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余熱
洋兄さんは、いつもお土産を買ってくる。
僕の母が甘党だと知っていて、
「ね。これ、美味しいでしょう?」
それらはチョコレートやクッキーなど、甘いものばかりだ。
「ええ。とっても。洋介さんは本当に、いいものばかり買ってきてくださる…」
今度のお土産はチョコレートのアソートセットだった。母が年々肥えているのは洋兄さんのせいかもしれない。
洋兄さんも洋兄さんで、母の喜ぶ顔を見て誇らしげに「また旅行に行ったら何か買ってきますね」だなんて言う。洋兄さんのせいで、僕のおやつはしばらくチョコレートだろう。
洋兄さん──洋介さんは母の友人の奈津子さんの息子で、僕より二つ上だ。小学生の時からの付き合いなものだから、感覚としては兄に近い。
「ねえ、俊介」
洋兄さんが、僕に向かって訊ねてきた。
「はい」
「楽しいかい、高校生活」
「そうですね。それなりには」
「うんうん、いいことだ」
「洋兄さんは、変わらずですか」
「うん。楽しいよ。旅行はいいねえ」
洋兄さんは自由気ままなひとだ。確かお父さんの莫大な遺産で、働きもせず世界のあちこちへ旅行を繰り返している。僕の父に言わせれば、「ろくでなし」だ。
でも僕は、この人が嫌いじゃない。
洋兄さんは写真を何枚か取り出して僕に見せてくれた。
「見てよ、これ。二年ぶりに東京に行ったんだ」
「わあ。人、多いですね…」
「そうだね」
洋兄さんは笑った。
「でも、交通の便は素晴らしいよ。人やモノの流れが絶えないんだ」
「便利さはいいんですが…。嫌だな、人混みは」
「そうかあ」
人懐こい笑顔が、相変わらず眩しい。
夏休みの初日、僕は落ちも他愛もない話で洋兄さんと母と共に盛り上がった。洋兄さんに会うのは三ヶ月ぶりだったから、なおさら三人での話が弾んだ。
話が一段落したころ、母が、ああっと声を上げた。
「やだ、晩ごはんの買い物、してないじゃない」
ソファにまったり掛けていた母がいきなり立ち上がったかと思えば、ばたばたと出かける支度を始めた。 僕はそんな母に尋ねた。
「べつに、残り物でいいんじゃないの」
「だめよ。洋介さんも泊まっていくんだから」
「えっ」
洋兄さんは僕の母の言葉に、目尻を下げて口許を綻ばせた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「決まりね」
洋兄さんはちゃっかり、こんなことを付け加えた。
「俊介の部屋、一緒に使っていいかい」
「久しぶりだね。五ヶ月ぶり位かな、俊介」
「三ヶ月」
「そっか。もっと長く感じたな」
どんな街の地面を踏んでも、どんな国の空を見ても、このひとは変わらない。いつもと同じ笑顔で、ゆったりとした口調で、たくさんの旅の話を紡ぐ。
洋兄さんが部屋に来ると分かっていれば、もう少し片付けたのだけれど。
母と三人で話すときとは違って、僕と二人きりで話すときは、洋兄さんの声は柔らかくなる。
その声色に潜む微熱に、僕は気づいている。
僕が気づいている事に、洋兄さんもたぶん気づいている。
「こっちは涼しいね」
「日が出てないときは、寒いくらいです」
ふたりきりで話すとき、僕の鼓動は少しだけ速くなる。でもそれは、けして心地の悪い緊張などではない。
窓から入る淡い風が部屋を満たし、カーテンをふわふわと揺らす。
「向こうは暑かったなあ」
「そうなんですか」
洋兄さんがわざわざ僕の部屋で泊まる旨を言い出した理由は、考えないようにした。 洋兄さんはそれに関して何も言わないし、僕も何も言わない。 ただ僕は洋兄さんと会う毎に、彼の旅の話を黙って聞いている。
何年もずっと、僕らは適度な距離を保ったままだ。 僕の十二年の恋慕は、洋兄さんとの穏やかな関係を壊したがっていない。
「いい風だね」
「うん」
楽しそうに話す、その横顔が見られればいい。 となりに居るだけでいい。
洋兄さんが、小さな声で切り出した。
「聞いてくれる?」
「どうかしましたか」
「怒られたんだ。君のお父さんに」
「えっ」
その声色は、心なしか落ち込んでいた。
「若いんなら、一度は働くという事を経験しろと」
余計なことを…。 僕はそんなことを思う。家族でもない他人によく口出しする父は、あまり好きではなかった。
「それで最近、よく思うんだ。僕のやっている事は、他人から見てどうなのかって」
「他人から…」
「そう。僕がこうやって父の金で好き勝手遊び回ってる間にも、汗水垂らして働いている人間がいる。僕自身はすごく楽しいし、充実している。けど、例えば一生懸命働いている人…君のお父さんから見たら、それはどう映るんだろう」
「ふざけてる、って、父は言っていました」
「うん…」
僕はなぜか必死になって訴えた。
「でも、洋兄さんは洋兄さんのお父さんの遺したお金を使う権利がある。たとえ、偶然あなたが裕福な家に生まれただけだとしても」
「うん」
「誰かがどうこう言う権利なんて無いでしょう」
「ねえ。俊介は、僕のことをどう思う?」
「──え」
どうって…俺は、あなたのことが。
いやいやと、僕はゆるゆると首を振る。
