#4 肉食と呼ばれた男(二)

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/3

#4 肉食と呼ばれた男(二)

 仁のバンド『pixy bud』の音源が、国内インディーズチャートで一位になった。  音楽専門誌に組まれたニューカマー特集では、仁の写真がトップを飾っている。  ただ、世間が持てはやしたのはバンドそのものでなく、結城仁、ただひとりの類い稀な美貌と才能であった。  そんな世間の風当たりに耐えられるほど、学生バンドの結束は固くない。  仁の顔からも、次第に笑みが消えた。  今日も、来るなりフリーペーパーの束を放り投げ、むっつりと黙り込んでいる。 「なんだ……ご機嫌ななめか?」  仁は、大学四年の春を迎えていた。 「バンドやめたい」 「このタイミングで?」 「卓さんは就活で多忙、ミナミは恋愛に夢中、佐久間は初めから卒業までの約束だ」 「そういうおまえは、どうなんだよ?」  俺は―――仁はそこで口ごもり、ポケットから手を抜く。ポータブル音楽プレイヤーをテーブルに置き、電源を入れた。 「崇司、これ聞いて」  勧められるままに、有楽はイヤホーンを装着した。柔らかな音色が耳に流れ出す。  ―――ピアノうまいな……歌も。  メロディに聞き覚えがあるような気がして、仁を見たら、大きく頷かれた。 「これ、おまえの曲か。でも歌ってるのは?」 「留衣だよ」仁は答える。 「留衣がピアノで弾き語りしてる」  へぇ。有楽は驚いた。 「うまいな。それにいい声だ。素人には思えんわ」 「だろ、な?」  仁の目が輝く。仁のこんな顔は久しぶりだと有楽は思った。 「じゃ、あれか―――今のバンドはもうやめて」  話の途中で、珍しく腰を折られる。 「新しいバンドをやりたいんだ、留衣と。俺と留衣なら、方向性も近いし、今よりもっと色んなことがやれる。演奏力や音楽理論の下地もあるから楽曲の幅もひろがるし、そのためのアイディアや意思の疎通もすごくラクだ。それに―――」 「いんじゃね?」  仁が言葉を飲んだ。  思っていたより、ずいぶん投げ遣りな声になったことに有楽自身も驚く。 「なに―――だって……俺たち、別に」 「だから、いいんじゃねっつってんの」  つい、駄目押ししてしまう。  あまつさえ、仁の反応にカチンときた。無邪気な気兼ねのなさを、無神経に感じてしまう。 「なんだよ……その言い方」 「じゃあ、おまえはどうよ」  当然の非難にすら言い返した。 「俺が、なにか失礼なことを言ったか?」 「失礼でなきゃいいのか。少しは空気読め」 「空気?」  仁はそう言ったきり、絶句する。有楽はこめかみを押さえながら、もういいと思った。 「明日、出張で()ぇぇんだよ。やらねーなら、もう寝たいから帰れ」 「なにそれ」背中の向こうで、仁が苛ついた声をあげる。 「やらないなら帰れって―――俺は、あんたの何? 専用のオナホ?」  そんなわけないじゃん。有楽は心の中で言い返す。  だが、頭の芯がズキズキする。  昨日、仕事でやらかしたミスとか、当面はその取り返しで奔走しなきゃならないとか。所詮は跡取り息子の出向仕事だと、同僚にまで陰口をたたかれてるのを、聞かないふりで頑張ってることとか。  ―――そんなつまんねーことばっか。  それが自分の現実だって、わざわざ仁に話す気にもなれずにいるとか。 「わかった―――帰る」  疲れたとか、本当は仁を抱いたまま眠りたいとか。  ずっと一緒に居たいとか。  言いたいことはいっぱいあるのに、何もまだ話せていない。  仁が荷物をまとめている。珍しく怒っている。  なのにかけるべき言葉が、頭の中からすり抜けてしまうのをどうすることもできない。 「明日から大阪出張だ。戻っても、しばらくはあっちと行ったり来たりで、連絡できないから」  仁が振り返る。その胸元に、有楽のやったプラチナのリングが下がっている。ギターを弾くとき危ないからそうしておけ。そう言ったのは有楽だ。それ以来、風呂でも、グラビアでも、仁がそれを外しているのを有楽は見たことがない。 「……そう」  仁が出て行った。  大阪支店へのわび入れのあと、いったん本社に戻って、有楽の関西出向が決まった。  期間は長くて二ヵ月と言われたが、なんだかんだ準備から引き継ぎまでをやり通すと、三ヵ月に伸びてしまった。  なんとか損失は最低限に抑え、代表責任者である親の体面、企業創始者である亡き祖父の体面も傷つけずに総会を迎えたことに安堵しながら、帰途につく。  季節はいつの間にか、また夏になっていた。  仁とは、あの日の言い合いのあと連絡を取ってない。  向こうも何かと忙しくしているのだろう。  珍しくメールの一本も来なかった。  上り新幹線が新大阪の駅を出てすぐ、有楽は仁へのメールを打ち始める。渡したいものもある。  あちらで一緒に仕事をしていた相手が、たまたま中古楽器店の息子で、ビンテージギターのコレクションを何本か手放したがっていたのだ。  ちょうど仁も、新しいギターを欲しがっていたはずだ。  どれもいい状態だったが、何本か試し弾きさせてもらい、そのうちの二本を見繕って持って帰っている。両方ともくれと有楽は言ったが、市場に出せば、数十万の値段がつくものだ。どちらか気に入ったほうを買ってくれればいいと、相手も了承してくれていた。  ―――どう切り出せばいいかな……。  のぞみが京都を過ぎても、まだ一文も打てず、有楽は携帯電話と睨めっこしている。  ―――まずは、謝るか。  なんで喧嘩したのかも、もう覚えていないが、仕事絡みでイライラして、自分が仁にあたったのだけはわかっている。  だが、三ヶ月間。一本のメールも電話も仁が寄越さないなんて、ちょっとない。  ―――もしかしたら……やっちまったか。  ギターの土産どころの話じゃなかったかも知れない。有楽は焦ったが、今さらという気もする。電話をするには真っ昼間だし、仁は大学かバイト中だろう。  まずはメール。そう思いながら、名古屋駅を通過する。  そして新横浜につくまで、ああでもないこうでもないと、さんざん書き直した文章をなんとか送信し、ほっとシートに背中を沈めた。  