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「I'm off now. See you tomorrow」
午後5時きっかりにアイリーンはそう言うと、手提げ鞄を持ち、席を立った。
「お疲れ~ See you」
館林はパソコンから顔を少しだけ上げると、ドアから姿を消そうとしてるアイリーンに声をかけた。声が聞こえなかったのか、はたまた無視したのか、彼女の返事がないままドアはぱたんと音がしてしまった。
「さあ、あれから2時間たったが、進んでいるか?」
いつもことなのか、それに関して何も気にせず館林は席を立ち、背伸びをすると真正面に座るミヒロの後ろに回りこんだ。
「おう、がんばってるな。結構データ入ってるじゃないか」
書類をみながら顧客データを打ち込んでいる真面目な部下の後ろで社長はほほーと感心した声を上げる。
「その調子じゃ、あと1時間くらいで終わりそうだな」
(……あと1時間……)
ミヒロの肩は2時間ずっとキーボードを叩きっぱなしで、凝りにこっていた。
事務所に戻り、一通りの仕事を教えてもらった後、顧客データの打ち込みを頼まれた。
それが2年分ほどの量でファイルにすると5冊ほどだった。
「なんか腹へったなあ。ミヒロ、お前なんか食べるか?」
「あ、えっと」
確かにお腹がすいてるような気がした。しかし、これといって何を食べていいかわからずミヒロが言葉を濁す。
「おっし。俺がうまいもの買って来てやるよ。昼は麺だったから夜はご飯かな」
館林は戸惑うミヒロの肩をぽんぽんと叩くと、行って来るとドアを開け出て行く。
「あ!」
(いいのかな)
一応社長なんだから、ここは私が買ってきますと言うべきだったかとミヒロは後悔したが、昨日この国についたばかりで気の利いたものを買って来る自信はなかった。
(ま、いいか)
ミヒロはため息をつくと再びデータ入力に集中し始めた。実際、この2時間で恐るべき早くデータ入力が進んでいるのは、館林のせいだった。真正面に座るハンサムな社長の顔を見ないために、必死で書類とパソコンの画面に集中した。
おかげで仕事ははかどった。
(なんで、意識しちゃうんだろう。私よりかなり上だし、好みといえばあの顔だけなのに。顔……)
切れ長のあの瞳に見つめられるとどきどきした。
「ミヒロ!」
不意に名前を呼ばれて顔を上げる。すぐ側に館林が立っていて、ミヒロは顔を強張らせる。
「すまん、脅かしたか?戻ってきても、なんか渋い顔してパソコン見てたからな。ほら、今日の夕飯はチャーハンだ。高温で炒めていて、ご飯もタイ米だ。日本米だとべちゃべちゃになるところがタイ米だといい具合にぱさぱさになってうまいんだ」
「あ……ありがとうございます」
ミヒロは館林から透明な容器に入ったチャーハンを受け取り、お礼を言う。容器はしまっていたが、そのおいしそうな香りが外に漏れていた。
「ここで食べるのもなんだし、応接室で食べようか」
館林がそう言い、応接室に向かう。ミヒロは少し戸惑ったがその後ろの続いて応接室に入った。
「じゃ、私がお茶いれてきます」
「サンキュ」
ミヒロの言葉ににこっと笑うと、館林は応接室のソファに腰掛けた。ミヒロはチャーハンをテーブルの上におくと部屋を出て行く。そしてキッチンに向かった。当然料理はできなかったが、キッチンは洗い場と電気ポット、そしてカップなど収納された戸棚がある場所だった。
ミヒロは戸棚から急須を取り出すと、お茶筒をあけ、お茶葉を入れる。
(あー2人っきりで食事か。なんか緊張する。意識しないようにしないと)
ミヒロは電気ポットからお湯を急須に注ぐと、湯呑を二つ取り、お盆に載せる。そしてお茶のいい香りがする急須をその横に置いた。
「ありがとう。面倒だから、お盆ごと机に置いて」
