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 それから約1年後、ヒスンが大学院修士課程から博士課程へと進学したことを除けば、特に変化の無い日常を送っている時に、ヨンチョルは「憲法第9条がノーベル平和賞受賞!受賞対象は第9条を保有する全ての日本人」というニュースを、たまたま点けたテレビのニュースで知った。 (そう言えば、1年前に『日本国憲法・特に第9条を聖書・コーランと並ぶ人類普遍の聖典にしようの会』とかいう市民団体の講演会を聴きに行ったことがあったな…)  しばらく忘れていたが、あの時、ヨンチョルはモヤモヤとした思いを抱えながら帰宅し、その後に一週間店を休業することになった。その時の思いを振り払い、彼は店舗の業務用冷蔵庫にマグネットで留めてある、「居酒屋 蒸気宇宙船」の栞を外し、自分の財布に入れる。翌日に店を早めに切り上げて、「9聖の会」の溜まり場となっている居酒屋に、顔を見せに行こうと思ったからである。 「日本国憲法第9条のノーベル平和賞受賞」の報せの翌日、ヨンチョルは店を早めに仕舞い、「9聖の会」の溜まり場となっている「居酒屋 蒸気宇宙船」に赴いた。 「いらっしゃいませ~」  眼の下にくまが出来た、生気のない20代前半ほどの女性店員が応対する。ヨンチョルは彼女に訊ねる。 「あの、この店に『日本国憲法・特に第9条を聖書・コーランと並ぶ人類普遍の聖典にしようの会』の方々は来ていませんか?」 「ああ、あの会の方たちでしたら『ボイラーの間』におります」 「そ、そうですか。わたくしはあの方たちに、ちょっとだけ顔を見せたいのですが、いいですか?」 「どうぞ、勝手にして下さい…」 「では、15分ほどしたら帰りますので…あの、ついでにおつまみも買いますから…」 「そうですか…ありがとうございます」  ヨンチョルは「ボイラーの間」へと向かう。先ほどの店員が、他の店員と会話をしている。 「『第9条』がノーベル賞を受賞したって、私たちの時給が上がったり、休憩時間や休日が多く貰えたりするわけじゃないのに…。あの会の人たちも、よくはしゃげるわね…」 「ボイラーの間」からは「イ~ヤッホ~!」「イェ~イ!」等といった奇声が聴こえてくる。ヨンチョルは「ボイラーの間」の襖を開ける。 「あ、皆さん、お久しぶりです。『憲法第9条のノーベル平和賞受賞』おめでとうございます」 「9聖の会」のメンバーたちの目が、一斉にヨンチョルの方へ向く。しかし、その目は汚物を見るような眼差しであった。 「何だお前?お前を呼んだ覚えはねえんだがな」  20代後半~30代前半に見える御供所町博太幹事が、50代前半のヨンチョルに対して「お前」呼ばわりする。 「で、でも私は『憲法第9条』がノーベル平和賞を受賞したので、そのことをお祝いに…」 「おい!在日コリアンのおっさん!日本国籍も持ってねえお前が、偉そうに『平和』という言葉を使うんじゃねえ!お前らに『平和』という言葉を使われたら、この言葉が穢れるわ!」 「そうだそうだ!日本国籍の無い在日コリアンだの華僑だの日系ブラジル人風情に、『平和』というものが理解できるか!いや、理解されて堪るもんか!」  他の会員たちも、口々にそう言う。 「……」ヨンチョルは、1年前のように絶句する。「か、会長さん!会の人たちがこんなことを言っていますけど、これでいいはずはないでしょう。会長さんの方から窘めて下さい」  ところが、会長はこう言い放つ。 「何を言っておりますの?会員の方々の仰る通りですわ。『平和憲法』は、日本国籍を持つ者のみが、持つ資格がありますわ。ハッキリ言って、南北冷戦の終結していない朝鮮半島出身の、貴方風情に『平和』を語ってほしくはありません。日本人のみが『平和』を語る資格と責務があるのですわ」 「……」  ヨンチョルは、会長の言葉にまたしても絶句する。別の会員が言う。 「おい、在日コリアンのおっさん、お前んトコの国じゃ、未だに時代遅れの徴兵制度があるんだってな。日本にゃ、そんなものはねえんだ。だからこそ俺たちは胸を張って『平和』を語れるんだよ!おっさんも、さっさと兵役の義務を済ませて来たら?あ、お前ら兵役逃れのために日本に来たんだったな?こりゃ済まねえ!」  その会員が言うと、会場は「ワッハッハッハ!」という爆笑に包まれた。  ヨンチョルは怒りと屈辱で顔を真っ赤にし、握りこぶしはうち震え、そして遂に堪忍袋の緒が切れた。 「何がノーベル平和賞だ!あんなもの、ドケチで生涯結婚も出来なかった戦争成金が、遺産の使い道に困って設立した賞じゃないか!!俺は知っているぜ!ノーベル賞の選考委員会が、自分たちの国が戦争に巻き込まれたくないって理由で、あのアドルフ・ヒトラーをノーベル平和賞候補に仕立て上げたってな。そんな血にまみれたノーベル平和賞なんざ、こっちから願い下げだ!!!」 「9聖の会」の会員たちは一瞬押し黙ったが、すぐに爆笑する。 「ワハハハハハ!こいつ、言うに事欠いて、『のーべるへいわしょうなんてほしくないも~ん』なんて言ってやがるぜ!こりゃ傑作だ!!」 「お待たせしました。ビール5本と焼酎2本、カルアミルク3本です」  憔悴しきったような顔立ちの、若い店員が入ってくる。 「遅いんだよ!これだから高卒ド底辺の店員は…。ま、コイツらに較べりゃ俺たちは高尚な理念で運動しているから、この店の店員連中よりはるかにスマートな知性を有しているんだがな」  会員のひとりが怒鳴って嫌味を言い、まだあどけなさの残る店員は今にも泣き出しそうな顔で立ち去った。それを見てヨンチョルも啞然とする。そしてまたもや怒りが込み上げる。 「…もうお前らに言うことはない!帰る!」ヨンチョルは踵を返し、出入り口へと向かう。ついでにレジの前に置いてある唐揚げのパックをひとつ乱暴に引っ掴むと、1万円札をバン!とレジの前の店員に叩きつけて言う。「釣りは要らん!!!」
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