景色が東に近付くたび、仁が恋しくなった。  申し訳ないような、情けない気分になった。  少しだけうとうとし、目覚めると、もう列車が東京駅に到着していた。車内清掃のアナウンスが流れている。ゆるんだ口元を拭い、急いで手荷物を網棚から降ろした。  慌ただしくホームへ降りた目に、ふと巨大なパネル広告が飛び込んでくる。  ―――あ……?  背中からぶつかってきたビジネスマンに、小さく舌打ちされ、通りすがりの外国人に足をしたたか踏まれる。  あれ―――仁?  入って来た回送列車が邪魔だ。出るのを待てず、ホームを移動した。  開けた視界に、足早に歩み寄る。 「―――旋律が進化する……」  添えられた広告コピーを、口に出して読み上げる。  もう間違いない。  それは、仁の写真を使った企業広告パネルだった。あの美しい横顔が、光に透けるような眩しさで輝いている。  白いシャツをはだけた胸元から覗く銀の鎖。  気が付くと、仁の番号に電話を掛けていた。  出るはずがない。こんな時間に。  そう思い直し、家路を急ぐ。  新幹線のホームだけではなかった。  駅の構内にも同じポスターが連続して貼られている。  若い女性たちが、はしゃぎながらその前で写真を撮っているのにも出くわした。  何が起こっているのか―――都内に戻ったばかりの有楽には、何がなんだかわからない。  新宿にある本社へ顔を出そうとして、巨大スクリーンの前を通りかかったとき、ようやく事の真相がわかった。  ―――UBARA、都内ジャック中?  青信号で行き交う人混みの中で、有楽は呆然と流れ出した映像を見上げる。 「U、B、A、R、A……ウバラ?」  いったいなにが起こったのか。  そう思ったとき、聞き覚えのある美しいピアノの旋律と、柔らかな仁の歌声が流れ出した。  三か月と二週間前―――仁が目を輝かせて聞かせてくれた、あの曲だ。  旋律が進化する。  それも瞬く間に。  東京の時間は早い。たった三か月でポータブルプレイヤーの広告と同時に打たれた、UBARAのデビューを仕掛けたオトナ達(・・・・)がいる。  ぼんやりとスクリーンを見上げる有楽の携帯に仁からの返信がはいった。 『おかえり。会いたい。今からすぐいく』  メールを読み終え、有楽もすっ飛んで自宅に戻る。  すぐに行くと言った仁はなかなか現れず、その間に、数ヶ月放ったらかしていた部屋を換気し、片付けた。  持ち帰ったビンテージギターは二本ともリビングに、ほかの土産物と一緒に並べる。そこでインターホンが鳴った。  合い鍵を渡しているはずなのにと訝りながら出ると、返答がない。何度か呼び掛けてみる。  なんだろう。そう思ったとき、玄関の扉が開いた。 「―――崇司!」  扉の向こうに仁が立っていた。 「ああ、ただい……ま」  返事をする間もなく、靴を脱ぎ捨て、仁が駆けよって来る。 「おかえり」  しがみつくように抱きすくめられ、一瞬で火が着いた。だが、仁のほうが激しい。  勢い余って、もつれ合いながらソファへ倒れ込む。背中に回した手をまさぐりながら、ふたり同時にシャツをまくりあげた。 「そんなに焦るなよ」 「いやだ……待てない、やだ」  ジーンズを脱ぎ、仁が馬乗りになってきた。  身体から珍しく若いαの匂いがする。エレベーターを待つのももどかしく階段を駆け上がったのだろう。まだ脈が速い。  有楽の好きな艶のあるまっすぐな黒髪は、しばらく見ないうちに随分と伸びた。  パネルの写真は少し前に撮ったものだったのか。スタイルの崩れた今のほうが色気があって、有楽は好きだ。  下着の上から自分に当てた有楽の感触を確かめ、ほんの少し仁は何かを考えている。 「―――どうした?」 「ううん……」  あとは、黙って仁の好きなようにさせる。  汗ばんだ肌に銀の鎖が貼り付き、肌に映る冷たい色の石とリングの揺れるのを有楽は見ていた。  こんなに綺麗なやつだっけ。さっきパネルの前で立ち竦み、溜め息をついたのを思い出した。あんな二次元に写されても、仁が仁らしいことにも驚いた。  今さら余裕がないのはお互い様、だけど。  ―――やばいな。  久しぶりで、あまり持たないかも知れない。  色の薄い乳暈を吸い、ノットのしこるペニスの際をゆるゆると撫で上げる。  見かけより淫蕩な仁の身体は、たいていいつも、その辺りで陥落した。微かにひだを痙攣させて、有楽のものを奥まで欲しがる。  だが―――その日、仁は、途中で有楽の手を押さえた。 「……ん」  声を漏らして息を殺し、ぎゅっと堅く唇を噛む。その唇からひとすじ血が流れたのに、有楽は驚いた。  仁の身体が硬くなり、次第に蒼白へ変わっていく。 「……おい!」  呼吸していないと気が付いた。  すぐに起き上がり、抱き上げて堅く握った仁の腕を振りほどく。 「どうした? ……仁?」  大きく見開いた目から、大粒の涙があふれて流れる。声のない声で、仁は叫んだ。咄嗟に、有楽は仁から手を引いた。 「息しろ! はやく」  なんども試みた仁の気管が、ひゅうと細い音をたて、ようやく空気を取り込む。 「……たか、し……」  顔に血の気が戻ると、仁が苦しそうに手を伸ばしてきた。だが、有楽はその手を掴めない。  この症状を知ってる。  ―――番の拒否反応、か?  前に一度だけ、見た。ゼミの飲み会、誰かが悪ふざけで隣のやつにキスをしたとき。たまたま、そいつには将来を約束したΩの婚約者がいた。  顔面蒼白になって息を止めたそいつのことを、有楽は指さして大笑いした。有楽だけじゃない―――おまえ、どれだけカノジョのこと好きなのよ。そう言って、皆笑って……。 「崇司……ごめん……」  有楽は立ち上がる。できるだけ自然に、できるだけ遠く、仁から離れる。  言葉がでなかった。  今また触れたら、仁の身体はもっと激しく反応し、窒息の苦しさに泣くだけではすまなくなるかも知れない。  リビングから出てトイレに入り、内側から鍵を掛ける。すぐに仁が来て、その扉をノックする。叩いて、また有楽の名を呼ぶ。  