水曜日

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水曜日

「かつて文字は、絵だったのよ」 まだ幼く小さな世界に属していた時期、ある人が僕にそう告げた。どういうわけか、一篇の詩を思い出すみたいに、その言葉が胸をかすめたのだ。だから、文字を絵として捉えてみよう、なんて思ったのかもしれない。 僕は本の頁を操る手を止めて、文字をジッと見つめた。 しかし、いつまでたっても文字は、文字のままだった。僕のスクエアな思考は、文字を絵として捉えてはくれなかった。かくなるうえは、そう捉えるためにレッスンをせねば。 夏の軽井沢のホテルのラウンジは、朝の爽やかな光に包まれていた。クラシカルな調度品、瑞々しい観葉植物、センスの良いコーヒーカップとソーサー、etc。全てが絵に描いたように輝いていた。 僕は瞼を薄く閉じると、目に入る景色の解像度を下げることにした。レッスンをはじめる前に、しばし休憩だ。 ……。 ややあって、ホテルのスタッフの優美な声が聞こえてきた。僕は薄く閉じていた瞼を開けた。 「おやすみのところ失礼いたします。水野様。高橋様から、フロントにお電話が入っております」 「どうもありがとう」と僕はそっと礼を言い、フロントに向かった。そして、フロント係から受話器を受け取ると「もしもし」 「グッドモーニング」と、高橋のまぬけな声が聞こえてきた(彼は学生時代からの友人だ)。「水野、調子はどうだい?」 「上々さ」と僕は簡単に答えた。「そうだ、高橋。週末の天気予報だけど、お望み通り晴れだとさ」 「晴れ男がそっちに行くわけだから、当然だ」 受話器からマッチの擦れる音と、タバコの焼ける音が聞こえた。タバコの匂いはしない。「で、用件は?」 「大した用件じゃないんだ。一応、確認しておこうと思ってさ」と高橋は言い、一呼吸置いて「水野が軽井沢にいるってことは、例のブツも一緒なんだな?」 「大丈夫だよ。心配するな。例のブツも一緒だ。そんなことより、本当にやるつもりなのかい?」 「もちろんさ。予定通りに計画は遂行する。だから、よろしく頼むぞ」 「わかったよ」 僕は受話器を右手に持ち変えて軽く壁にもたれると、ロビーを行き交う人たちに視線を移した。すると、日傘を手に持ち、フィルムカメラのオリンパス・ペンをぶら下げて、ワンピースを着ているにもかかわらずランニングタイプのスニーカーを履いた女性が、目の前をスッと通り過ぎて行った(散歩にでも出かけるのだろうか?)。彼女の洗練された歩き方が目を引く。とくれば、纏っている時間に、特別な価値が宿っているようにも見えたりする。その手の女性は、人ごみの中でも目立つし、そうじゃないならなおさら目立つと相場は決まっている。 そして彼女は、外に出ると軽く空を仰いだ。まもなく日傘が開く。日傘の模様はボーダーだった。 「……なあ、水野。話聞いているのか?」 僕は溜息をついてから答えた。「聞いているよ」 「じゃあ、返事ぐらいしろよ」 「忘れていた」 「たまげた。返事するのを忘れてたってのかよ」 「少し違う。電話中だったのを忘れていた」 「おいおい、そっちかい」と高橋は言い、重ねて「まぬけな気分にさせるなよ」 まあ、無理もない。「そんなことより高橋。いつ軽井沢に来るんだい?」 「仕事の都合上、金曜の夕方になるな」 「あいかわらず、忙しそうだな」 「まったくだ。誰かさんと違って」 「ご愁傷様」 そして我々は、電話を終えた。 僕はラウンジに引き返すと、例のレッスンに取り掛かることにした。 三日前から、僕はこのクラシカルなホテルに滞在している。それは休暇と併せて高橋の結婚式に参加するためである。ちなみに、挙式は森の中に佇む教会で行われ、披露宴はカジュアルにレストランで催すとのこと(時間を気にせずにのんびりと楽しんでもらいたい、という新郎新婦の計らいだ。実にあの二人らしいじゃないか)。 ところでなぜ、新郎という重責を担った高橋が仕事をしているのに、僕は休暇中なのかというと、年間の事業活動を一一カ月で計画しているからである。一二カ月ではない。したがって、まるまる一カ月は休暇になる計算だ(断っておくが一一カ月はがむしゃらに働いている。