#3 肉食と呼ばれた男(一)

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#3 肉食と呼ばれた男(一)

「留衣のばかやろ~!」  先日の再会以来、有楽と大和で飲むようになった。  今夜は三度目。  二日に一度のペースだから結構な頻度にはなるが、その半分くらいは仕事絡みの話をしている。 「今日は、ちゃ・ん・と、夜のうちに家へ帰してくださいね」  一昨日、朝帰りさせたのがバレたか、でがけにオフィスの外で、有楽はちくっと留衣に釘を刺された。 「はいはい、ちゃんと。ご心配なく」  有楽は苦笑する。留衣には、かなわない。  なにしろ長い付き合いだ。α好きの共食い性癖(・・)から臑の傷に至るまで、仁を通し、すっかり知り尽くされている。  そう口に出すのも野暮だから、ひたすら笑って誤魔化すが、まあ半分くらいは見抜かれているに違いない。  有楽は『兄貴』風を吹かし、『弟』をかまいたいのだ。  しばらく距離を置いていた時には気付かなかったが、あの頃の仁によく似た声で、有楽さん、有楽さんと大和に懐かれるのが、嬉しくて仕方がない。  だから、オフィスYが主催するミニイベントのスポンサーを引き受けることにしたのだし、例の若いバンドたちの尻ぬぐいにも、この先、手を貸すつもりでいる。  三上環がZARAKIのふたりをオフィスYに連れてきたとき居合わせていたのも、偶然ではない。  実際の所、あれはちょっとした見物(みもの)だった。  殊勝に謝罪したZARAKIを大和が世話する気なのは明らかだったが、留衣は厳しく、受け入れるための交換条件を提示したのだ。  ひとつめは、クラウドナインで起きた騒ぎの関係者すべてに、早急に謝罪すること。  ふたつめは、騒動の鎮火。SNSなど、一般人からの煽りに乗らないよう、ネットは禁止。あとは専門家の指示に従えというものだ。  みっつめは――― 『新曲を封印するな』  留衣の言葉に、その場に居た全員が()を失って、呆然とした。 『精度を上げて作り直すんだ。それも出来るだけ早く。一週間。遅くとも、今月中の正規配信を目指せ』  いや、だけど。  それじゃ逆回転を認めるってこと?  無茶すぎる。  流出したほうはどうするの?  そう皆が一斉に口を開いたが、留衣は動じることなく、ひとつひとつ制していく。 『もうZARAKIだけの問題じゃないよ。ここで逆回転を認める認めないで俺がコメントを出せば、世間に完全対決の構図ができて、火に油を注ぎかねない。俺は、そんなのごめんだから。運営会社に差止め措置の請求をするにしても、今の時代、いったんネット上に放たれたものを完全回収するのは無理。だったら上書きするしかないんじゃないか。もっと精度の高い、最高の曲で―――』  その言葉には、さすがのカイザキもぐうの音もでない様子であった。 『カイザキくん、やれるか?』  そう問われて、それまでしおしおと伏せていた頭をぐっと持ち上げ、大きく頷く。 『やる』 『やるじゃねーよ、やりますだろうが!』  カイザキの背中を小突いた男が、傍らから発破を掛ける。 『やります』 『やります!』  並んで頭をさげるZARAKIの二人に寄り添い、遅れて礼をとったのは、細面の整った造作に、切れ長の大きな目、東洋人離れしたひょろ長い手足―――  有楽にも見覚えがあった。 「……だぁからぁ―――見覚えなんてもんじゃないんですってばあ」  テクノユニット『ミカガミ』の三上環という名にピンとこなくとも、かつて都心の何箇所にも設置されていた音響機器の広告パネルに大写しされたその顔なら、一千二百万人が知ってる。  よりにもよってあの騒動のさなか―――  その綺麗な男が、自分の義兄と特別な関係だと、ふだんは鈍さに鈍さを掛け合わせたような、大和の勘が働いた―――らしい。 「……ちくしょー……ふたり揃って、くっそ綺麗な顔しやがって。モデルかよー美人かよーお似合いなんだよー」  まったく罵倒になってない。  笑いながら、有楽は思い出していた。  かつてその音響メーカーが初号機を出したとき、イメージモデルを努めたのが、ここにいる大和の兄だったこと。 「まあ―――別嬪さんなのは事実だわ」  有楽は笑う。 「でしょ」 「なんだ、おまえ……それでいいのか」 「俺じゃ駄目なんです~」  カウンターに顔を伏せて、大和の大きな体がくったり脱力する。 「んまあ―――おまえもαだしな」 「三上くんもαですよぉ」 「え? うそぉ!」 「嘘じゃ無いですって」 「いや―――だって、あの子、いい匂いしたじゃん」 「有楽さんが言いますかぁ。それセクハラですよ?」 「あー……はは。だな―――確かに、俺が言っちゃだめだわ」  だが、留衣が環を選んだ理由なら、有楽もわかる気がする。  やたらひょろ長い体つき。  血の気のない白い顔や、張るとよく通る声に、こちらを見透かすような視線。  そばにいると、周囲の空気が静まるような。それでいて、かっと身体の奥に火が点るような。  ―――あの目。 「留衣のばかやろー」  結城家のブラザーコンプレックスは、いつまでたっても治らないのか。苦笑を肴に、酒を飲む。  まあ―――  コンプレックスだけに、いろいろあるんだろうけど。  