拒否されたことのダメージと同時に、いつかきっとこうなるのではないかと、頭のどこかで自分が予測していたことに愕然とした。  わかっていたのに、敢えて知らぬふりをし続けていたことも。  有楽は声を振り絞り、喉の奥にこみ上げるものを押し殺して、一言返す。 「……帰れ」  扉の向こうで、それを叩いていた仁の手が止まる。閉じたそれを見つめながら、自分に何が起こったのかを、もう、きっと知ってしまったろう。  音楽という大切なものを共有し、留衣との絆が堅くなった。  だから有楽との関係を、身体が拒む。長年のつけがある分、酔った勢いの絡みとは比較にならない激しさで襲う。  仁は、もともと生真面目な性格だ。  世間によくあるように、番と恋人の両方を天秤に掛けられるほど、図太くも、器用でもなかったのだ。  ずるずると扉をこする音がした。仁が泣いてる。声が震えている。あの漆黒の目が、ぽろぽろと大きな雫を溢れさせ、言葉を嗚咽に変える。  なのに抱けない。頭を撫でてやることもできない。  ―――あんな真っ青な顔……もう見たくない。  有楽は唇を噛んだ。  ごめんと言われることが、こんなに辛いものだとは、今まで知らなかった。      それから、また有楽は仕事に忙殺される日々を送り、仁からの連絡も途絶えた。  UBARAは快進撃を続けている。  半年の間にシングル二枚とミニアルバムを発表し、メディアへの露出も増えた。  綺麗だが無口な仁と綺麗で愛想のいい留衣のコンビに食指を動かすオトナ達も、相変わらず多いようだ。   好評だった駅ジャックのポスターも、第二段は全国展開で仁と留衣のセットショットとなり、師走の街の話題をさらう。  その頃、ラジオやCMでUBARAの曲を聞かない日はなかった。  ここまでくると、もう避けようとしても避けられるものではない。  制作会議に呼ばれたラジオ局で、有楽は偶然ふたりに出くわす。  ガラスの扉越し、こちらに気づいたのは留衣だった。彼に促され、すぐ仁が振り返る。  半年ぶりに見た仁は、少し痩せたように思えた。  ツィードのロングコートが、長い手足によく似合っている。その襟元に、無意識に銀鎖をさがす自分の女々しさに、少し腹が立つ。  そんなことを考えながら、有楽は、傍らの相手の話を聞くとはなしにやり過ごし、エレベーターを待っていた。  扉をあけてUBARAの二人が出てくる。  エレベーターが到着した。 「先、行ってて」  有楽は、会議室のある廊下を引き返した。トイレに向かい、昼間に食べたものを少し吐く。  仁が追ってきたらどうしよう、なんてつまらないことも考える。  だが、口をすすいでいると、後ろから声をかけてきたのは彼でなく、同行の後輩だった。 「ゆうべは、まじ飲み過ぎましたよね―――顔色悪い。大丈夫っすかあ」  鏡越しに、有楽はポケットの中の胃薬をかざす。  ―――なにこの醜態……。  馬鹿馬鹿しくて、笑えてくる。 「あー今夜こそ直帰するわー」 「そうっすねー。僕も当分、酒はいらねーっす」  だるそうな声を響かせて、相手が返す。  鏡の中の蒼白な顔に、あらためて有楽は苦笑する。  まだ二十代だというのに、もはや人生に疲れ切った男の顔が、そこにある。  なんだこの顔は。  ―――勘弁してくれよ、もう……。  ほどなく、仁が留衣と身内だけで式をあげたと人伝えに知った。  UBARAが軌道に乗って、弟の大和も正式メンバーとなり東京暮らしを始めたと聞くから、そこでケジメをつけたのだろう。  いかにも仁らしい決断だ。  一方、有楽はいつまでも胃痛がおさまらず、吐いたものに時々血が混じるようになったので、医者に診せると胃に潰瘍ができていた。  自分ではあまり気づいていなかったが、その頃には体重もげっそり落ちていて、医者のストップの前に親が耐えきれなくなったか、有楽から仕事を取り上げる。  一年ほど海外で遊んでこい、と言う。  またどうして。そう問いかけた息子に、いいかげん孫の顔がみたいのに、仕事ばかりじゃそれもかなわないじゃないか。なんて白々しいことを抜かす。  今思えば、おそらく有楽の親は、なにかで息子と仁のことを知っていたのだろう。  常に若い女の尻を追いかけるのに忙しく、孫の顔がみたいなんて言葉が一番似合いそうもないくせに、一体なにを言い出すのかと呆れていると、この不景気にぽんとまとまったカネを寄こす。 「潰瘍の治療が終わったらでいい。弟が遊びに来いとうるさいんだ。おまえ、俺の代わりにオーストラリアへ行ってこい」 「へー」  間の抜けた声をあげたら、親は珍しく殊勝な目をして自分を見ていた。そんな顔をついぞされた記憶がなく、有楽は焦る。 「コアラでもカンガルーでも、好きなだけ見てくればいいぞ」 「いや、別に見たくねーし」 「だったら海で遊んでこい」 「地元の湘南でいいし」 「あっちでスキューバの資格試験が受けられるらしいぞ」  いいぞー海!  そう言って親指を立てた親の神経を、有楽はしばし疑う。  だが一点の曇りもなくわかるのは、親が本気で言ってること、今の自分がとてつもなく心配をかけていることだった。  もう断わるすべもない。 「―――わーったよ」  有楽は、(てい)よくUBARAと仁のいる日本から逃げた。  シドニーの親戚の家には二ヶ月ほど居候していた。  そのあいだに、地元の美形αや金髪の従弟(いとこ)といい感じになり、久しぶりにやにさがる。  そのあと半年ほどは自分で借りた部屋に住んで、海辺と街を行き来していた。  何も考えたくなかった。  何も考えず生きてたら、胃の痛みも心の痛みもどこかに吹っ飛んで、これまでのことが、まるで夢の中の出来事のように思えてくる。  それとも、これが夢なのか。  ―――もうどっちでもいい。  そのあとはビーチで知り合ったヤツが、やたら誘うので、そのままくっついてアメリカへ行った。  アメリカはオーストラリアより楽しかった。  体に流れる十六分の一の血のせいか、有楽はアメリカ人の心にフィットしたらしい。  海でさんざん焼いた小麦色の肌も似合っていたのだろう。  綺麗だ、すてきだ、最高だと、どこに行ってもほめそやされ、αにも、βにも、Ωにさえめちゃくちゃモテまくったから、だいたい夜はクラブかパーティ、昼間は適当に語学学校やビジネススクールをひやかす。  