おまけにハイリスクという代償は払っているつもりだ)。会社を辞めて独立したからこそ、それが可能なのだ。 僕が会社を去った理由についても話しておこう。 自分で言うのもなんだが、その理由は実にふざけている。というのも、妹の車選びに付き合った折、ディーラーのショールームでオープンカーを目の当たりにしたのが、それであるからだ。 それまで僕は、この世にオープンカーなる乗り物があることをすっかり忘れていた。どう考えても実用的でないから忘れていたのだろう。だからなのかもしれない。オープンカーがマス・プロの時代のアイロニーそのものに見えたのは。なんとまあ……。 「えっ、急になに言っているわけ」妹はのけぞるとそう言った。 「だから、このユーノス・ロードスター、買おうかなって言ったんだ。デザインもイカしているし、緑色もオサレだし」 「ねえ、ちょっと待って、それだけ?」 「ん、なにが」 「だから購入しようとした理由よ」 「だいたいそんなところだ、うむ」 「嘘でしょ」と妹は言い、口をあんぐり開けて僕と車を見比べた。「正直、相当どうかしているわよ」 「じゃあ、お前は、相当どうかした兄を持つ妹になるわけだ。おめでとう」 「そんな風に言うの、止してよ。気が滅入るわ」と妹は声をあげ、ずり落ちそうになったボスリントンのメガネの位置を直した。「んで、こんな実用性の欠片もない車を買ってどうするわけ? 表参道にでも乗り付けてガールハントするわけ?」 「その前に、勤めている会社でも辞めようかな。それから、お前の言うように、そうするのも悪かないか」僕はユーノス・ロードスターにそう告げた。なめらかなボンネットの表面には、首を左右に振り続けている妹の様子が映っていた。 「好きにすれば。もうどうなっても知らないわよ。今日、お兄ちゃんを誘ったのは、ランチをおごってもらうのが目的だったのにぃ」 「先週もランチをおごったような気がするんだけど?」 「そうかしら、気のせいよ」けんもほろろに答えて「それ、先々週の話よ」 どうやら僕の妹は、ランチの話になると先週のことを先々週と数えるらしい。結構なことではないか。 ホテルのラウンジの時計は、一〇時二五分を指していた。もうかれこれ三〇分近くレッスンをしていたことになる。いささか疲れた。気分転換せねば。とくれば、天気も良いことだし、ユーノス・ロードスターを走らせて、美術館めぐりにでも出かけることにしよう。続きは、その後だ。 そして僕は、ラウンジを後にした。 昨日と同様、ホテルのキッチンでランチに食べるサンドイッチを作ってもらい、それを持ってユーノス・ロードスターに乗り込んだ。 夏の軽井沢の道を走るのは、実に気持ちがよかった。中でも爽やかな風が運んでくる木々の香りが、新鮮で申し分なかった。しかし、このシチュエーションに慣れてしまえば、もうそんな風に感じられないのかもしれない。その前に、充分に味わっておかねば。したがって、美術館まで遠回りすることにした。 そして僕は、適当に見繕った道を右に曲がった。 木漏れ日の群れがゆりかごよろしく揺れていたその道は、森の中に漂う妖精めいた気配もあってか、どこか印象派の画家が描いた絵を思わせた。 しばらくその道を進んでいると、こっちに向かって歩いて来る一人の女性が目に留まった。見覚えのある日傘とワンピース。それにオリンパス・ペンとスニーカー。ホテルのロビーで見かけた女性だ。 彼女との距離は、みるみる縮まっていった。僕はオープンカーの速度を緩めると、彼女の影を踏まないよう車を道の端に寄せた。それから、数秒後、我々はすれちがった。その瞬間、彼女のものとおぼしき声がした。おまけに、それは僕とあの人しか知らないはずの名詞でもあった。まさか! 僕はすかさずバックミラー越しに見える彼女の後ろ姿を確かめた。が、日傘がくるくると回っているだけで、何も読み取ることはできなかった(空耳だったのだろうか?)。 それから、幾つかの美術館をめぐったのち、僕は見晴らしの良い高台に車を停めてサンドイッチを頂戴した。言わずもがなサンドイッチは抜群に美味しかった。
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