二件目のバーで大和のまわらなくなっていた呂律がさらに怪しくなったので、タクシーを呼んで先に帰らせることにした。 「すいません、有楽さん」  おう、と返事をして見送る。 「そこ、頭ぶつけんなよ」  は~い。ひらひらと、後ろ手が翻った。  ―――さて。兄貴タイム終了だな。  自分もそろそろ帰るかと、いつも世話になってる運転代行に電話をいれる。  午前二時を少し回っていたが、馴染みのドライバーはツーコールで出た。ちょうど近くへのお供を終えたところだという。 『一〇分でお伺いします』  こんな時間というのに、稼ぎ時なんだなあ。つれづれに考える。  会計をすませると、バーテンがあがりをだしてくれる。日本酒を出す店の気遣いらしい。口をつけると、湯気と一緒に焙じた茶のこうばしさが香る。 「遅くまで悪いな」  そう言うと、いつものお愛想が返る。  周りを見れば、店に残っている客も自分が最後だ。つと、腕時計を見た。  時間を示す長針の傍らに、変わった日付を読む。  ―――ああ。  思わず小さな声が漏れた。  今日はあいつの、月命日だ。  青白い光が入った気がして目を開けると、有楽の傍らで、起きあがった仁が携帯電話の画面を睨んでいた。  すぐにそれを伏せ、床に落ちた衣服を拾い上げる。  わかりきったことを、有楽は尋ねた。 「―――帰んのか」  うん。  静かなのによく通る低い声で仁が返し、裸の背に、腕を通したセーターをひっかぶった。力任せに引き寄せる。 「帰んなよ。たまには……いいじゃん」  バランスを失った身体が倒れ込んでくる。それを両腕で羽交い締めにしてふざけた。 「駄目だ―――帰らないと」  この言葉をもう何度聞いたろう。有楽は思った。  彼と仁が出会ったのは、まだ大学生だった頃、有楽が三年の春だった。  日頃の放蕩で足りない単位を補うため、専攻外のキャンパスへ出向き、食堂で昼飯を食ってると、隣のテーブルから知らない連中の聞きたくもない会話が耳に入ってきたのだ。  なあ、あれ……やばくね?―――  ひとりの先導に、三~四人の男子学生がいっせいに窓越しの中庭を向く。 「ちょ、激まぶ。一年か?」 「外部入学生かも、見かけない顔」 「Ωちゃんかな?」 「ウチじゃ、まずねーし。頭いいのは、意地でもSランいくだろう」 「見渡す限りクソαだらけ。こんな狼の群んなかじゃ、即妊娠しちゃうってかー」 「言えてる」 「特におまえとかなー」  そこまで聞いた上で、面倒臭いと思いながらも、釣られてそっちを見ていた。  植え込み側のベンチから離れた、楡の木の下で、誰かがひとりギターを弾いている。  Gretsch(グレッチ)のフルアコースティック。派手なオレンジ。  ―――ブライアン・セッツァーかよ。  吹き出しそうになったが、耳にヘッドホンをつけ、ひたすらスケールを運指していたその手が、やがて滑らかに走り出す。  ―――へえ。  そう思ったとき、相手がふと目をあげ、こちらを見た。  傍らのテーブルからどよめきが上がる。  皆が一斉に手を振ったが、相手にとってはいい迷惑だったのだろう。ヘッドホンをはずしギターを傍らのケースにしまって、立ち去った。 「あ、あああー」   歓声が落胆に変わったのは言うまでもない。  その美人が、哲学科一年の結城仁という学生であると、このとき有楽はまだ知らなかった。  だが、この出会いのおかげで、週に二度の面倒な学舎移動が苦でなくなる。  翌々日の昼休み、駐輪場横の渡り廊下で、またしても仁を見かけたからだ。  同じようにヘッドホンをつけ、あの派手なオレンジ色のギターをつま弾いていたが、今日も滑らかな運指に目が行く。  近くを通ると、生音も聞こえた。やはりロックではなく、ジャズだ。  ―――どこかで聞いたスタイルだな。  そう思いながら、通り過ぎ、あっと思った。 「トーゴ東雲(しののめ)だ!」  うっかり考えていたことを言葉にしたせいで、背後の気配が動く。振り返ると、ヘッドホンをずりあげて、彼がこちらを見ていた。  ―――目。  視線が絡んだ瞬間、有楽は息を飲む。  切れ長で大きな漆黒の目。  手はとっくに止まっていたが、外音を遮断しているせいか、無言のまま、じっとこっちを見てくる。それにしても、  ―――トーゴ・東雲。なんで、そんな渋いチョイスなのよ。  祖父が好きでよく聞いていた。  おかしな奴だと思った。ロカビリー仕様の派手なギターで、往年のジャズとか。  そんなことを考えていたら、いつの間にか、またも立ち去られてしまった。  ―――ああ?  さすがにちょっと気分が悪い。  翌日。有楽は用もないのに別校舎へ向かい、オレンジ色のギターを抱えた一年生を探す。だが、彼の姿は見当たらず、その翌日も見かけた者はいなかった。  すでに学内ではちょっとした噂になっていて、適当に何人か捕まえて聴き出すと、謎のギター弾きの名前と学年、学部と出身地まで、容易に知れる。  翌週、退屈しのぎに哲学科のある旧棟へ見に行ってやろうと考えていたら、図書館の入り口でばったり出会った。 「……ああっ」 「―――え」 「トーゴ・東雲!」 「うわあ」   最後のは、有楽に呼び止められて突然立ち止まった彼の背中に、後ろから来た誰かがぶつかった声だ。  だが、このとき大声を上げた誰かではなく、仁のほうが、持っていた荷物を盛大に地面へぶちまけた。 