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水曜日 2
例のブツにまつわる計画について話しておこう。
数カ月前の日曜日の長い午後のことである。しつこく鳴り続ける電話に出ると、高橋が前触れもなく用件を告げた。
「ユーノス・ロードスター、貸してくれないか?」
「急になぜ? 今まで散々バカにしてきたくせに」と僕は、他人事のように返事をした。というのも、妹が送ってよこした大量の本を整理していたからそうなったのだ(ちなみに、本を整理する前はハンカチにアイロンなんてものをかけていた。ようするに、それだけ暇だったのだ。珍しく)。「貸すのはやぶさかじゃないけど、理由ぐらい聞かせてくれたっていいんじゃないか?」
「そうだな。借りるには理由が必要だよな」
「まあな」
短い沈黙を挟むと、高橋はたどたどしく言った。
「映画のワンシーンを再現するんだよ」
「どうしてさ」あっけらかんと僕。
「鈍いな、水野」
「いや、そんなことないだろ。映画のワンシーンなんてものは、数えきれないくらい存在するもの。高橋がどの映画の、どのワンシーンのことを言ったのか、わかるはずもない」
「そうじゃなくて、金曜の夜、一緒に飲んだときに言ったじゃないか」
「……あっ! フォークにリンゴを突き刺したまま振り回して喋る彼女のことか?」
「そうだ。ちなみに春果が振り回すのは、リンゴだけじゃないぞ。モモに、キウイに、イチゴに、レモン。それにパスタだ」
僕はけらけらと笑った。「で、プロポーズは上手くいったのかい?」
「そこにオープンカーが登場するのさ」
「詳しく聞かせろよ」
高橋は返事をすると話しはじめた。
「僕たちはもう二四歳になる。とは言いつつも、まだ吹けば飛ぶような二四歳でもある。いわゆるモラトリアムってわけだ。だから、ゴージャスな言葉を駆使して派手に告げるより、落ち着いた雰囲気の中、うやうやしく告げることにしたのさ。例の常套句ってやつを。で、土曜日に春果と映画を見に行くことにしたわけさ。まず映画という非現実的な世界に触れてから、気の利いたレストランで食事をしながらプロポーズするって魂胆さ。
案の定、その日は表情を工夫して映画を鑑賞する羽目になっちまった。そうだと知りもせず、春果は呑気に映画をご鑑賞ってわけさ。そのなんともいえない温度差が、心底緊張させるんだわ。まあ、そのおかげで、春果が呟いた言葉に気が付くことができたとも言えるわけだけど。
その時の映画のワンシーンというのは、挙式中の教会にボヘミアン風な男がオープンカーに乗って現れて花嫁をかっさらっていく、というお決まりのものだった。そういえば、大量の花束を積んだオープンカーのオーディオから、ミニー・リパートンの『ラヴィン・ユー』が流れていたっけな。その曲、春果のお気に入りなんだ。ともかく、ボヘミアン風な男は、花嫁をかっさらうと猛スピードで走り去って行くんだが、その時の花嫁ときたら、実に嬉しそうに男に抱き付いているわけさ。もう二度と離すものかって具合に。まったくもって、おめでたいシーンだったよ。まさにその時さ。春果がぽつりと呟いたんだ。あんな風に車に乗ってみたいって。それを耳にした僕は、どういうわけか言っちまったのさ。じゃあ、一緒に乗ろう。だから○○しよう、て」
肝心なセリフはかわされた。ま、それもそうか。僕はコメントを省略して口笛を吹いてみせた。
「てなわけで、水野。春果との約束を果たすためにも、お前のオープンカーが必要なんだ。それに、大量の花束があれば言うことなしだ。が、そこまでは無理を言うまい」
「わかったよ。で、いつ必要になる?」
「挙式の日だ」
僕は合点した。「なるほど。そういうことか。じゃあ、当日オープンカーをピカピカに磨いておくよ」
「サンキュー」
その時、本の頁をパラパラとめくっていた僕の手が止まった。そうさせたのは、本の頁に挟まっていた押し花である。小学六年生の頃の大切な思い出がつまっている押し花。てっきり失くしたと思っていたが、こんなところにあったとは(犯人は妹だったのか。いや、妹に本を貸したこの僕か)。
僕は本の頁から押し花をそっと取り出した。指先に淡い感触が宿った。
「なあ、高橋」
「ん?」
「挙式の日、晴れるといいな」僕はおめでとう、というニュアンスを込めてそう言った。
「ああ」
そして我々は、電話を終えた。
それにしても見事なプロポーズだったな、とホッとしたのも束の間、押し花が胸を締め付けはじめた。あの痛みだ。忘れもしないあの夏の痛みだ。
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