を安心させるが、じっさいにはその通りのことが起こりマクベスが死ぬのを知っていた。  ところが、オイディプスの妃イオカステは、自身のもたらす情報がオイディプスに破滅を知らしめることになるとは思いもよらず、良かれと思って彼に話すのである。もちろん観客は、それを知りつつ見ているし、読者も知りつつ読んでいる。これはドラマティック・アイロニーといって、人物の預かり知らぬことを知ってこそ楽しめる、戯曲・芝居に見られる特徴的な要素だ。(小説にも「神の視点」といったような表現方法はあるが、登場人物の会話の中にこのようなドラマティック・アイロニーを楽しむには、戯曲・芝居のほうが適しているように思う。)  もうひとつ、戯曲・芝居ならではのおもしろさが感じられる点を挙げると、真実が明らかになったのちの、妃の自殺からオイディプスがみずからの両眼を刺し(つらぬ)く一連の出来事、—— これらが、使者のことばによって、場にいる者たちに語られるところだ。  先に取り上げたシェイクスピアの『ハムレット』におけるオフィーリアの死も同じだが、こういったことにはやはり戯曲・芝居が向いている。小説であれば、たとえ人伝(ひとづて)に語られるという設定であったとしても、読者の脳内イメージは現場へ完全移行してしまう。ところが、戯曲であれば嫌でもセリフをいう人物名(頭書(かしらが)き)が表記されており、芝居であれば、嫌でも舞台上に「事件を聞く」者たちの場が目に見える形で残るのだ。よって、読者や観客は脳内に現れる現場の想像図とともに、「事件を聞く」という立場の人物の体験まで、臨場感をもって味わえるのだ。  さて、今回の冒頭に貼りつけた拙作の絵には、『オイディプス王の幸福だった日々』というタイトルをつけた。隠さずにいえば、フレデリック・グッドールの絵画『チャールズ1世の幸福だった日々』を真似たものにすぎないのだが……、オイディプス王のみずからの出自を知る以前の姿を描いてみたので、彼の悲劇を知る諸君よ、まだなにも知らない悲劇の王を見て、筆者の仕掛けたドラマティック・アイロニーを楽しむがいい。ふはははは。
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