梶井基次郎『檸檬』

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ

梶井基次郎『檸檬』

 高校生のとき、本好きの友人が「わからねえ」と言っていたのが梶井基次郎の『檸檬』だった。また、テレビでは某有名大学の学生が「梶井の作品は書かれていることと言いたいことが別にあるのが奥深くていい」といったニュアンスのことを言っていたのを聞いた記憶もある。これらの梶井評を聞いたとき、私はまだ梶井基次郎を読んではいなかった。  私が『檸檬』を読んだのは大学生のときだ。ちょうど、将来に対するぼんやりとした不安から、焦燥というよりむしろ倦怠を感じていた ―― そんな頃だった。ふと思い立って、「青空文庫」を開いて読んだのだ。  感動した。正直に言って泣きたくなったくらいだ。私には痛いほど、語り手の心情がわかった気がした。同情ではなく、共感だった。―― 美しい光景に心を奪われ、空想に心を浸して自分だけの喜びを楽しむ……。  そしてなにより、語り手の見ている光景がひどく美しかった。特に、果物屋の光景だ。―― 中のようすもいいが、外観の描写が美々しくて、温かくて素敵だった。闇に浮かび上がる店の光……。  思うに、梶井の表現はどこもひねくれてはいないし、文字を通して伝えたいはっきりとした思想があるわけでもない。ただただ、見えた光景に感じた心情を合わせて文字に起こしたにすぎない。たとえるならば、同作家の『城のある町にて』で言及される「レンブラントの素描」のようなものだ。  しかし、それが梶井基次郎という作家の独特の感性をもった主観を通して文字に現れるために、どちらかというと印象派や象徴主義の絵画に近くなる。―― 彼らは自身の見た光景や情景を写実しているにすぎないが、他から見るとそれが斬新な、あるいは奇をてらった表現に思えてしまうこともあるのだ。―― 梶井の小説にも同様の現象が起こっているように思われて、私は少し悲しく思う。  「難解」ということばが文学や映画作品などを評するのに使われることがあるが、この原因は読者や観客の側にあることも多い。つまり、それが「解する」ことを必要としない作品である場合、どうにかして内容やテーマ・寓意を読み解こうとすると、それがうまくいかずに「難解」という感想になる。  おそらく、梶井の小説を読む際には読み解きや謎解きは必要ない。宗教画や寓意画ではなく、風景画を眺めるつもりで読むと味わえるのだと思う。 6c215875-b4a3-4d47-8a03-d91ca6316bd8
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!