「あーあ」  レポート用箋にペンケースとその中身、携帯電話、あとは借りたばかりの図書―――ユイスマンス『腐乱の華』、タニス・リー『死の王』、ル・グィン『闇の左手』、ルイス『ペレランドラ』、京極夏彦『魍魎の匣』―――  彼と一緒に拾い集めながら、思わず尋ねる。 「神秘主義のレポートでも書くの?」  分厚い京極夏彦の新書版を片手に尋ねたので、仁は怪訝な顔をした。 「―――いえ」 「……そっか。トーゴ・東雲だもんな」  また、妙なところで腑に落ちた。そう思いながら、有楽は笑う。  ―――東雲か。  正確無比な運指でマシンと呼ばれた、ハワイ生まれの日系人ギタリストだ。本名は東雲(しののめ)藤伍(とうご)。シカゴで育ち、六〇年代クールジャズ全盛期に活動した。真骨頂は、イメージとは裏腹のグルーヴ感溢れるインター・プレイ(※)にある。(※ジャズのセッションで、プレイヤーがアドリブによるソロ演奏を繋ぐパートのこと) 「なんで―――東雲の曲を弾いていたわけじゃないのに……」  ぼそりと呟いた声が、またよかった。 「あれ、間違ってた?」  そう返してみたが、祖父譲りの耳で、間違っていない自信はある。 「練習してたの、ディル・ケリーのピアノとデュオでやった、インザグリーンハウスのライヴテイク―――だと思ったけど」  正解。  こちらの顔が映りそうなほど大きな目を見開いた仁の顔が、たちまちほころび、照れくさそうに笑ったのが嬉しかった。  最初のデートは、たしか有楽の祖父の貸倉庫だ。  まあデートというよりは、家捜しに近い。  アナログ盤レコードの蒐集家だった有楽の祖父が生前に集めた、何十万枚というコレクションを、仁が見たいといったからだ。  自分は、幼い頃からさんざん祖父の膝の上で聞いてきたし、レコードプレイヤーは実家に置いてきたから、気になるものは好きなだけ持って帰っていい。  そんな格好つけを、言ったような気もする。  有楽のそれを真に受けたのか、仁は丸三時間、そこに潜り続けた。  元はピアノとヴァイオリンをやっていて、ギターは最近始めたばかり。あのギターは友達が貸してくれたので、練習用に使ってたと言う。 「……そんなに目立ってた? そう?」  ほこりにまみれて、咳き込みながら出てきた仁の姿に、有楽は笑い出す。  綺麗な髪と白い頬についた汚れを拭ってやりながら、改めてまじまじと彼の顔を見る。  ―――やべえ。  どこからどう見てもどストライク。それ以外無い。  突然、胸の動悸が止まらなくなった。  薄くて白い仁の肌は、こすると仄かに桜色を帯びた。体温は低めで、触れるとすこし冷たかった。 「いい酒があるから、うちで聞いていかない?」  そう誘うと、くすっと笑う。 「プレイヤーないんじゃなかったの」  結局、その日のうちにレコードプレイヤーを買って帰って、仁を自宅に引っ張り込んだ。  下心はもちろんあった。  ただ、少し気になることがあって、すぐに手を出しはしなかった。  仁の髪や衣服から、ほんの少し甘い香りがするように思ったからだ。  学内で、仁を見ていた誰かも同じことを言っていた。 『―――だけどすれ違い様に、ちょっといい匂いがしたよ』  αにとって、そうした匂いのほとんどはΩの持つそれを指す。  レコードを口実に、仁を部屋にあげるようになり、なんどか夜明かしして話もするようになった頃、酔ったふりをして、仁のうなじにかかるまっすぐな髪をかき分けてみた。 「―――なに?」  すぐにバレて、指をつかまれる。 「あ―――いや」  笑って誤魔化したら、すぐ目の前から仁の目がじっと有楽を見上げていた。 「しないの?」 「……するよ」  そう笑って、軽くキスをした。  あの漆黒の目に、自分の顔が映ってる。もう一度それを確かめたくて、少し酔いの回った目を開ける。  耳のきわからすくった髪が、さらさらと指にこぼれる。  仁のうなじから、Ωの匂いはしなかった。それでも、そこに顔を埋めていると、仁が焦れて有楽の髪をつかんで引き寄せた。  ―――へ……ぇ。思ったよりビッチちゃん。  食らいついた唇を歯で弄ぶ。だが、それまでだった。  すぐに主導権を取り返した有楽が、めくりあげたシャツの中へ手を忍ばせると、仁の息があがる。 「……や、待っ……」 「そりゃないよ。さんざん煽っといて」  待つもんかと思った。残念なことに、困った顔が澄ました顔より、何倍もいい。 「駄目―――俺もアルファ……」 「んー大丈夫だって」  俺、バージンの相手すんの大好きだから。  なんて、どクズ(・・・)な台詞だけはとりあえず飲みこんでおく。  そんなことより、恥ずかしそうに有楽を押さえた手がそそる。  綺麗な指。  先に真新しいギターだこ。丸みを帯びた長めの爪に歯を立てて、噛み付きながらその指をしゃぶる。中指、それから人差し指。  ―――ああ、確かにこいつはαだ。  ふわふわと甘い匂いをたてるΩとは違う、もっと特別な匂いがする。 「……つっ、有楽さん……」 「崇司だよ―――有楽崇司」  そう言って、今度は仁に自分の指をしゃぶらせた。子供のような赤い口腔に、指をくわえさせて、上顎や頬の内側に触れながら唾液まみれにさせる。  さらに指を増やす。ぬるぬると出し入れした。  それだけで仁の息が乱れ、うわずった声が、漏れる。  ―――バージンのビッチちゃんか。もう大好物だわ。 「……な? 簡単だろ」  有楽は笑った。潤んだ仁の目も可愛かった。  ふたりの付き合いが変わったのは、その夏休み、仁が実家に帰省してからだ。  戻ってからの仁の様子は、あきらかにおかしかった。  それまで、毎日のように入り浸ってた有楽の部屋に来なくなる。誘っても理由をつけて断るか、会っても短時間で済ませようとする。  思い辺りはあった。  ときおり仁の髪や衣服から、あの甘い匂いが強く香る。Ωの残り香だ。  おそらく、故郷に残していたΩの恋人か婚約者と、休みのうちに何かあったのだろうと、容易に察しがついた。  有楽の家のような成金は別として、あの大学に通う、旧家育ちやいわゆる名家の跡取りというようなαには、血統を絶やさないため、家のすすめるΩの恋人か婚約者を持つものが少なくない。  仁の実家は、栃木の旧家で、江戸時代の本陣を受け継ぐ大きな旅館を営むと聞く。  長男で、αの仁にそんな相手がいないと考える方が、むしろ不自然だ。  だから、このおかしな空気は、仁なりに気を遣っているつもりなのだろうと、そう思った。 「―――まあ、気にすんな」  そそくさと帰ろうとする仁を、片腕で引き留めて言い放つ。 「……え?」  少し眉間に皺を寄せた仁の顔が、不快そうに振り返った。 「俺は気にしない。田舎にΩの婚約者? それとも親の決めた恋人? よくあることだろ」  できるだけあっさりと切り出したつもりだったが、白い仁の顔がたちまち血の気を無くす。 「なんだよ……」それでも気にせず、有楽は仁を抱き寄せてうなじに口づける。 「久しぶりのΩちゃんにほだされて―――つい、(つが)っちゃったか?」  ドンッ。  ふいに突き飛ばされ、有楽は壁にしたたか頭を打った。意外な仁の力に驚きながら、唸る。 「……いってぇ」  仁が床の上の衣服を掴み、カバンとギターケースを抱えて部屋を出るのが見えた。 「くそ。まじかよ―――おい、仁!」  思いっきり地雷を踏み抜いたことに気付いた時は、もう遅かった。  すぐ服をひっかけ玄関まで追いかけたが、仁の足は速い。部屋へ戻り、身なりを整えてから携帯電話と財布を掴んで、後を追った。  ―――ち、電話も繋がらねー。  表通りから帰ったなら、すぐメトロに潜ったか。この時間なら、最近始めたというアルバイトや、スタジオ練習もないだろう。  二十二時。晩飯もまだ取っていなかった。  通りに目を配りながら、メトロ駅へ降りる。構内をざっと探したがいない。目の前で行った列車に乗ったのか。  そのまま次を待ちながら、考える。  ―――本当に、誰かと(つがい)になったのか?  有楽に経験はないが、αとΩが番になるには、おおきくわけて二つの意味がある。  ひとつは発情フェロモンの抑制。  もうひとつはその逆で、発情の促進。  ぶっちゃけ、相手を互いにロックオンして確実に子孫を残すというシステムだが、おもにその抑制を受けるのは母体の役割を担うΩであって、種を仕込むαではない。  もちろん、人は生殖本能のみで生きるのではないから、誠実に番を愛するαは、Ωと同様の抑制を本能に架す。  だがその一方で、Ωと番をかわしたαがほかの相手と浮気するなんて話もよく聞くわけで、その相手を妊娠させたり、うっかり自分が妊娠するなんてケースもままある。  とかく世の中とは、ややこしく面倒なもの。  ―――そんなもんだと思ってた。  仁が有楽とつきあうのも、有楽が仁とつきあうのも。おたがい気楽なα同士―――  ―――気楽なα同士……だって?  じゃあ、なんで自分はこんな時間に、血相を変えて、仁のあとを追いかけているのか。  ずっと繋がらない電話に、戻ってこないメールの返信に、こんなにもイラついているのか。  有楽は、ひたすら自問自答をくり返す。  その理由など、考えるまでもなかった。  仁のマンションに近い最寄り駅でおりて、すぐ地上に戻り、明かりの煌々としたコンビニエンスストアを二件、はしごする。  腹が減ったと、しきりに仁が言ってたのを思い出したからだ。  だが、そのどこにもいない。  十字路を渡り、公園きわの道を仁のマンションまで急ごうとして、ふと、終夜営業のファミリーレストランに目が行く。  ―――いた!  遠目にも、黒いギターケースを抱えたひょろ長い背中がわかる。傍らに、小柄な誰かが寄り添っていた。  ―――女……じゃなきゃ、子供?  仁と釣り合う、色っぽい大人を想像していた有楽には、なぜかピンと来ない気がした。  いったん立ち止まり、メールを打つ。  さっきは悪かった。それ以外の言葉を、何も思いつかない。  送信すると、ファミレスの入り口に立っていた仁が、すぐポケットの中を探ったのがわかった。画面を見て、そのまま閉じる。  ―――だめか。  ふたりは案内されて、そのまま中へ入っていった。悪手と知りながら、有楽も追う。仁の相手をちゃんと見ておきたい気持ちも、どこかにあった。  店に入ってあたりを見渡す。  週末の店内は、そこそこ混んでいて、テーブル席の空きはもう数える程しかない。  二人の姿はなく、水の置かれた窓ぎわの無人席に、黒いギターケースがぽつんと立てられていた。  注文を取りに来た店員に、尋ねる。 「あの席に来た……ふたりは?」