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他県に縁のない田舎育ちの私が、電車を乗り継いで京都まで出向いたのは、この春から京都の大学に通うことになっているからだ。
それというのも――。
「ナナちゃん、進学を希望していたけど、京都の大学が第一志望なんだってね?」
そう訊ねられたのは祖母が他界して、二月ほどが経った去年の春先のことだった。
手製のブラウニーを前に、ほうじ茶を淹れていた私は目線を上げる。
目の前の彼女は、祖母の葬儀でも大変お世話になった母の親友だった人、野沢汐里さん。
物心つき始めた頃に私の両親は事故で他界し、私の家族は祖母一人だけだった。汐里さんは、母を亡くした幼かった私をとてもかわいがってくれ、血の繋がりこそ無いが、私にとっては伯母さんのような存在だった。
「有紀に聞いたんだけど、F大が第一志望だってね。流石だわ~」
有紀とは汐里さんの娘さんで、私より二つ上のお姉さんだ。
小さい頃からよく遊んでもらっており、大阪の大学に進学してしまった今も、時折に連絡を取り合っている。
「そんなことないです。だから、何となくです。それに、今は進学するかも迷っていて……」
家族を全て失い、この生まれ育った町からも離れてしまったら、自分という存在がいよいよ希薄になってしまうような、そんな心もとない気持ちが膨らんでいた。
「その……、地元で良い職でもないかな……って」
それが後ろ向きの気持ちからだとわかってはいた。
だから目を合わせづらくて、手元のお茶を見つめたまま汐里さんの前にそっと差し出した。
「私は反対」
いつになく揺るぎのない声音が私の顔を上げさせる。
正直、少し驚いていた。
汐里さんははっきり物を言う娘の有ちゃんとは違って、ほんわかしたやわらかい物腰の人だったからだ。
目をぱちくりさせた私に、汐里さんは、そっと舌を出した。
「ちょっと、有紀っぽくしてみたの。どう?似ていた?」
ほっとして、私は緩んだ顔で頷いた。
「有ちゃんがいなくて寂しいですよね」
「そうねぇ。でも帰省した時、びっくりするくらい大人になってて嬉しくなるのよ?反対に変わらないくらい子供なとこもあるけど。ふふ」
「だから、ナナちゃんも若いんだからもっといろいろ挑戦しないと勿体ないと思うのよ」
「でも、この家に誰もいなくなってしまうもの……」
ここは私とお祖母ちゃんの大切な箱庭だ。
二人で過ごして、育んできた日々が詰まっている。
私は、少し喉を震わせてしまった。
口に出してみて、ここが、何もかもが風化してしまうことが、何より怖いのかもしれないと気付いた。
俯いてしまった私の頭を汐里さんの優しい手が撫でる。
「大丈夫。私も私の母も責任もって風通しをしとくわ。ナナちゃんが帰省した時、ちゃんとお祖母ちゃんが迎えてくれるようにね」
汐里さんのお母さん――京子さんは、祖母のお茶飲み友達だった人で、元は京都の出の人だ。
今でも御花の先生をされていて、小学生の時は私も習っていた。
「この町でずっと暮らしていくっていうのが悪いことだって言ってるんじゃないのよ?」
「ここは良いところよ。コンビニも無いし、夜には自動販売機の明かりが煌々と目立っているような田舎だけどね」
そう言えば、三か月前にはあった駅前のコンビニはいつの間にか閉店してした。
「……駄目なのかな」
「駄目じゃないけど、敢えて駄目だって言わせてちょうだい。私はもっと成長して、素敵な大人になったナナちゃんが見たいから」
「もしかして、経済的なことを気にしている?」
ふるふると、私は慌てて首を横に振る。
「おばあちゃんは、ちゃんと私にそれだけのものを残してくれていましたし」
その辺りを心配する汐里さんには安心してもらおうと、祖母の残してくれた私名義の通帳を見せてあった。
それは私にも内緒でコツコツ貯めてくれていたものだ。
奨学金を学費にあてがえば、当面は心配することはないだろう。
「そうよね」
汐里さんは目を細めて仏壇の方を見つめた。
「おばあちゃんも、きっとナナちゃんに羽ばたいて、広い世界を見て欲しかったんじゃないかな」
きっとそうだと思う。
だから自分が癌だと申告されても、誰にも伝えなかった。私にさえも。
そして手術や治療を一切受けつけずに、あっさりと旅立つ選択をした。
きっと、少しでも多くを私に遺そうとしか考えていなかったに違いない。
病床に就いた祖母の骨と皮だけになった手が、私の膝に置いた手を包む。
驚くほどに冷たい、蝋のような白い手だった。
死期が近く、次第に血が通わなくなっていたのだ。
『ナナ、ばあちゃんはね、もう充分なの。もう、充分頑張ったから、次はナナが頑張る番。順番なの』
そう言って、いつまでも「もし、もっと早くに……」と、思ってしまう私を祖母は一笑に付していた。
そのいつまでもを、私は未だに捨て切れない。
やるせない気持ちになっていた私は、いつの間にか膝に置いていた手をきつく握りしめていた。
「ねぇ、ナナちゃん。京都にいる私のお義姉さん覚えているかしら?」
話題を変えるように、汐里さんは明るいトーンで切り出した。
「健次郎さんのお姉さんですよね?確か、学生向けの下宿をされているとか」
健次郎さんとは汐里さんのお婿さんだ。
次子の健次郎さんは長女の汐里さんを慮って、婿養子になってくれるような寛大なお人柄だった。
「そうそう、有紀もそこから通わせようと思ってたんだけど、『あんなごった煮のような寮はヤダっ!』て、あの子、我儘言ってねぇ。市内のオートロック式のワンルームを勝手に借りてきちゃったのよ。まったく、困った子よ」
鼻息荒く、汐里さんはブラウニーにフォークを突き立てた。
「うん。洋酒が効いて大人の味よ。どう?」
私が気落ちしていないかと気に掛けた汐里さんが、ブラウニーを差し入れてくれたのだ。
私も倣って、一口頬張る。
落ち着いた甘さが口の中でやんわりと溶けた。
しっとりと洋酒が効いていて、確かに大人の味だ。
「とても美味しいです。甘いのが苦手な人でもこれなら大丈夫だと思います」
もうすぐバレンタインデーだ。甘党でない健次郎さんにはピッタリだろう。混ぜ込んであったほろ苦いオレンジピールがチョコの甘さを抑えている。
「いやぁね。別に健さんの為に試作したわけじゃあないのよ」
――はい、ふふっ。私もそうと口にはしていませんよ。
私は密かに口の中で笑みを含む。
そんな私を余所に、汐里さんは目尻を下げて、話し始めた。
「それでね。そのお義姉さんがね、ナナちゃんがF大学受かったら、手伝いに来てくれないかって言うのよ。」
「へ?」
何でも私の下宿代及び生活費を援助する代わりに、寮母の手伝いをしてくれないかというお話だった。
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