青のpressed flower 1

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青のpressed flower 1

紺野マキ。その名前と出会うのは、これで二度目だった。一度目は、小学生の時である。同級生の中にその人はいた。 彼女は公園の近くの一軒家に、両親と三人で暮らしていた。青い屋根の家で、庭には色とりどりの花々が咲いていた。 当時、僕は夕方になると彼女の家の近くの公園まで、猫を迎えに行くのがささやかな日課だった(僕の家の猫は、公園のベンチがいたくお気に召していたようで、毎日、渋い顔をして夕焼けに焦げていく街並を見守っていた。それが、彼のささやかな日課)。そして、猫を従えて家に帰る道すがら、庭の花々に水をあげている紺野マキと顔を合わせるのが、僕と一匹の大切な日課でもあった。 「ねえ、水野君。この頃、アスペルジュが公園に向かうとき、私の家の庭を横切って行くのよ」と紺野マキは言い、水を湛えた如雨露を地面に置いた。たったそれだけの仕草が、大人っぽく見えた。学校という集団生活の場だと、そうは見えないのに。 ところで、アスペルジュとは、僕の家の猫の名前である。フランス語でアスパラガスという意味だとか。 「知らなかった。迷惑じゃない?」と僕。 「ちっとも迷惑じゃないわよ。むしろ、気に入ってもらえて嬉しいわ。だって、自慢の庭だもの。あ、そうだ」 ふと何かを思い出したのか、紺野マキはアスペルジュの近くに寄ると、しゃがみ込んで彼のつぶらな瞳を覗き込んだ。 「紺野さん、どうしたの?」 「昔の人って、猫の目を見ると時間が分かったそうよ」 「へえ、そうなの」と僕は、あっさり答えた。 「意外。水野君、もっと驚くかと思った」 「驚いたよ。ただ……」 それよりも、彼女の白色のワンピースから覗いて見える胸元にハッとしたのだ。その様子をひた隠しにするため、無頓着を装ったのだ。 「ただって?」 「……やっぱ何でもない」 「変なの」 僕たちは学校にいる間、こんな風に会話をしなかった(最小限の会話に留めた)。二人と一匹で織りなす時間を秘密にするため、あえてそうすることにしたのだ。秘密にしていれば、永遠に失われない、と思っていたからだ。 アスペルジュが大きなあくびをした。それを見て紺野マキは微笑んだ。 「公園でたくさんお昼寝したのに、まだ眠いのかしら」 「こいつ、僕が迎えに行かないと夜まで、いや、きっと朝まで寝ているつもりなんだ」と言い、とぼけた顔をしているアスペルジュに向かって「その内、ぬいぐるみになるぞ」。 「それ可笑しい」と紺野マキは言い、クスッと笑った。「でも、アスペルジュに感謝しなくちゃ」 「なんで?」 「水野君。わからないの?」 「うん」わかっていても口にできるか。毎日、君と会えるからなんて。 紺野マキは頬をふくらませて不満をアピールしていた。が、また何かを思い出したらしく声をはずませて「ねえ、水野君。ボサノヴァって聴いたことある?」 「なにそれ? 知らない」 「ボサノヴァってね、ブラジル音楽のジャンルのことなの」 「ブラジルって」僕は地面を指さした。「ブラジル?」 「そうよ。ここから最も遠い国」紺野マキも地面を指さした。 「どのくらい遠いのかな?」 「わからないわ。もし、わかったとしても、うまく説明できないわ。だって、学校まで何回往復すればブラジルにたどり着くのかわかったとしても、ナンセンスじゃない」 「まあ、それもそうか」手に余る、と言うのであろう。それだけ、今僕たちの知る世界の規模は、小さいときている。 「ねえ、水野君。ちょっとここで待っていてくれる?」と紺野マキは言い残し、家の中に入った。間もなく階段を駆け上る音がする。 ややあって、二階の部屋の窓が開くと、紺野マキが顔を出して手を振った。 僕は鼻の下をこすってそれに応えた。すると、紺野マキは窓を開けたままにして、部屋の中にスッと姿を消してしまった。僕とアスペルジュは、何かが起こるのを大人しく待つことにした。 やがて開いている窓から、音楽が漏れてきた。はじめて聴くリズムと言葉。メロディーが柔らかく耳に染み込んでくる。これがボサノヴァなのか。どこか妖精めいている。 夕焼けに染まったたゆたうカーテンの隣で、やさしく打ち寄せる波の音に耳を澄ます、といった風に紺野マキは、窓辺から僕とアスペルジュを見つめていた。 片や僕とアスペルジュは、ぽっかり口を開けて紺野マキを見上げていた。その時、僕はあることを心に誓った。おそらく、彼女もそうだったに違いない。秘密の時間を重ねてきた二人には、それがわかる。 時間の流れは、季節が巡るみたいに円をなしていると思っていた。しかし、そうではなかった。時の流れは、終わりに向かって真っすぐ進んで行くのだ。だから、この世に永遠なんてものは、存在しない。 小学六年生の初夏のことである。紺野マキは遠くの街へと引っ越して行くことになった。信じられなかった。嘘だと言ってほしかった。 最後に彼女と会って話をしたのは、引っ越しを翌日に控えた夕方だった。いつも通りを装って話をしていたのだが、ふと言葉につまってしまった。 ……。 今から思えば、二人だけの小さな世界が終わるとき、言葉よりも肌で感じる何かが必要だったのかもしれない。直接、肌と肌で感じあえる何かだ(彼女はそれを求めていた、というのか?)。 当時、僕にはそれが何なのかわからなかった。だから、彼女の日焼けした肌、クローバーで編んだブレスレット、耳に挿した白い花、小さな笑窪、潤んだ瞳を目に焼き付けていた。 いつしか夜の気配が辺りに漂いはじめていた。意に反して暗さが増す。