店員が不審な顔をしたので、すぐ言い直す。 「弟なんで。親と喧嘩して飛び出したもんだから」  咄嗟に出たわりに真っ当な作り話に思えたが、それでも怪しいことには変わりない。  お連れ様が、ご気分がすぐれないと―――店員は訝りながら、そう答える。 「ちょっと様子を見てきます。騒いだりはしませんので」  そう言い置いて、心配する親族を装い、注文のあと洗面所へ向かう。  だが多目的トイレの前を通ろうとして、口元を覆った。  ―――ヒートか!  感じた途端に、本能がはたらいて思考が停止する。すぐ近くに、発情したΩが居る。 「……仁……」  個室の中からくぐもった甘い声が聞こえた。ドア一枚を隔てても、ぐっと腰に来るような匂いが漏れ出して来る。 「だいじょうぶ」  すぐに仁の声もした。  驚くことに、この匂いの中でまだ冷静さを保っている。 「だめ―――仁。おねがい」 「大丈夫だよ。ほら―――飲んで」 「やだ」 「これ飲めば治まるから―――ほら、(・・)、飲んで」  ―――るい?  匂いがさらに濃くなる。口元を抑えながら、有楽は傍らの個室へ逃げる。声はそこまで聞こえてきた。 「や―――クスリはいや! 仁がして……仁がほしい……」 「ここじゃ無理だろ。な?」  情事のとき聞き慣れた、柔らかな仁の声に有楽の心臓がはねる。 「すき……ほしい」  相手の声が幼い。女かと思ったが、男か。タイプはどちらにせよ、まだ年若いΩなのは確かだ。 「るい……こっち見て。俺を見て」 「……仁?」 「な? 俺だ。あいつじゃない。ほら薬。これは、ちゃんと効く本物だ―――大丈夫」  その辺りでもう限界だった。  有楽はポケットの中を探る。運良く見つけたケース入りのマナーサプリを二粒ほど噛み砕き、正気を取り戻してトイレを飛び出した。  それからテーブルに戻ってオーダー票をつかみ、注文分の代金を置いて、釣りもそこそこに店を出る。  青信号を突っ切るために速度を上げた足で、そのまま走った。メトロの階段を降り、足がもつれ、慌てて手摺りを掴む。  息がまだ乱れる。鼻がすっかり効かなくなっていた。  ―――くっそ……あの匂い。  熟れた桃を何百個と箱詰めにしたような、暴力的な甘さ。  仁の髪や衣服に、残っていたのと同じ、若いΩの出すフェロモンだ。  遠目に見たのと声の感じから、相手はおそらく十代の半ばか、行って高校生ぐらい。  まだ時期尚早ではあるけれど、十九歳の仁の相手としての釣り合いは、一応取れている。  でも、あのぐらいの年齢なら、発情は覚えても、ここまで濃いフェロモンを垂れ流すか?  成人でもちょっとお目にかかれないような、病的な濃さだった。  仁までヒートになったんじゃないかと、一瞬、おかしな妄想が頭を過ぎったほど。  いったい故郷で、何があったのか。  あのΩが誰にせよ。ふたりに何かあったのは、もう間違いない。  息を整え、駅構内の自販機でスポーツドリンクを買って一気飲みし、仁へメールを打つ。  ―――頼む。話がしたい。わけを説明して欲しい。  送信して、やっと大きく息をつく。  今すぐ会いたい。  その一文は添えなかったが、すぐに返信が来た。 「俺は―――家から逃げ出したんだ」  そう切り出す仁の言葉は、まだ想定の範疇だった。  想像したとおり、Ωの留衣というのは子供の頃に親が決めた仁の婚約者らしい。 「考える時間が欲しくて。大学に進学して、いったん親元を離れれば、ずっと誰かの言いなりだった自分の生き方や考え方も、まとまるんじゃないかと」  留衣は仁より四歳年下の十五歳。  婚約者と言っても、まだ可愛いものなのだろう。そう考えながら聞き流してると、仁はいきなり爆弾を落とす。 「それが―――間違いだった。俺がいないのをいいことに、親父に……留衣をオモチャにされた」  ああっ?  そう叫んだきり、言葉が出ない。突然のことに、有楽の頭が空回りし始める。 「待て、仁―――ええと、おまえと留衣は婚約者で、それを決めたのは親だな? で、おまえとあの子は、その……いやまだ、早いか」 「―――(つがい)だよ」仁がぼそりと呟く。 「その話は長くなるけど、俺と留衣が番なのは間違いない」  じゃあ―――そう言いかけた有楽の思考が、頭の中であっちこっちと飛び回る。 「だったら留衣……ちゃんは、おまえ以外のαは受け付けないはずじゃ?」  そう。と仁は言い捨てた。 「留衣はそう。だけどそれをわざとこじ開けて、自分のいいなりにする―――そういうゲスのゲスが世の中にはいるんだよ」  ほら薬。ちゃんと効く本物だ。  そういって留衣に発情抑制剤を飲まそうとしていた仁の言葉を、有楽は思い出した。  もしあれが抑制剤でなく、発情促進剤だったら?  ―――ああ……クソッ!  知ってる。よくある話だ。  もっとも有楽が知ってるのは、SM調教やAVの風俗ネタだが、促進剤と抑制剤を使って、疑似的な番関係を作る遊びも世間にはある。  だがそれは、あくまでフリーの者同士が愉しむ、大人の快楽だ。  本物の番の関係を壊すほどの薬となれば、明らかに違法、しかも強烈だ。投与されたほうは堪ったものではない。それも、まだ成長途中の未熟な身体なら、さらに――― 「そんな薬が―――」 「この世にないって思うほど、おまえもめでたくないよな?」 「わかってる。