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「松田くん、今日は、ありがと」
なんとか仕事を終えた午後10時。バックヤードで制服を脱ぎながら、やっとお礼を言うことができた。
「ん?ああ、うん、いいよ。よかった、なんとかなって」
松田くんは、事も無げに言う。
「わたし、アタリ交換やったことなかったから、焦っちゃって」
「わかる。僕も最初、焦った。アタリ交換用のボタンってないから困るよね」
この前、店長に教えてもらったばかりだったから、ちょうどよかった。そう言って松田くんははにかみながら、「アタリはクーポンと同じ扱いだから、今度からクーポンと同じ操作でやるといいよ」と教えてくれた。
「ありがとう」
ふたたびお礼を言いながら、二人で外に出る。しっかり冷やされた店内とはうってかわって、むっとするような暑さに圧倒された。
「うわ、暑…」
松田くんは、シャツの襟ぐりをぱたぱたさせて、なんとか風を取り込もうとしていた。
「なんかお礼させて、今度」
知らずのうちに、声が上ずってしまう自分を、なんとか抑えるのに必死だった。すたすた歩いていこうとする松田くんは、振り返って、おもむろにわたしの手をとる。
「ま、松田くん?」
「あー。やっぱり、前野さんの手、ひんやりしてる」
そのまま、わたしの手は、彼のおでこに。
「この前、手いつも冷たいって言ってたから…あー、気持ちい」
彼のもつ熱がぐんぐん、わたしの手のひらにうつっていく。何がなんだかわからないまま、とりあえず彼の気がすむまでそうしていた。そして、もはや彼の熱なのかわたしの手のひらの熱なのかわからなくなった頃、松田くんはようやく、わたしの手を離した。
「僕、暑がりでさ。前野さんの手があってよかった」
これがお礼ってことで、と言いながら、今度こそ松田くんは、すたすたと帰って行ってしまった。
彼の熱だけが、わたしの手のひらに残された。そして、わたしの、心の中にも。
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