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話は変わるけど、”同性愛”っていうそういう概念にもまた様々な”偏見”が飛びかう塊。
俺はそんな存在でもある。相手は一応いる、良き理解者だと思ってる。だが、その一方、俺の最も親しい人の1人が距離を置こうとしている節がある。
高校の頃、それとなく濁したりして一緒に茶化してたりしてたけど、いざ真面目にそうだって伝えた時、ちょっと寂しげな眼をしていた。
それは俺のことをそういう目で見るというより、”この人同性愛者なんだ・・・”とそういう想いで至る目だと思った。
”読書家は根暗”、”ある事象における偏見”
”見た目ニートはやっぱりニート?”、”見た目という印象における偏見”
”同性愛と友達っていうのははやっぱり・・・”、”ある事象とその対象における偏見”
これまでに散々色々な”偏見”に見舞われたけど、友達にもその目で見られるのはつらい。でも、最近はとりあえず、落ち着いた。距離を置こうとしてるとはいったけど、最終的には修復した。
それは彼の覚悟。”そういう人”と割り切ったみたい。
勿論、その友達が同性愛の対象だから云々なわけじゃない、別に彼氏と呼べるのはいる。ただ、そんな中での友達付き合いがちょっと・・・とそう思ったみたい。でも、それでも、”親友”とその在り方を大切にした。
それでも、俺はこういっちゃなんだけど、根に持ってる。
一瞬とはいえ、やっぱり拒絶は怖かったからだ。
だから俺は、その日からちょっとだけ”その親友が嫌い。
”偏見”で”親友”を考えた”彼”が”嫌い”だ。
でも、最終的には受け入れて今も昔以上に仲良くなってる感じがするし大切には想ってる。ちょっとだけ、ちょっとだけそれなだけ。
親友っていう存在だからこそ根深く残ってるんだろうね、他の”偏見の案件”はどうでもいいって感じに思ってたのに…
でも、それはずっと死ぬまで俺という人間の本質を思い出す秘密として心にとどめている。俺のこの難儀な性格でもちゃんとまともに生きてるんだってそういう証でもあるからね~
だから、”嫌い”なままで良いんだ、それが俺だから。
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