その問いはもちろん、働かず遊び回っている洋兄さんをどう思うかという話であって、そういう話ではない。
でもまるで、ほんの一瞬、洋兄さんへの秘めた気持ちについてを訊かれたのかと思ってしまった。 僕はうろたえて舌がもつれた。
「どうって…。だから、別にいいでしょう。あなたがそうしたいなら、そのままで。僕は高校生だし、まともに働いた経験なんてないので、どうこう言っていい立場なのかはわかりませんが」
洋兄さんは寂しげに笑った。
「そんな風に言ってくれるのは、俊介と俊介のお母さんだけだな」
僕はあえて決めつけるように言った」
「でもどうせ洋兄さんは旅行するのやめないんでしょう。誰に何を言われたって」
「うーん、そのつもりでいたんだけど…」
「えっ…」
そんな事は言わないで欲しかった。 洋兄さんには、旅が似合っている。 たまにしか会えないけれど、旅の話をしてくれる洋兄さんはいつも楽しそうで、大好きだった。
「そんなの、違います」
あなたには、自由が一番似合う。 スーツ姿、作業着、コンビニの店員の制服と色々想像してみたが、全部似合わない。
「旅行してない洋兄さんは、洋兄さんじゃないです」
「はは、言うね」
「いいじゃないですか、今のままで」
「うん…」
その返事があまりに上の空だったので、僕は思わず言ってしまった。
「僕は、あなたに変わらないでいて欲しい」
「…俊介」
「他人に言われて何となく働いてる洋兄さんなんて、見たくない
洋兄さんは微笑んだ。
「俊介は、そんな風に思ってたんだ」
「えっ、あ」
僕は赤面した。言うつもりのないことまで言ってしまい、なぜだか涙目にもなった。
「うれしいな」
そうやって、ほんとうに嬉しそうに洋兄さんが笑うから、僕はさらにうろたえた。あたふたしていると、階下から母の声がかかった。
「ご飯出来たよ。二人とも、下りてきてー」
助かった、と僕はほっとした。
「…い、行きましょうか、洋兄さん」
「うん」
その声は弾んでいた。
夕食のオムライスを平らげてから風呂場に向かった洋兄さんは、三十分ほどで僕の部屋に帰ってきた。
「さっぱりしたー」
乾かしたての洋兄さんの髪がさらさらと揺れる。甘いシャンプーの匂いが室内に広がった。
「洋兄さん」
「なぁに」
「次はいつ、来ますか」
「ん…まだわからないな」
「そうですか」
「ねえ、俊介」
呼ばれて顔を上げると、洋兄さんは手を伸ばし僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。 らしくない仕草に僕が目を丸くしていると、洋兄さんがにこっと笑った。
…いやだ。そんな風に笑わないで。
「また来るからね。もう、寝ようか」
別れが、寂しくなってしまうから。
「…はい」
僕は部屋の明かりを消した。
二人で僕のベッドを使い、背中合わせで寝転んだ。 僕が隣で寝て不快に感じない相手は洋兄さんだけだろう。
「ねえ、俊介」
「はい」
互いの囁き声が心地よく耳に届く距離だった。
洋兄さんが、優しい声音で言った。
「ありがとう」
「何が…」
嘘だ、わかっている。さっきの話だ。
「俊介が高校を卒業したら、二人で一緒に旅行に行こうよ」
「洋兄さんと…」
「うん」
後ろで、洋兄さんがこちらに寝返りをうつ気配がした。
僕はにわかに緊張して、思わず身構えた。
「はい。行きたいです」
僕がそう言った直後、髪にやわらかく何かが触れた。
「その時には、俊介にちゃんと言うね」
「洋兄さ…」
「わかってるでしょ、なんの事かは」
今までお互いに触れないようにしてきた、ずっと言えなかった事。
ある種のタブーのようなそこに、洋兄さんは今、はっきりと切り込んだ。
「はい」
僕の心臓が痛いほど脈打つ。
「待っていて、それまで。忘れないで…俊介は、僕の一番大切な人だよ」
背後からそっと、洋兄さんに手を握られた。
「はい…」
僕は頭が真っ白になった。
ずっと言えなかったこと。聞きたくなかったけれど、ずっと言って欲しかったこと。 苦しくなる肺にシーツを握りしめながらも、今僕らの距離が変わったことははっきりわかった。
僕は、何も言えなかった。 眠ろうとしたが、混乱してとても眠りにつけそうになかった。
だって、ずっと…。 ずっと、好きだったんだ。 僕もあなたが一番大切だなんて、簡単に言える訳がなかった。
洋兄さんの手はすぐに僕の手から離れたけれど、温度はいつまでもいつまでも残って、中々寝付けなかった。
翌朝、洋兄さんは朝食をとった後すぐに家を出ていった。
ありがとうございました、また来ます、と僕と母に手を振った。拍子抜けするほど、屈託のないいつもの笑顔だった。
未だに、昨晩の手のひらの温度が離れない。
あの時僕の首筋を撫でたのは、確かに洋兄さんの呼吸だった。あの時僕の髪に触れたものは、確かに洋兄さんの唇だった。
「一番大切な人」…。
いつか一緒に僕らが旅行に行くその時は、今まで通りの僕らではない。
あの人が壊していったんだ、あんなにあっさりと。
次会う時はきっと、僕らは恋人同士になっている。
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