家の中から紺野マキの母親の声が聞こえてくる。明日の朝は早いから、もう家の中に入りなさい、と言っていた。 僕が話の接ぎ穂を得られずにいると、紺野マキが口を開いた。 「あいかわらずね、水野君って」 「どういうこと?」 「言葉通りの意味、だったらどうかな」紺野マキは言い淀むと、俯いた。「もう行かなくちゃ」 「あ、うん」 「最後にアスペルジュ、抱かせて」 「いいよ」 二人の距離が縮まって、淡い影が一つに重なった。 アスペルジュは僕の腕の中から、紺野マキの腕の中にそっと潜り込んだ。いつもいうことをきかないアスペルジュが、やけに素直だった。 「ふわふわしていて気持ちいい」頬ずりをして「元気でね。アスペルジュ」 「ねえ、紺野さん。また、会えるよね?」 僕は恐る恐るそう言った。ネガティブな言葉が返ってきそうで、怖かったのだ。 「会えるわ。でも……」 「でも?」 「この先、願っているだけじゃ会えない気がする」目を伏せると「だって、どんなに二人で願っても、この引っ越しは避けられなかったじゃない」 紺野マキの声は、震えていた。胸にクるものがあった。 確かに、彼女が言うように僕たちは願い続けた。その結果が、これだ。 「もう、願わないよ。願うもんか。だから行動する。例えば、えっと、えっと……」と声が小さくなる。何も思い浮かばないのか! 「えっと、だから……」 僕をなぐさめるようにしてアスペルジュが鳴いた。重ねて紺野マキが言った。 「ありがとう、水野君。確かに行動を起こさないと、もう会えないような気がする。でも、それができるのは、もう少し経ってからのような気がする。今の私たちは、小さくて弱いから。それに、色々と世の中のことだってわかってないもの」 「そうだね。小さいし弱い。まだ知らないことだって山ほどある」と僕は、自分の手を見つめて言った。頼りがいのない小さな手だった。早く大きくなりたいと思った。 「でも、その代わり私たちには、可能性があるわ。何にだってなれるし、どこにだって行ける可能性が」 「カノウセイ?」 「そうよ。カノウセイ」と紺野マキは言い、僕の手を見て「それを手放しちゃだめよ」 「そうだね」今、僕の小さな手が掴めるものは、それしかないように思えた。いや、それしかないのだ。「手放すものか」 再び家の中から母親の声が聞こえてきた。紺野マキは首をすくめると、僕にアスペルジュを返した。アスペルジュの名残惜しそうな声を耳にして、センチメンタルな気持ちが増幅した。僕は目をしばたたいて涙をこらえた。 紺野マキは日が沈みわずかな隙に訪れる黒く青い空を仰いでいた。その目からは光るものがつたっていた。 「ねえ、水野君。どうして夜空って黒いのかしら?」と紺野マキは、小さな声で言った。 確かに、どうして夜空は黒いのだろう? 今までそんな風に考えたこともなかった。当たり前だと思っていた。が、そこには黒くなる理由があるのだろう。彼女の感性に触れる度、僕はハッとした。 「紺野さん」 「なに?」 濡れた紺野マキの切実な目は、美しかった。怖いくらいに。 「その理由、僕に調べさせて」 「えっ」 「調べてみたいんだ」 「……わかったわ。じゃあ、いつか教えてね」 「うん」と僕は返事をした。それから、別れの挨拶を告げた。「さようなら」口の中がほろ苦かった。 「うん。さようなら」 そして僕は、回れ右をした。すると、アスペルジュが爪を立てた。「うわ」 「どうしたの?」 「いや、なんでもないよ。それより紺野さん」 「なに?」 「必ず迎えに行くから」と僕は頭に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。ああだこうだ考えず告げたわりに、最も伝えたいニュアンスが含まれていた。 「うん。じゃあ待っているわね」と紺野マキは言い、首を傾げて微笑んだ。 ほんの一瞬、不安が溶けた。ありがとう、アスペルジュ。 「おやすみ。紺野さん」 「おやすみなさい。水野君」 帰り道、僕の胸は激しく痛みだした。雪崩をうって押し寄せるその痛みは、今まで感じたこともない痛みだった。それをどう扱ったらよいのか、わかるはずもない。ただただ、歯を食いしばって耐えるしかなかった。 翌朝、目覚めたら日常の全ての肌触りが変わっていた。 紺野マキがこの街を去った後も、僕とアスペルジュは日課を続けた。彼女の家の前で立ち止まり、彼女の部屋を眺めてボサノヴァのメロディーをハミングした。また、水筒に入れてきた水を花壇に撒いたりもした。しかし、花たちは日に日に萎れていってしまった(それを見るのは辛かった)。だから、全てが萎れてしまう前に、咲き残っていた一輪の青い花を摘んで押し花にした。 押し花は、過去に二人の時間が存在した唯一の証となった。 それから何年もの年月が経った。 その間、僕は紺野マキの行方を捜した。が、捜しあぐねてしまった。また、年月の経過とともに、押し花を失くしてしまった。いつ、どこで、だれが、なぜ、どのように? さえわからなかった。最低だ。いや、それ以上か。 しかし、とある日曜日の午後、高橋との電話の最中、たまたま手にしていた本の中から押し花を見つけた。押し花は最後に見かけた時よりも、わずかに色褪せているだけだった。本の中では、時間はゆっくりと進むのかもしれない。 その押し花を本の中に忍ばせて、僕はこの軽井沢にやって来た。そして、紺野マキという同姓同名の人物に出会った。それは願いでも、行動でもなかった。いわば統計的に訪れる可能性を帯びた偶然である。必然性の欠片は、どこにも見当たらない。
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