アブルニー

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 漣は、そして黙り込んでしまった。何も考えていないわけではない。呆けているように見えるが、頭の中はとてつもなく回転している。  けれどその回転の中で生まれる思考が外に発散されることはない。全て彼の中の深い谷のなかに落ちていき、見えなくなる。彼自身、見えていないのではないか。見失っていることもあるだろう。  だけど彼は忘れない。私も記憶力が悪い方ではないけれど、彼のその記憶力には驚かされた。記憶力に深さと奥行きがあると知ったのは彼のせいだ。  それまで私は、記憶は広大な白いパレットを埋め尽くす作業だと思っていた。パレットの大きさが人それぞれなだけだと。私はおそらく太陽系ぐらいの大きさで、平均的には日本ぐらいの大きさだろう。それぐらいの違いだと思っていた。  だけど彼の記憶する方法は違う。私の理論でいくと、おそらく広さは太平洋ぐらい。けれどマリアナ海溝ぐらいの深さがあって、彼はそこに記憶を落とし込む。  そこに入ったものはもう誰にも取り出せない。彼だけのものだ。そこに潜る潜水艦は彼しか持っていない。そのくせ彼がどうでもいいと判断したことは深海に潜ることなく水面を漂い、やがて気化して消えていく。  きっとそういった性質が、漣の変態性に繋がっているのだろう。恋人を七十年も想い続けることができるのは、思い出が風化も気化もしないで、深い海溝の中で留まり続けるからだ。それを人は変態と呼ぶ。 「漣、あなたはど変態ね」  思わず口にしてしまったけれど、漣は反応しなかった。相当怒っているのだろう。彼の中の火山は噴火しているのかもしれない。それが全く外側から観測できないのも珍しい。  彼の心を解体して分析できればいいのにと思ったことは何百回かある。  たぶん、私が彼についていくのはその辺の興味が理由だろう。 「ねえ、何か音がしない?」
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