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木曜日
カーテンを開けると、霧を纏った雲が目にとまった。霧雨も降っている模様。とくれば、ユーノス・ロードスターで出かける気になれなかった。かといって、ふてくされてのらりくらりビールを飲む気にもなれなかった。したがって、ラウンジに行きコーヒーを飲みながら、例のレッスンに励むことにした。
僕は支度を済ませると、便箋とペンをポケットに突っ込んでラウンジに向かった。
ラウンジには昨日の日傘の女性がいた。といっても、今日は日傘を持っていなかった。その代わりにペンを持ち、システム手帳に文字をしたためていた(彼女もこのホテルに一人で滞在しているのだろうか?)。
僕は彼女と一つ席を隔てた窓際の席に腰を落ち着かせると、コーヒーを注文した。
やがてコーヒーが運ばれてくると、一口飲んでから便箋に『花』という文字を書いてみた(その文字をチョイスした理由はわからない。さしずめ無意識、といったところか)。
さてと、レッスン再開だ。
だが、いくら眺めても、文字は文字であることに変わりはなかった。相変わらず僕のスクエアな思考は、文字を文字としてのみ認識する、という体たらくなのだ。
「なんとまあ……」
便箋の隅に猫のイラストを描くと、外の景色に目をやった(ちと気分転換せねば)。
そして僕は、カップを持ち上げてコーヒーを口にした。まさにその時だった。なんと! その一連の動作が、一つ席を隔てた日傘の女性とシンクロしてしまったのだ。おのずと二人の視線が出会う。出会ったら出会ったで、今度は瞬きがシンクロする。一回、二回、三回と。
こうなってしまったからには、ひとまず会釈(ドギマギして痛ましい会釈)をするしかなかった。
すると、彼女はやわらかく微笑み返してくれた。僕は本能に根差した何かに従って、彼女に声をかけることにした。
「僕、水野ヒカルっていいます」
彼女の唇は微かに震えているように見えた。続けて僕はこうも言った。
「二日前から、このホテルに宿泊しているんです。週末、友人の結婚式に参加……」と声えが小さくなる。というのも、一〇時を知らせる時計の鐘が鳴りはじめたからだ。二人ともクラシカルな時計に目が奪われた。
僕は振子の動きに合わせて物静かに言った。
「昨日」
「キノウ?」彼女も振子の動きに合わせてそう言うと、小首を傾げた。
同じ意味を持つ言葉のはずだが、彼女の言った昨日には、未来というニュアンスも僅かに含まれているように思えた。
「そう、キノウ。散歩していましたよね。ボーダー模様の日傘をさして」
一〇時を知らせる時計の鐘が鳴り止んだ。
水を打ったような静けさの中、「私の日傘、ドット模様よ」とだけ彼女は言った。
「へっ」どうしてくれる。
「ごめんね。冗談よ。ボーダー模様の日傘よ」と彼女は言い、クスッと笑った。「ねえ、それより」
「それより?」
「ありがとう。昨日、すれちがったときに私の影をよけてくれて」
あえてそうしたことに気付いていたのか。驚いた。
「私、紺野マキっていうの」
「コンノ、マキ」無意識にその名前をおうむ返ししていた。
「ええ、そうよ。それが私の名前」と紺野マキは言い、続けて「昨日からこのホテルに宿泊しているの。そして、その目的は、偶然にもあなたと同じなのよ」
「てことは、君も友人の結婚式に出席するため、この軽井沢へ?」
返事の代わりに紺野マキは、あっさりと首をすくめてみせた。それから、コーヒーを口に運んだ。
驚きの連続である。それもあり、僕はこうも尋ねていた。
「もしかして、高橋?」
「信じられないかもしれないけど、そうよ」紺野マキはこともなげにそう答えると、目を伏せた。「新婦の友人なの、私」
もうこうなれば、訊くしかあるまい。
「まさか例の計画も関係したりするのかな?」
「……それ関係するわね」
「もしかして、花束を準備する担当とか?」
「……うん」
「たまげた」と僕は言い、口をあんぐり開けた。