はじめはLA、つぎにNY。  一度ついた遊び癖は抜けず、だらだら過ごしているとついにカネが尽きた。  親に連絡をしたが、調子に乗りすぎだと怒鳴りつけられ、それもそうだと思い始める。  ―――もう日本に戻っても、いいかな。  一緒に住んでた年上の世話好きαが、籍を入れるんじゃなかったのかと泣く。 「ダーリン、そういうわけで。悪いけど」 「なにが、どういうわけなの! これだから日本人は」 「だよなー。大変、遺憾に思うわ」  そう返すとぶん殴られ、やっぱ外国人はこええ、と思い直す。  だが。  ああして、たぶん、送り出してくれたんじゃないだろうか、そんな気もする。 「いつもあんたは、心ここにあらずだね」  彼には、よくそう言われていた。  一体、どこに何を忘れてきたの? とも。  隠す気もなかったから、見抜かれていたのだろう。 「あんたみたいな男とはこれでお別れだけど、ちゃんと忘れ物を取ってらっしゃいよ」  別れ際、彼はそう言って、有楽の背中を優しく抱いてくれた。温かく広い肩に顔をうずめて、有楽は少しだけ泣いた。  なぜかほっとする。  自分のようなクズにも、こんな言葉をかける人がいるなんて、世界は甘すぎる。そう思った。  そうして送り出してくれる人が、まだいることにも改めて感謝した。 「ダーリンありがとう。愛してる」 「ハニー楽しかった。愛してないけど、あなたのことは絶対に忘れない」  有楽は笑いながら、空港に向かう。  よかった。まだ心から笑える。  きっと―――俺は、大丈夫だ。  日本に戻って、最初にしたのは荷物を待つこと。整然とした人の列や、同じ方向に一定の間隔で足早に歩く人々が懐かしい。  空気の匂いも違う。  九州に近づいているという台風の情報すら、心が躍る。  すべてを飽かず眺めていた。  そのとき、ふと隣に座る誰かの読んでいた週刊誌の見出しが目に付く。  派手な赤い文字に、見慣れた名前が踊っている。  ―――結城仁、失踪?  時差ボケにふんわりしてた頭の血が、一気に引く。  煽り言葉に唖然とし、すぐに近くの店まで雑誌を買いに走った。  慌ててページを繰る。一年ぶりの母国語の情報量に目が眩む。  すぐには理解できず、二度も読み直した。  この一年のうちに、どうやらUBARAが大変な事になっているようだ。  新人登竜門の音楽フェスを一方的に辞退し、リーダーの仁が雲隠れしてしまったという。  荷物を受け取るのももどかしく、すぐに都内へむかった。  とりあえず仁の携帯に電話をかける。  番号は生きていたが、最初の何回かは繋がらなかった。  三度目には繋がったが、すぐに切られ、腹を立ててかけ直す。そのまま二十回ほど呼びだし音を聞いたかも知れない。  伝言メッセージのサービスはなく、延々とコールだけが続く。  かけ直そう。そう思って電話をはずした時、ふと音が途切れた。  ―――はい。 「……もしもし!」  長い沈黙がある。息を詰め、言葉を無くした相手の気配が、耳の奥で今にも叫び出しそうに思えて、たまらず有楽から口火を切った。 「どこにいる」すぐに返答はなかった。「今、どこにいる、仁!」  すると一呼吸のあと、懐かしい艶のある声が有楽をなじった。 『それ……俺の台詞じゃないかな』 「バカヤロウ」  おまえは何を言ってるんだ。いや、俺は何を言ってるんだ。  一瞬のうちに魔法が解け、現実世界へ戻ったような気がした。  放蕩生活も、自分を甘やかしてくれた夢のような時間も、もうない。  今ここにあるのは、小さな電子機器の向こうで息をする仁と、往来で馬鹿みたいに立ち止まっている自分自身だけ。 『―――品川……駅の近くのホテル』 「すぐに行く」  ホテルの名と部屋番号を頭の中へたたき込んで歩き出す。時差ボケに眩む頭が、仁の声をリピートする。  俺の台詞じゃないかな―――なんて。  情けない声だった。ずっとひとりで閉じこもってるのか。  いったい何があった。すべてを投げ出すなんて、仁らしくない。  荷物を最寄り駅から宅配便に預け、とりあえず品川へ向かう。  電車に乗っても、いつポケットに入れた携帯電話が鳴るか、気が気でない。  ホテルの名前に思い辺りがなく、駅前でタクシーを拾った。運転手は慣れた様子で、すぐに方向を切り替える。結局、駅の近くどころか、五反田まで回り込んでしまった。  ビジネスホテルというよりマンションのような細長いビルは、一階が中華レストランで、エントランスが二階にあった。七階、一番奥の七〇九号室―――インターホンに指を掛けると、中からドアが開く。  仁―――また痩せた?  目を合わせて驚いた。寝不足で赤く濁った目、伸び放題の髪、不精髭―――こいつに髭なんか生えたのか―――青白い頬、なのに。 「崇司……」  なんて切ない声で呼びやがるんだ。  だが、感動的な再会はたちまち掻き消える。  ぐいっと力まかせに引き寄せられ、有楽は狭いシングルルームへ倒れ込む。ベッドと、小さなサイドボードの上のテレビ以外何もない、埃まみれの部屋だった。  どれくらい、ここに居たんだろう。  食い物は、カネは、誰かに連絡は。  まったく、外にも出なかったのか。  痩せた腕に抑えつけられ、一方的にのし掛かられた。あばらの浮き出た胸元から、銀の鎖と指輪が転がり落ちる。 「―――仁……?」  あの拒否反応は、もう出なかった。  だが、仁の息にメイプルシロップのような独特の臭気があるのに、はっとする。 「おまえ―――クスリきめてんのか」 「ドラッグじゃない。ただのホルモン剤だよ。ちょっと……だけだって」 「クスリに、ちょっともクソもっ!」  有楽は言葉を飲み、不摂生に荒れた仁の肌と、ふたりの間で揺れるリングを見つめる。 「会いたかった―――ずっと崇司が欲しかったよ」  とろりとした目で訴えられ、体勢を返した。  こんなに濁っても、まだ漆黒の大きな瞳には、自分の姿が写り込むことに、心の奥が軋む。 「だめだ、仁」 「なんで?……アレをまだ気にしてるの? だったら、もう大丈夫だ。