けど……有り得ない、だろ?」  有楽は吐き捨てた。  倫理として成り立たない。親が決めた結婚なんだろう。子を残すためのΩなんだろう。そのΩの身体をぶっ壊すようなことをしてどうするのだ。  仁の婚約者としての留衣、番の意味はいったい何なんだ。 「昔から―――そういうひとなんだよ、俺の父親は。もっとも今回に限って言うなら、たぶん、母親と俺への意趣返し……だろうな」  意趣返しって。  キツイ言葉だ。  誰かを巻き込んで当てつけなければならないほどの感情を、夫が妻と息子に抱え持ってる。そういう意味なのだとすれば、かなり。 「―――俺のせいだ」仁は目を伏せた。膝の上に置いた手を握りしめる。 「あいつは弟を溺愛してる。だから、俺が弟の、大和の……運命の相手を寝取ったことを、あいつはずっと恨んでたんだと思う」  運命の相手。  有楽は、その言葉を頭の中でくり返し、知る限りの一般常識と都市伝説のようなものの狭間に、ようやく該当するものを見つけた。 「―――運命の、番?」  そんなものが、本当にこの世に存在すればの話だが。  大抵は恋愛ドラマの中の話か、思いこみだろう。誰だって、愛する者がいれば、このひとこそ運命の相手だと思う。  ましてや、磁石の対極のように身も心も引きつけられやすいαとΩなら、出会ってすぐ離れられなくなることだって、あるはずだ。  その関係性に誰かが名前をつけた。  ―――運命の番。  絶対にない、有り得ないとまでは言わないにしても。有楽は言い淀む。 「仁、そんなの都市伝説だ……」 「違う! 運命の番はある。俺は見たんだ!」  仁は叫んだ。  人が、本能に突き動かされケモノに変わる瞬間を。 「―――俺は見たんだ」    有楽のかたわらで仁が眠っている。  規則正しい息と、ひんやりした体温。  眠っていると、さらに人形めいた美しい横顔。  時々、本当に生きているのだろうかと、有楽は彼の鼻面に手を翳してみることがある。  馬鹿馬鹿しいと思っても、何故か、同じことをくり返す。  その後―――  仁の父親は、結城の家を出された。妻の真理子との離婚はこじれ、今も協議中と聞く。  留衣の症状は、専門病院のカウンセリングと療養でかなり落ち着いた。  留衣は、一時的に仁が引き取った。  だが有楽と仁の関係も、有楽が大学を卒業し、仁がUBARAを始めても続いていた。何度もふたりで話し合ったが、結局、終わりにはできなかったのだ。  むしろ、もっと離れられなくなって、おたがい時間の許す限り会うようになった。  会うと、話より先に身体を求める。  まるで繋がっていないと何もできないみたいに、会話もせず一晩中抱き合ってることもあった。まるで壊れたレコードのようだ。  ―――いや……壊れてなんか、ない。  同じことをくり返すのは、まだ足りないからだ。離れるたびに、身体のどこかが痛むのだ。  必死に、そう思い込もうとする。  ふたりでいると狂おしいほどに、話す時間も惜しかった。  有楽と仁、仁と有楽、ふたりの何かが、どこかで混線したのかも知れない。  身体と心の境界が、どんどん薄らいでいく。  運命の番は、αとΩに限ったことじゃないんじゃないか。  なんて、そんなことさえ思うこともある。  こうしていても、有楽の頭の中には、あの日仁から聞かされた、儀式の話が蘇る。  思春期を迎えたばかりの仁と、まだ幼い留衣の運命を狂わせた、すべての発端。  たった一度聞いただけなのに、まるで自分が体験したことのように、トラウマになってしまったような気さえする―――  仁と弟の大和は、腹違いの兄弟である。  結城本家の跡取り娘でαの真理子が、仁の生母。真理子の従兄弟で分家筋から婿養子にはいった父、大悟が、真理子を差し置いてよそのΩに産ませたのが大和である。  留衣は、結城家のため選ばれた子供だった。体質的に脆弱な仁の心身の安定のため、側に置いて一緒に育てようと、七歳のとき、施設から引き取られた里子だ。  もちろん、そこには、ゆくゆく兄弟どちらかの嫁に―――というおとな達の目論見も含まれている。  ただ、このどちらか、というのが争いのもとになった。  真理子は自分と同じ『逆性症候群』でひ弱な長男の仁を溺愛していた。  大悟は、外に囲っていた愛人とかれの産んだ大和を愛し、できれば真理子と仁を押しのけて、結城の跡取りに据えたいと考えていた。  祖父母に曾祖父母までが揃った結城家は、本家と分家を含め、そうしたふたりの思惑でまっ二つになる。  騒動は、仁が思春期を迎えた頃に起こった。  その日、大和は生母と面会だった。いつものようにいそいそと彼を送る大悟の車で、早朝に山形へ発っている。  学校へ行く支度をしていた仁は、途中で足止めされ、大悟たちと入れ違いに自宅へと引き戻された。熱も出ていないのに、今日は休んでいいと使いの者が言う。  狐につままれたような心地で帰宅すると、祖父母と母が待ち構えていた。 『留衣がね、やっと「お(こも)り」できるようになったのよ』  母が嬉しそうに仁の手をとる。古めかしい隠語に聞き覚えがなく、なんのことかと首を傾げた。 『あなたもこの頃、大人になったでしょう―――仁?』  言われてすぐに思い辺り、仁は耳まで真っ赤に染める。 『恥ずかしがらなくていいの。