それから、僕は紺野マキと同席すると、とりとめのない話をした。休日はコーヒーを飲みながらどんな本を読んでいるのか。何故、海辺で食べるホットドッグはとてつもなく美味しいのか。好きな季節はいつなのか。例の計画に使われる僕のオープンカーについて、etc。
堅苦しい話は省略、てな具合に仕事や人間関係のことは話題にのぼらなかった。
ふと、クラシカルな時計の鐘が鳴っていることに、気が付いた(あれから一時間経過した、というのか。まさか)。
時計が鳴り止むと、紺野マキはそっと言った。
「ねえ、どっち?」
何を質問されたのか、僕にはわかった。
「早く感じた。もう一時間経ったなんて信じられない。つい時計が壊れてしまったんじゃないかって、思ったくらいだもの」
「きっと壊れたのよ」
「まさか」
「時計じゃなくて時間が壊れたのよ。そう思うと世紀末感が増すじゃない?」
「確かに増すね」
「ねえ……」と紺野マキは言い、テーブルの上に両肘をついて左右の指を絡めた。「水野君って、ずいぶん変わっているわよ。見ず知らずの私に声をかけてくるし、何を質問したのかわかっちゃうし、ホテルのラウンジで便箋によくわからないこと書いているし」
「おまけに実用的とはいえない車を、一人で乗り回してもいる」と僕は言葉を重ねた。
「ほんとよね」
僕は気前よく笑って「ねえ、紺野さん。あの便箋に書いた文字には、ちゃんと意味があるんだ」
「どんな意味?」
「知りたい?」
紺野マキは頷いた。
そして僕は、エレガントに咳払いをすると言った。
「かつて文字は絵だったんだ」
「それって遥か昔のことでしょ?」
「そう遥か昔のこと。だけど事実でもある」
「わかったわ。それで?」
「昨日、本を読んでいたら、ふと文字を絵として捉えてみよう、なんて思ったんだ。本の頁を絵の集合体として捉えることができたのなら、どんな気分を味わえるのだろうか、てね」
「便箋に花という文字を書いて眺めていたのは、そのためのレッスンをしていたってわけ?」
「YES」と僕は、きっぱり答えた。
「冗談、言っているわけでもなさそうね」
「もちろん」
「そんな風に想像したこともないわ、私」
「じゃあ、軽く想像してみなよ」
「今?」
「うん」
「わかったわ」と紺野マキは答えた。そして、ゆっくり目を閉じた。
……。
彼女の長いまつ毛たちは、再び目が開かれるのを静かに待っていた。
片や僕といえば、便箋の上に影絵なんぞこしらえ待っていた。
空は雲でおおわれている。影絵の輪郭はぼやけていた。光の量が足りない。でも、曇りの日は、それが自然なのだ。必要以上のことを望んではいけない。それにしても、ずいぶん長い時間、目を閉じているではないか……。
僕が影絵に集中している間に、紺野マキは目を開けていた。そして、便箋の上の影絵に目を落としていた(しばしの間、僕はそのことに気付かなかった)。
「それってカモメ?」と紺野マキはやおら言った。
「いや、ハトだよ」僕はシレっと答えた。
「いじわる」
紺野マキの表情は、目を閉じる以前と異なっていた。というのも、瞳に宿る潤いの量が増していたからだ。あと少し増していれば、涙とおぼしき液体が頬を伝って流れ落ちそうでもあった。
「紺野さん。想像してみてどうだった?」と僕は、コメントを促した。発せられるコメントと、彼女の表情になんらかの相関関係があるような気がしたのだ。
「そうね。秘密よ」と紺野マキは、静かに答えた(彼女の言う秘密は、上品で良い香りがするもののように思えた)。続けてこうも言った。
「でも、あえて一つだけ言うのなら」
「あえて一つ」僕はおうむ返しすると、息を止めた。
そうとは知らずに、紺野マキはたっぷり間を置いて答えた(苦しい……)。
「やっぱり止すわ、秘密よ。水野君ならその理由、わかるでしょ」
僕は大きく息を吸って吐いた。「わ、わからないよ」
「ど、どうしたの?」
「いや、なんでもないから」
まるで金曜日の午後の大学のラウンジにでもいるかのようだった。無条件に楽しくて、根拠もなく何かが起こる期待に満ちている。したがって、僕は紺野マキと織りなすフィーリングが、アドホックなものではないと確かめるために、彼女を美術館めぐりへ誘ってみることにした。
「いいわよ」