ぜんぜん平気だ」 「平気じゃない―――おまえは自分がなにをしたのか、わかってるのか」 「……わかってるよ……」  すぐに仁が体を返す。有楽の上で、羽織っていたシャツを脱ぐ。  骨の浮き出た身体に、生々しい痣と傷がある。 「しよう? ねえ―――めちゃくちゃにしていいから」  目の焦点があってない。  ―――ばかっ!  有楽は仁を殴りつけ、腕に抱えて風呂場へ直行する。水を出したシャワーを、頭から浴びせかけると、自分もたちまちずぶ濡れになった。 「目ぇ覚ませ! 仁」  経口薬だけじゃない。腕にも、まだ新しい注射痕がある。  上半身ばかりか、緩くなって下がったデニムパンツの腰や腹、背中にまで、赤く、青く、こんなになるまで。  なんでこんな、自分を傷つけるような真似を、わざわざ。 「……崇司………」  ふりそそぐ水の下から、仁が有楽をみあげる。 「まだ……駄目なの?」 「だまれ」  俺のせいだ。ちがう。  俺がこいつを見捨てたせいだ。ちがう。  俺がこいつに捨てられた。拒絶された。疲れて、壊れて、情けなく逃げ出して―――そうだったはずだ。 「俺じゃ、駄目なの……?」  なのに、なんで仁が壊れているのか。疲れて、逃げ出して、自分にすがっているのか。  有楽は自問自答をくり返しながら、仁と一緒に水をかぶった。 「わかんねーよ、もう」  仁の身体が震えだしたので、濡れて貼り付く服を脱がせ、湯に切り替えて全身をくまなく洗った。  泡に包まれた仁の身体の細さに、泣けてくる。  ―――くそ。  綺麗だった真っ白な体のどこもかしこも、今は、痣と傷とかさぶたと。  骨が浮くほど、食うものも食わず、いったい何人と試しやがった。  めちゃくちゃにしていいから―――だって?  心が麻痺するまで。  ―――拒否反応を感じなくなるまで?  そうするために、閉じこもってたのか。  ―――何のために。誰のために。  無性に腹が立った。すべてに腹が立った。  仁が、自分が、可哀想でせつなくて、たまらなくなった。  仁と、仁を追いつめたもの、そして無責任な自分自身と、なあなあに許してきた過去のすべてと。  出会ったことにすら―――  涙をこらえたら、鼻水になって垂れてきた。それをすすりながら、有楽は仁の身体をこすりあげる。 「いたい」 「だまれ」  仁の背中も泣き声を漏らす。 「痛いよ……崇司……」 「うるさい」  それを何度か繰り返すうち、かける言葉も見失ってしまった。  かわりに抱きしめる。  ずぶぬれになりながら、ただひたすら仁を抱きしめて、撫でさする。  狭いホテルの浴槽のなかで、体を折り畳むようにしてくっついていると、すこし安心したのか、仁は濡れたまま眠ってしまう。  有楽の腕に押しつけた頬に、長いまつげを伏せ、こどもみたいに、薄赤い唇を少しひらいたまま。 「……ばか……おまえは」  有楽は、シャワーを止め、その首筋に張り付く長い髪をかきわけ、頬を寄せる。  据え置きのボディソープに混じって、かすかに仁の匂いがした。  深く暗い森の奥で、一輪だけ咲いてる白い花の。 「―――崇司……」  開いた仁の目に、自分の顔がふたつ映りこんで、じっとこちらを見つめ返している。 「ん」 「俺……疲れちゃったんだ……」 「……そうか」 「もう歌うのも、ギター弾くのもいらない」 「そうか―――」 「やっと崇司に会えた……もう何もいらない……」  痩せた背中を抱きしめながら、有楽も目を閉じる。  ―――ごめんな、仁。  そう心の中でわびたとき、耳元で仁が声を詰まらせた。 「……ごめん」  肩にすがる手をつかんで、抱き寄せた。胸の中に、仁の声がしみてくる。 「ごめん―――崇司……好きだよ。忘れなきゃって、そう思ったけど無理だった。なに―――しても無理……俺……どうすればいいのかなあ……」  声を上げて仁が泣き出した。有楽も声を殺すのが精一杯だった。 「も、いい―――しゃべんな。もういい」  ようやく落ち着いた仁を抱き上げて、部屋に戻す。  軽くなった体は、あっさり持ち上がった。  乾いたタオルに包み込み、毛布をかけ、自分の身体も拭き上げ、有楽は我に返る。  ―――これから、どうしよう。  まずここを引き払いたい。  仁の財布を探すが、部屋のすみに捨てられていたそれには、わずかな小銭が残るばかりで、カードや免許証のたぐいも残っていない。  横にしたとき、仁は少し吐いた。  吐いたものに固形物はなく、まだ体に薬が残っているのは確実だ。  このまま自宅に戻したところで、どうにもならない。へたすれば、騒動にすらなる。  派手な週刊誌の見出しと失踪の文字、グラビア写真を思いだしながら、有楽は考え直し、大きな病院の理事を勤める祖母を頼ることにした。  頭の切れる祖母はすぐさま話を理解し、一時間後には、ふたりぶんの着替えやチェックアウト、入院先など全ての手配を整えて、ホテルに迎えを寄越してくれた。  車に仁を運び、そのまま祖母の手配した総合病院へと向かう。  特別室に入院させ、治療には家族の許可が必要だと言われるまで、有楽は仁のパートナーが自分ではなく留衣であることを忘れていた。  血の気のない顔で眠る仁を、有楽は見つめている。  処置をうけたあと、ようやく薬が効いてうとうとと眠り始めたところだ。  伸びきった前髪を掻き分けてやると、有楽の好きな、長い睫と繊細な鼻梁が覗いた。  十六時には、留衣と大和がやってくる。  腕時計を一瞥し、有楽は布団の際に伸びた仁の細い指を見た。内側に、いくすじかの擦過傷がある。  新しいものと、少し古いもの。  ひどくはないが、鎖を握って強く引かれるたび上書きされ、痕を残している。  着替えさせたとき、看護師にリングを通したそれをはずしましょうと言われ、仁は拒絶した。  握りしめ、相手をにらみつける。  バカヤロウ。  カネとクレカ盗られるくらいなら、なんで手放さなかった。  そう言った有楽に、仁はこどものような顔をした。  何を言ってるのかわからないという顔つきで、鎖ごと指輪を握りしめる。ゆるくなったリングは、今の仁の手には合っていなかった。 「……サイズなおさなきゃ……」 「もう少し太れ。