ふたりはこれで、赤ちゃんが作れる、一人前になったんだから』  用意された着替えに手を通し、仁は自室から母屋へと移動する。まだ何が起こっているのか、理解は出来ない。  ただ奥座敷に通されると、用意されていた仰々しい毛氈と正絹の揃い床に、目が眩みそうになった。 『おかあさん―――こんなの』  まだ早過ぎるという言葉を口にすることもできないぐらい、心臓が早鐘のように打ち続けていた。すぐに手を引かれてやってきた留衣と目を合わせ、さらに目の奥が軋むような動悸を覚える。  赤い襦袢に桜色の合わせを着せられ、のばし始めた髪を、ふんわり柔らかく整えられた留衣は、これまで仁が見たこともないほど愛らしく美しかった。  それでも―――幼い。  顔も、手も、足も、体のどこをとっても。  抱きすくめただけで、たちまち折れてしまいそうだ。こんなか弱いものには、触れられない。  倫理観とは別のなにかが、仁を引き留める。 『だめだ……おかあさん―――いやだ!』  仁が抵抗したので、おとなたちは作戦を変えた。  甘い白酒が運ばれる。初春の節句にいただくそれは留衣の好物で、毎年、結城家は節句にあわせて手作りしていた。  その日も、何も知らず、嬉しそうに留衣は飲み干す。仁にも勧めて、おままごとのような三三九度を喜んだ。  そして、すぐにそれ(・・)は、来た。  内側から沸き上がる熱で、仁の視界が薄赤く染まる。留衣の白い肌もすでに熱を帯びていたが、血管の脈打つ皮膚の薄い部分から匂いのもとが解き放たれると、留衣の全てが仁の五感を誘うように、赤く、甘く、練り(こな)れて見えた。  留衣はもう、さっきまでそこにいた弱々しい子供ではない。  たちまち仁は膝から崩れた。  始めて知ったそれは、暴力的な激しさで思春期の身体を翻弄し、まともに立っていられなかった。  ―――痛い……。  衣服の下で堅く持ち上がる性器が重く、痛い。  歩くのも辛くて倒れ込んだ先に、留衣の薄い肩がある。  無我夢中で、仁はそれに手を掛ける。  仁に触れられて、留衣は笑った。  その笑みに、甘さがはじけ飛ぶ。  甘い。息をするだけで甘く、気怠い。 「―――仁……」  お人形のように愛らしい声で、留衣が仁の名を呼んだ。  ―――誘っちゃ駄目だ、留衣。壊れる。  刹那にそう思う。だが壊したい。  壊したいのだ、自分は、それを。  駄目だ。駄目だと思いながら、手にとって、指ですくって、爪を立て、牙を剥いて、思いっきり刃を突き立てて、壊したい、なぜなら。  ―――ぼくのものだ。  この甘い果実は、自分のものだ。みんながそう望んでる。  部屋の中に濃密な何かが満ちていく。  仁は桜色に染まる留衣を、両手で掴もうとした。すると留衣は、きゃあと声を上げ、背を向けて逃げた。  腕の中に残った着物をかなぐり捨て、仁は留衣を追う。襦袢姿の留衣は、綺麗な赤い蝶々のように、敷き詰められた柔らかな蒲団を踏み抜き、右へ、左へと飛び回る。  怖がっているのではないと、すぐに気付いた。愉しんでいる。留衣も面白がってる。  留衣がはしゃいで逃げるたび、留衣の中からとろとろとしたものが流れ出て、細い足を伝った。濡れて光るその足が飛び跳ねるだけで、痺れるような感覚が、仁の奥から突き上げる。 「留衣!」  必死の思いで呼び止めると、留衣は自分から仁の腕の中へ飛び込んできた。  ―――ああ……やっと。  捕まえた。ようやく腕の中に留衣を納めた時、座敷の外が騒がしいことに気付く。 『俺を騙したな―――おまえたち、みんなしてっ!』  父、大悟の声だった。  自分と大和の外出の日に仕組まれたことに気付いて、急ぎ戻ったらしい。 「……仁?」  とろりと赤く潤んだ目で自分を見上げる留衣と、襖一枚隔てた、廊下の先に在るものを仁は見比べる。  よくも―――よくも!  大悟はあられもなく取り乱し、大声で叫んでいた。  辺りに満ちる濃密な甘さをかき消すように、建具の隙間から、放たれた大悟の怒りが迫るのを感じる。  実際には、言葉のひとつひとつを聞き取っていたわけではないのに、仁の中に満ちてくる憎悪が、姿の見えない怪物を迎え撃つように、堅く、鋭く、高まっていく。  仁は、留衣を抱く腕を緩めた。  じきに、迫り来るものから守るべく身構える。  すらりと大悟が座敷の襖を開いた。  中の惨状に、普段は柔和な面を鬼のように怒張させて、一声、叫ぶ。 「このォッ―――」  たちまち仁の身体は座敷の奥へと吹っ飛んだ。控えの間から駆け付けた真理子と祖母が、とりすがり抱き起こす。  祖父と叔父が、大悟を諫めながら両ぎわから抑えた。 「うるさい!」  大悟は焦れて、小柄な叔父を振り回し、障子へ突き飛ばす。すぐに数人の使用人たちも飛びかかるように、大柄な彼の腕や肩、足や腰にすがった。 「うるさいッ―――だまれっ! 黙れッ」  投げられたとき、仁は口の中をひどく切った。  くらくらする頭でようやく目を開けると、甘く熟した匂いのする留衣が、仁のすぐそばで、その傷に手を差し伸べていた、そのとき。  何かが、弾丸のような早さで座敷へ飛び込んでくるのを感じた。  大人の股を掻い潜り、もみあう腕をすり抜ける。  行け!  大悟が叫ぶ。 「行けッ! 大和!」  すると、小柄なむく犬のように見えたそれが二本足で立ち上がり、仁と留衣に襲い掛かる。 