急須と湯飲みをお盆から取り出し、テーブルに置こうとするミヒロに館林はそう言い、ミヒロは素直にお盆ごとテーブルに置いた。
「じゃ、いただきます」
部下が向かいのソファに座ったのを確認して、社長はチャーハンの入った容器を開ける。
「いただきます」
ミヒロもそれに習い、同じように容器を開けた。チャーハンの芳しい香りがする。
お腹はそこまですいてなかったつもりだが、その香りをかぐと急にお腹がすいた気がした。
「やっぱりうまいは」
館林はおいしそうに使い捨てプラスティックのスプーンを使い、チャーハンをすくって食べている。
「……おいしい」
チャーハンを口に含んだミヒロもそう声に出した。彼女はタイ米なんて食べたことがなかった。チャーハン、焼き飯なんて家で作るので十分だと思っていた。
でも今日社長が買ってきたチャーハンはまったく次元の違うものでかなり感激する。
「本当おいしいです」
「そうか、よかった」
顔をほころばせて食べるミヒロに館林も嬉しそうに笑いながら食べた。
半分ほど食べ終わり、さすがに食べ切れないと思い始めたミヒロはふと疑問に思ったことを聞くことにした。
「館林さんは、どうしてこの国に来たんですか?」
「偶然だよ。偶然。大学卒業して旅行にきたこの国で、おやっさん、えっと北山さんを見たんだ。派手なアロハシャツを着た人が日本人相手に道を案内していた。それがえらく楽しそうで、俺もやってみようかなと思ったのが始まり。今では俺がこの国の社長で、おやっさんが日本だからな。人生ってやつはおもしろいよ」
北山社長の姿を思い出し、そういえばアロハシャツが壁に飾られていたなと思い出した。人のよさそうな社長で、ミヒロがこの会社に入ってもいいかなと思ったのはその社長の人柄もあった。
「あ、じゃあ、本当はこっちが本社なんですか?」
「ああ、そうだ。日本のほうが実は支社。でも日本に本社があるほうが日系会社らしいだろう?だから、こっちが支社で、日本が本社という形にしてるんだ」
ミヒロは館林の言葉にふうんと頷く。
「どうだ。お前、この国好きそうになれそうか?」
「うーん、まだわからないですけど。あのスカイタートルはすごいなと思ってます」
支社長は部下の言葉に苦笑する。
「確かにあれはすごい。俺も最初見たときが驚いた。今じゃ、かわいいなと思っているけどな」
館林が柔らかな笑顔を向けて、ミヒロを見つめる。社長の笑顔に一瞬目を奪われたが、彼女は慌てて視線を逸らしてお茶をすすった。
「じゃあ、ありがとうございました」
まだ一人で帰るのは大変だろうと社長はミヒロをサービスアパートまで送り届けた。
「ミヒロ、これ忘れ物だ」
鞄だけを持って、車から降りた彼女に館林が窓を開けて、たくさんの本を手渡す。それを受け取り、その重さとこれから読む必要があるのだと、眩暈を覚えた。
「ミヒロ。がんばれよ。俺は応援してるからな。そうだ、これも渡すの忘れてた」
館林はそう言うと、車のダッシュボートから小さな紙を取り出す。それはタンタン旅行社の名刺だった。
「そこに俺の携帯番号が書いてある。さびしくなったらいつでも電話でもかけてこい。子供は相手にしないが、どうしてもっていうなら相手になってやる」
「?!そんなことありえないですよ!」
「冗談だ。冗談の分からん奴だな。ま、何か困ったことがあったら電話しろ。なんてたって、おやっさんの大切な部下だからな」
館林はひらひらと手を振ると真っ赤になって憤慨してるミヒロを残し、サービスアパートから車を走らせた。
(やっぱり、嫌な社長だ。絶対電話なんかするもんか!)
ごみ箱に名刺を一瞬捨てようかと思ったが、とりあえず鞄の中にいれると、ミヒロは本を抱えて、サービスアパートの中に入っていった。
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