ちゃんとメシ食って、しっかり寝て」  仁は申し訳なさそうに、ようやく笑った。 「うん……一緒にいてくれる?」  有楽は小さく頷いた。 「俺のそばにいてくれる?」  薬が効いて眠った仁を見つめながら、有楽は涙を拭う。いつまでも、泣いている場合ではなかった。  ―――このままじゃ俺たちは、いつまで経っても掛け違えた最初のボタンを直せない。  指輪を握りしめた仁の手を包み、そっと唇を寄せる。  逃げても無駄なのは、もう嫌という程わかった。  ―――俺たちは、離れると馬鹿になる。  まともに呼吸して、まともに生きることすらできなくなってしまう。   だから、なんとかするしかない。  なんとか、ふたりでやり直すしかない。そう思った。  留衣と大和が来たら、話そう。  仁の治療計画も、これから先も、今まであったことも、全部―――たとえふたりを傷つけることになったとしても、きちんと話そう。  そして、ここから先、仁と一緒にたくさんの償いをしながら生きていく。  そう有楽が心に決めたとき、病室の扉がすっと音もなく開き、大和と留衣がやってきた。  ―――あ。  お世話になりました。  留衣が頭を下げ、大和が後ろからデカい図体を覗かせ、有楽に問う。 「お(にい)、治るんですか」 「あ―――ああ、うん……医者の話じゃ……」  思わず言葉に詰まって、慌てて書類がナースステーションにあることや、家族のサインがいることなどを、ふたりに説明する。  その間もずっと有楽の目は、ほっそりとした留衣の身体と、それを包むシャツドレスや、目立つ腹の膨らみに釘付けになっていた。  まさか、そんなことになっているなんて思いもしなかった。  身ごもったパートナーを捨ててまで閉じこもった仁の傷の深さを思い知り、その身の受けた刃を、遅れて有楽も受け止める。 「おめでた(・・・・)―――なんだね」  思わず呟く。留衣は困ったような照れたような、とても複雑な表情で、曖昧に返して頭をさげた。  代わりに、素直な大和が答える。 「もうすぐ二十二週―――な?」  留衣は気まずい顔で言い訳した。 「腹帯のせいで、なんか大きく見えちゃって」 「だってのに。ったく……お兄のばか」  そっか。  そんなやりとりも上の空で、有楽はただ呆然と座り込んだまま、仁と、持ってきた日用品をてきぱき片付ける留衣と大和の姿を眺めやる。  ―――そうなのか。  不意打ちをくらった頭で、話そうと用意していた言葉の全てを、いったん飲み込む。  甘かった。  掛け違えた最初のボタンが、あまりに遠い。  ―――まだ、甘かった。  気持ちだけじゃどうにもならない。頭の中を整理しようと考え直す。  このままじゃ足りない。カネも、時間も、話し合いも必要になってくる。  ひとりじゃできない。どうにもならない。  立ち上がり、病室を辞す。 「じゃあ、あとはよろしく―――また来ます」  思った以上に打ちのめされている自分と、どこか諦めた自分が、心の中でせめぎ合う。  押すのか、引くのか。  決めかねるうち、日々が過ぎた。  UBARAサイドは、所属事務所と留衣と大和がてきぱきと対処して、大きな報道や誤報を漏らすこともなく落ち着いている。  一時は違約金問題にまでこじれかけたが、仁が戻ったことで、状況はやわらいだ。  渦中にあってなおUBARAの人気は衰えず、商品価値が高まっていたからだ。  仁の治療は思っていたより順調にすすんだ。  本人が言うとおり、違法薬物は使用していなかったため、刑事罰を受けることもない。  有楽も仕事に復帰したから、会える時間は限られていたが、できるだけ通い、数分でも仁の顔を見るようにした。  だが、思ったほど話はできなかった。  仁に、健忘の症状が出ていたからだ。  話をしようにも、覚えていることとそうでないことがあり、幻覚や幻聴の影響もあって、特にこの一年の記憶は混乱したままだ。  こっちは時間がかかる。医者にも言われ、本人も、自分のそうした状態を認めながら、ひとつひとつを整理し、徐々に落ち着き始めている。  有楽は、はじめて留衣と話をした。  互いに初対面のような気がしなかった。  有楽が仁と留衣の過去を知るように、留衣もまた有楽と仁にあった、ほぼすべてのことを知っていたのだ。  仁を追い込んだ自分たちふたりに責任の一端があると、有楽も留衣も嫌と言うほどわかっている。  だから―――と、留衣は感情を抑えた声でこう言った。 「できれば、仁の考えで仁の言葉で、これから先のことを決めたいんです」  君はいいのか。有楽は思わず、そう問いただす。  留衣は、あなたもそうでしょうと言いたげな目で少し笑った。 「ええ―――もう」  お腹の子はどうするのか、とまで聞けなかった。  そこからは、ゆっくりと時間がすぎていく。  三週間後に退院許可が出て、あとは通院という話になったが、留衣が今、自宅に戻るのはよくないと言う。 「―――パパラッチ?」  有楽の言葉に、大和がうわあと声をあげる。 「そういう感じですね。俺もこの体ですし、騒ぎはごめんです。故郷に戻ろうかと」  そこで留衣は、有楽に頼み込んできた。  落ち着くまで、しばらく仁を預かってくれないかと言う。 「仁も……そうしたいって言うので」  その言葉の意味を有楽は噛みしめ、わかったと頷く。 「え? じゃ俺は。俺も有楽さんち?」  ぽけっと大和が割り込んできたので、留衣がその頭をワシっと掴んだ。自分よりはるかに体の大きい義弟をしかりつける。 「ばか。なんでそうなる。お・ま・え・は、自分でなんとかしろ」 「いてっ。なんでよー寂しいじゃん」 「考えろよ、ブラコン! 今、俺らが固まってたら、周りの迷惑になんだろがっ」 「ひでぇ! つっても、どうせお兄のとこしか、あいつら行かないじゃん」 「だったら、その仁のところにおまえまで行ってどーすんの!」 「あ、そーか」  そのやり取りに、有楽は笑った。  ただ、こんな馬鹿を言ってふざけあうふたりが、どんな風に育ち、ようやくここまで来たのかを考えると、言葉もない。  有楽自身は、生母こそ早くに亡くしたけれど、甘やかされ、可愛がられ、何不自由なく生きてきた。  