「―――きゃあっ!」  留衣が悲鳴をあげた。  仁はそれがまだ八つにしかならない、実の弟であると認められず、遅れをとった。  その時だった。真っ赤に充血した大和の目に見据えられた留衣が、突然だらりと手足を弛緩させたのだ。  口の端に泡を吹く。だが、それも一瞬のことで、仁を押しのけ、大和にむかって腰を高くつきあげた。 「―――駄目っ!」今度叫んだのは、真理子であった。 「駄目よ! やめなさいッ」  取り押さえられている大悟を睨みながら、留衣を抱きかかえて、大和の側から遠ざける。  留衣が一声、ケモノのような声でしゃっと叫んだ。  大和が真理子の足に食らいつく。それでも真理子は怯まず、大和を蹴り転がすようにして暴れる留衣を仁に差し出す。 「―――噛んで!」  彼女は迷うことなく、留衣のはだけた襦袢をむしり取り、息子の前に赤く肥大したうなじを差し出した。 「早く! 仁。留衣のここを噛んで! 噛みちぎってッ」  でも―――仁はひるむ。 「欲しくないのッ」  真理子は仁の襟首をつかんで、留衣のそこを鼻面に押し付けた。いつもの母とは違う、野太い野生の獣のような咆哮に、仁はうろたえる。  だが、それよりはるかに強く、甘く、目の前に供されたものに、息を飲む。  再び、大和が突進してきた。  真理子は、その小さな身体を払いのけて、仁に命じた。 「やりなさい! 仁―――」  仁の視界が急激に狭まる。  見据えていた一点も消えると、全身の血が沸き立ち、思考の全てが停止して、煮えたぎる本能だけが彼を支配する。  留衣に覆い被さり、幼い体を貫いた。  犬歯に深く甘い肉の味がしみてくる。  鉄さびに似た血の臭いさえ、この悦びには変えられない。  それをもはや、人とは呼べない。  そう仁の嘆いたケモノの血が、どす黒く仁自身を染めていくのを、彼の中の有楽は、ただ手をこまねき見守ることしか出来ずにいた。    吐き気はしなかった。  肉の一片、血の一滴が、人生を狂わせるなんて。これまで有楽は考えたこともなかった。  涙も涸れた。  たぶん、自分なんかの倍も十倍も、これまで仁は泣き続けたのだろう。  彼は人だ。ケモノではない。  自分も人。ケモノではない。  だから苦しむ。  悩み、悲しみ、嘆いて。もがき続ける―――  仁が目を覚ます。  眠っていた自分を見つめる有楽の視線に気付いたように、目を瞬かせながら、子供のような顔をした。 「―――なに?」 「好きだよ」 「……馬鹿」 「馬鹿はねーよ」  抱きしめて、口づける。  息が続く限りそうしていると、触れ合ったままの唇が笑い出した。 「……もう―――」  また、ふりだし。それは毎度のことだった。  ずっと、寝てるおまえを見てた。  そう答えると、漆黒の瞳が、有楽を覗き込むように見上げる 「―――寂しい?」 「違う。帰るなって言ってんの」  そう言いながら、有楽は手を引く。  いつもそうだ。あの夜からずっと、会話も関係も、一定のラインから先に進めない。  有楽は仁を待つ。仁が、もういいと言うのを、過去を捨て前に進むと決めるのを、待ってる。  だが、仁は無言のまま起き上がった。今夜もまた、いつものように―――床に落ちた衣服を拾う。下着、靴下、ジーンズ、セーターとシャツ―――  その腕を後ろから取り、有楽は枕の下に隠していたものを素早く、指にはめてやる。 「―――なに?」  今日、二度目の問いを仁が投げる。 「見たまま。もう三年目だし」  指輪はぴったりと仁の手に収まった。  仁は、窓に射す月光に手を翳し、ひんやりと冷たい手にそれを馴染ませている。 「似合うよ」 「ありがとう……綺麗な石だ―――なんていうの?」 「ブルーダイヤモンド」  有楽の言葉を、仁もくり返した。  平打ちのプラチナ地に填め込まれた一石が、まるで磨かれた氷のように、仁の指に光る。  そう大きなものではないが、決して小さくもなかった。 「崇司のは?」 「いや、流石にふたつは買えねーし」  そうなのか。仁は笑い、嬉しそうに目を緩める。 「じゃあ、大事にするよ」 「そうしてくれ」  背中から抱きしめる。  じき体温が通い合う。  これで繋ぎ止められると、思いはしない。  ―――だけど。  仁の匂いが有楽の髪にも絡む。深い森の奥で一輪だけ咲く花のような香りだと、有楽は思う。  その花の香りが好きだ。  指輪を矯めつ眇めつ、仁は珍しく照れていた。 「はは―――バブリー」 「バブリーって言うな」 「だってさ……」  耳元で、静かな仁の笑い声がする。もう少し。  ―――あと少しだけ。  頬と髪に口を寄せた。始発まで、まだ時間がある。 「崇司、もうシャワー浴びたい」 「―――じゃあ、一緒に行く?」  うん。そう答えながら、仁の背中が崩れた。  吐息がはずみ、すぐに甘くなる。Ωのそれとは違う、仁だけの甘さ。有楽はそれを舌で絡め取って、片手で腿を開かせた。  仁の目が薄く、有楽を見上げる。 「それとも、する?」有楽は、潤みの残った場所に手を延ばす。 「まだ、俺のカタチ残ってるし」  指を飲みこませると、仁は小さく息をついた。 「……馬鹿」 「馬鹿はねーよ」  これもまた、二度目の会話だった。  
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