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 墓場。  異動になったら最後、退職するまで変わることはない夢守市役所の墓場。  嬉々とした鈴木さんの顔がよぎって、あたしは国民健康保険課に思考を馳せた。きっと今ごろ大忙しだろうなぁ。年度初めは一年のうちでも忙しい時期のひとつなのだ。  引っ越しや転職による保険の切り替え。窓口も電話も大混雑で、番号順に並んでもらうことさえある、息つく暇もない繁忙期。  ――そりゃ、部署が変われば大きく仕事も変わるんだろうけど。  なんだか、昨日までとは大違いだ。あたしはそっと運転席に視線を向けた。もっさりとしか表現できない黒髪と、容貌のほとんどを覆い隠す大きな黒縁眼鏡。  それでも間近で見ると、あのころの「最上先輩」の面影があった。じっと見ていると視線が煩かったのか、先輩が眉を顰める。 「なんだ」 「あ、……いえ。すみませんって、ん?」  なにか妙な音が聞こえた気がして、謝罪の途中であたしは眉間にしわを寄せた。 「なにか聞こえません?」  呆れ顔の先輩が溜息交じりに、車を停める。駐車場でもなんでもない、かろうじて補整されていた山道から少し外れた平地。建物も目に見える範囲にはなく木々ばかりだ。 「狸囃子だろ」 「わぁ、懐かしいです、それ。昔おばあちゃんがよく言ってました。というか、よくご存知ですね」 「馬鹿にしてんのか」 「いやいやいや、むしろ逆と言うか。今まで私の周りにそういったことを知っている子っていなかったので」  はなはおばあちゃん子だよね、だとか、ばばくさいだとかは、幾度となく言われたけれど。  ちなみに先輩の言った狸囃子とは、夜中にどこからともなく響いてくる笛や太鼓の囃子のことだ。その名のとおり、その音を出しているのは狸なのだそうだ。今は夜中ではないけれど。 「そういう時代だからな」 「え?」 「だから、俺が呼びつけられるんだ」 「はぁ」  意味がわからなくて、あたしは曖昧に頷いた。先輩に倣ってシートベルトを外す。なにもないところだが、ここで降りるらしい。 「最近じゃなんだ、アポカリプティックサウンドとかなんとか言うやつもいるけどな」 「なんですか、それ?」 「さぁな」  おざなりすぎる相槌ひとつで、先輩がドアを開けた。説明してくれる気はないらしい。 「ここから先は歩く」  その言葉に、あたしも慌てて外に降り立つ。不思議な音はもう聞こえなくなっていた。その代わりに騒めく木々の音が静かに響いていた。
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