家は裕福だった。学校の成績もよかったし、運動もできたし、恋愛の相手に困ったこともない。  順風満帆の人生の中で、有楽は、はじめて仁のような相手に出会った。  仁を通して、自分を見失うほど誰かにのめり込むことや、己の無力さを知った。 「じゃあ、僕らは退院の手続きにいってきます」  あらためて留衣が言う。  有楽は仁を連れ、救急搬送口から出て、裏通りに待たせたタクシーで出て欲しい。  そういう指示だった。  仁に事情を説明すると、何も言わず、ただ着替え始めた。 「これから、ふたりで―――この先のこと、ちゃんと考えような」  そう言ったときには、小さく、うんと返してきた。  有楽は仁を自宅に連れ帰った。  仁の身体はかなり回復していたが、全てが元通りというわけには行かない。  無茶打ちしたホルモン剤の影響が思ったより強く、なくした記憶は戻らなかった。混乱すると、ただでさえ少ない言葉数も減り、ふたりで話し合うところまでたどり着けない。  それでも、一歩一歩、仁のなにかが変わろうとしている。  物音に怯えなくなると、食欲も出てきた。  好きなものと嫌いなものなど、生きるための執着が戻ってくる。  ここ数日はずっと、大きなソファの上から動かない。まるで飼い猫のように日がな一日、そこに座ったり寝転んだり、古い本を読み、レコードを聴いて過ごしているようだ。  有楽が仕事から戻って、出がけと同じ格好のまま丸まっている仁に呆れるのが、最近のお決まりだ。 「―――おい、少し片付けろよ」  積み上がった雑誌と本の山を踏み越え、読みふける文庫本を取りあげると、黒い大きな仁の目が有楽を見上げた。 「今日は……何してたんだ?」  そう尋ねると、仁は微笑む。 「うん。特に―――何も」それからぽつんと付け加える。 「……退屈だったな」 「退屈がわかるようになったのは、いい傾向だ」  有楽が言うと、昨日もそう言ったと返す。そんな余裕も出てきたらしい。 「晩飯、喰うだろ―――からあげ買ってきた。あと牛蒡サラダと、おまえの好きな高野豆腐と……メシ炊いといてくれた?」 「うん二合。釜飯のもともいれた」 「お、いいね」  仁とふたり、毎日がこんなふうに過ぎていくのを、長いつきあいの中で初めて知った。  たわいのないことを話し、つまらない冗談で笑い、たまに子供のようにくっついてくる仁の頬にキスをして、ふたりで食卓を囲み、少し酒を飲む。  留衣には、定期的にメールをいれた。それが、仁を任された義務だと思ったからだ。  留衣からの返答は、いつも短い。  わかりました。と、こちらは特に変わりありません、の二行。  たまに大和がこっそり訪ねてきた。  仁は嬉しそうに弟の話を聞き、ときどきからかって笑う。こんなときにはちゃんと声をあげて笑うのだと有楽は思った。  昔の話の中で、獣のようにかみついてきた子供だった大和の印象があった有楽には意外なことだった。  生母が違い、あんなことがあったのに、ふたりはとても仲のよい兄弟だった。  でも、それが当たり前なのだと有楽は思う。  人は、刻々と変化する。心変わりし、忘れ、忘れられないことは飲み込んで生きていく。  仁は、ときどき夜中に有楽の布団に潜り込んできた。  なにをするでもなく、ただ背中からくっついてくる。有楽も気がついたときには、応えて抱き返す。  仁の身体は、相変わらずひんやりとしていた。  つきあっていたときには、ずっと朝までこうしていたかったことを、今さらのように思い出す。 「崇司……キスしてもいい?」  腕のなかで仁が言う。いいよ、おいでと有楽は返す。  髪、吐息、首筋、そのどこからも、仁の匂いと有楽自身の匂い、それにふたり一緒のシャンプーや柔軟剤の香りが混ざり合う。  一緒に暮らすというのは、そういうことなのだと改めて思った。  仁の舌は有楽のより薄い。唇は柔らかくて荒れやすい。上顎と頬の内側に触れると、すぐに息が乱れてくる。 「―――もっと?」  濡れた音をたてて唇が離れると、仁の腕が背中まで回ってきた。 「……うん」仁は潤んだ目で有楽を見つめる。「もっと」  何度もキスを繰り返した。  もう焦らなくてもよかった。  最終電車も、始発の時間も気にしなくていい。  めくれあがったパジャマの裾から手を入れて、仁の肌の感触を愉しむ。堅くなってきた小さな乳首を指の腹で弄んだり、内腿に持ち上がってくる仁のものを感じながら、点り始めた火をゆっくりと温める。  仁の細い指が、もどかしそうにそれを解いた。  パジャマをたくし上げ、脱ぎ捨てる。  自分のそれと併せ、硬く持ち上がった有楽のものを掴んで(しご)く。  すぐ息が上がった。  有楽も着ていたシャツと部屋着を脱いで、布団の外へ蹴り出す。  肌がふれ合い、密着する体温がおたがいを分け合う。 「……あ……」  耳をくすぐる声が懐かしい。足を開かせ、内腿から持ち上げて、自分を欲しがる場所を探す。 「……崇司……」  仁が自分でそれを開いた。仁の白い指先に、柔らかく潤んだそこが反応するのがわかった。有楽が触れると、たちまち最初の関節まで飲み込む。  ゆっくりほぐす。呼吸のリズムが合う。 「崇司……たかし……」  早く欲しいとき、名前を呼ぶ癖。有楽の髪をかき回す癖。  手を添えて、軽く衝く。二度三度と仁が苦しくないあたりまで進めて引くのを繰り返すうち、仁の奥がとろりとそれを飲み込んだ。  仁が背中を反らせ、大きく息を吐く。  こいつにこの快楽を教えたのは、自分だと有楽は思う。すぐに中から絡みついてくる。 「もっと……もっ……奥まで衝いてほし……」  請われて、仁の脚を抱え上げ密着した。 「ゴム、擦れて痛い。はずし……」 「だめだ」  そう返すと仁がぐずった。赤く潤んだ目で有楽を見上げながら、どうしてもいやだと言う。 「はずして。あとで、ちゃんと……洗うからぁっ」  リミッターのぶっ飛ぶような声で言われて、有楽はあっさり陥落する。 「こういうところが、駄目……なんだぞ」 「いいの……もういいんだ」 「よくない」  喘ぎながら仁が笑う。 「お願い……いっぱい出して」  もう余裕がなくなった。  仁が蕩ける。