それが紺野マキの返事だった。ほんの少し意外であり、ほんの少し意外じゃなかった。
「もしかしてだけど、美術館めぐりは例のレッスンと関係したりするのかしら? 文字と絵、絵と文字、とかうんぬん」
「ご明察」と僕は答えた。
紺野マキはクスッと笑うと言った。「じゃあ、一二時にロビーに集合でいいかしら?」
「わかった。一二時だね」
そして僕は、紺野マキを見送ると、ランチに食べる二人分のサンドイッチを頼んでから、部屋に戻った。
キッチンに立ち寄り紙袋とポットを受け取ると、僕はロビーの端の壁にもたれて彼女を待つことにした。
紙袋の中には、二人分のサンドイッチが入っているにもかかわらず、昨日よりも軽く感じた。そんなことよりも、今、自分がハミングなんかしていることに気付いた。浮かれすぎだ。でも、すいぶん懐かしい曲だったな。曲名はなんだっけ……。
そうこうしていると、一二時を知らせる時計の鐘がラウンジから聞こえてきた。その音に誘われるようにしてラウンジに視線を移すと、客は一人もいなかった。それなのに時計は、時刻を知らせていた。失われていく時間は、人のためだけにあるわけじゃないようだ。
時計の音が鳴り止むと同時に、紺野マキは鮮やかなブルーのワンピースにスニーカーという格好で、階段を小走りに降りてきた。髪をフワフワはずませて、口元を軽く引き締めて。そんな姿を目の当たりにしたら、誰だってくすぐったい気持ちになる。
「お待たせ。水野君、待った?」
「ううん。ちっとも」つい声が裏返ってしまった。
そんなことより紙袋が気になったのか、紺野マキは言った。
「ねえ、その紙袋の中、何が入っているの?」
「秘密さ」
「さっきの仕返しのつもり?」
「まあね」
「いじわる」
「僕もそう思う」
「それ可笑しい」と紺野マキは、言葉通りそう言った。
それから、彼女を駐車場までうやうやしくエスコートした。
今朝まで降った霧雨の影響なのか、ホテル周辺の森の中には濃い霧が立ち込めていた。まるでヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ森のようである。
僕のユーノス・ロードスターは、そんな景色の中にいた。まるで絵本の頁に無造作に貼られた車のシールみたいに。
「どう、僕のオープンカー?」そう言って思ったが、ルーフを開けてみせればよかった。
紺野マキは絵本に出てくるニンフよろしく、物珍しそうにユーノス・ロードスターの周りを歩きだした。
「そうね……」とだけ言い、人差し指で唇を軽く叩いた。一回、二回、三回。
「紺野さん、車好き?」
「ストレートに答えても構わないかしら?」
僕は頷いた。
「じゃあ、遠慮なく言わせてもらうわね」そう明るく言ってのけると、紺野マキは首をすくめた。「車には全く興味がないの。だからノーコメント、ごめんね」
「ハハハハ」既に顔にそう書いてあった。また、車で走っていると見落とす景色が山ほどあるのよ、とも。「なるほど、道理で歩いている姿が絵になるわけだ」
「それ、お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないよ。僕のストレートな感想だよ」
「そんな風に言われると、恥ずかしいわ」
「あ、そういえば、昨日すれちがったとき……」僕はすれちがった時に耳にした名詞について、尋ねようとしたのだ。
しかし、紺野マキは遮るように「あの」と言い、静かに目を伏せた。
さっきも、そんな素振りを見たような気がする。「あのって?」と僕はせっついた。
……。
ベールに包まれた沈黙だった。しかし、どこかで誰かが絵本の頁をめくったようで、物語は前に進んだ。
「さっ、行きましょう。美術館へ」と紺野マキは、遠くを見据えて言った。
「うん、そうだね」
まだ空模様からして霧雨が降るかもしれなかった。したがって、ルーフを閉じたままユーノス・ロードスターを走らせることにした。
実を言うと、僕には彼女を誘った本当の理由がある。それは、紺野マキ、という名前と関係していた。
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