熱い。絡みついてくる。信じられないぐらいエロい音を立てて、有楽のものを飲み込んでは蠢いて、溶け流れる。  有楽のそれもいつもより深くて、長かった。  全身で息をしながら力一杯、仁を抱きしめた。 「好き……崇司……愛してる」  仁が汗をふるった有楽の顔をつかまえる。  つながったまま、もう何度めかのキスをする。触れる身体の、どの場所も熱い。仁の吐息も、いつもは冷たい皮膚も、左手につけたプラチナのリングさえ二人の体温を吸ってしっとりと温かい。  そのとき、肌に汗ではない何かが静かに伝うのを有楽は感じた。  目をあけて、仁の顔を見る。  濡れた漆黒の瞳と、嗚咽をこらえ、鼻水でぐしゃぐしゃになった顔がすぐそこにある。目があうと、さらにそれを歪めた。  ふたりの呼吸が止まる。  さらに仁の息がふるえ、喉がしゃくり、有楽の髪に絡めた指先が堅くなる。 「…………ごめんね」  そして、絞り出すような嗄れ声で、そうつぶやいた。  聞き取れないぐらいに壊れた声なのに、その言葉の意味が、すっと有楽の耳にしみこんできた。 「崇司……ごめん」  ああ。  なぜだろう。有楽の中の何かが納得する。  そうか。  やっぱり、そうか。決して望んでなどいないのに、そう思いさえした。 「泣くな、仁」それでも、受け止める。ただ抱きしめてそうしなければと、心に残った理性の一片が必死に告げる。 「―――ひっでえ顔してんぞ……おまえ」 「そんなこと……言うなぁ」  泣きながら仁の手が、有楽の腹に拳をいれる。  肩から伝いふるえた仁の背中が堅くなり、さらに声を引きしぼる。  もう聞くことはないと思った泣き声なのに、またこんな風に泣かしてしまうなんて、思ってもみなかった。  それでも、仁は、この先を決めたのだ。  有楽とは別々の道を歩むことを、決意した。 「……いいのか、それで」  未練がましく尋ねると、仁は深く、一度きり頷いた。 「崇司が―――許してくれる、なら」  だったら、いいも悪いもない。  掛け違えた最初のボタンは、いつも有楽の手の届かない場所にあった。  ただ―――それでも身体が動かなくなるまで、仁と一緒に手を伸ばし、跳び続ける覚悟はあった。  ごめんと言われた今も、まだ手を伸ばしたいと思っている。  何度でも跳ぶ。  そのことだけは伝えたい。有楽は思う。  もう少しだけ、泣いたら。そのあとで。 「心配すんな」と有楽は笑った。 「俺は、ひとりでも……ちゃんとやれるよ」  そう言って返すと、仁は殴ったばかりの有楽の腹にそっと手をあてた。  あれほど熱かったはずなのに、震える仁の手は、もういつもの冷たさを取り戻し初めている。  その長い指が、白い爪が―――  とても美しかった。  その数日後。  宇都宮の結城家から連絡があり、仁は実家へ戻ることになった。  母親が倒れたという。  それまで仁の入院先になんの連絡もなかったから、有楽もおかしいと思っていたのだが、仁と実家は数年前に絶縁していた。  留衣にした仕打ちを許せなかった仁の母が、夫を追い出したところまでは知っていたが、彼女はその後、留衣、ついには大和まで家から追い出したらしい。  祖父母や叔父が、なんども諫めたらしいが、彼女が聞き入れることはなく、二人に結城の敷居をくぐらせることを許さない。  仁はそんな彼女が、たまらなく嫌だと言った。  いかにも自分の親という気がするとも言った。  それでも脳梗塞で倒れた母親を、放っておけるほど仁も冷たい息子ではない。  また母の弟である叔父夫婦には、仁の大学や留衣の高校、生活費などの支援をうけていたようで、今回のことで心配をかけた詫びを伝えたいとも言う。 「担当医には、向こうの病院に紹介状も書いてもらったから」  大事を前に、やっと頭がすっきりしたと仁は言って笑った。  きっとそれだけじゃないのだろう。  あの夜からの数日間を、ふたりは恋人でなく長い友人同士として過ごした。  もちろん腹を割ってすべてを話せるほどに、まだ気持ちの整理はできてない。  それでもいがみ合うでも、すがりつくでもなく、お互いがお互いの気持ちを優先しあって寄り添えるとわかったのは嬉しかった。  仁は踏みだそうとしている。 「留衣と大和にも、それぞれ連絡が入ってると思うから」  荷物をまとめたキャリーを抱え、仁は玄関先でそう言って靴をひっかけた。 「―――じゃあ」  そこで、また連絡するの一言を、仁が飲み込む。  手を差し出すのも、ハグもはばかられ、ふたりでただ狭い玄関口に呆然と向き合っていた。 「おう」  と、だけ有楽は返した。  その声を聞きながら、仁は俯いた。それから、顔あげて有楽に問う。 「―――まだ、俺たち幸せになれるかな」  言われた意味が分からず、一瞬、有楽はぽかんとした顔で、仁を見返したと思う。  あるいは、今のタイミングで言うことかと思ったかも知れない。  言った仁も、ちょっとまずかったかなという顔で、いや、そのつまり―――と言葉をつまらせ、困った顔でこちらを見上げる。  有楽は笑い出した。  こいつは―――まったく。最後までこれかよ。  そう思いながら、声を上げて笑った。 「―――いいよ、もう……ほら、行って」  追い立てるように外へだして、部屋の側のエレベーターの呼び出しを押してやる。  すぐに扉が開いた。 「寒くないか」 「うん、平気。崇司も、このあと仕事だろ。すぐ部屋に戻んなよ」  わかった。  一歩踏み出す。  二人の前で扉が閉まる。仁はその瞬間、はっとしたような顔で振り返り、有楽の名を呼ぼうとした。  ―――崇司……!  有楽は部屋に駆け込んだ。  決してうしろを見ず、玄関の扉を閉め、うずくまり、それからまた声を殺して、固くなった自分の膝をいつまでもじっと、ただ握りしめていた。  それが、有楽と仁の別れになった。  一週間後、仕事中にUBARAのスタッフ、小鳥遊(たかなし)から有楽の携帯電話へ連絡があり、留守番メッセージがなかったのでかけ直すと、昨日の夜、宇都宮から都内へ戻る途中、仁の運転していた乗用車が自損事故を起こし、彼が亡くなったと、そう告げられた。
/3

最初のコメントを投稿しよう!