第2話 デリラの魔性

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 予約した日時にクリニックに現れた望を、尊は迎え入れた。さして驚いている様子もなく、オフィスのソファを勧める。  広過ぎず、狭すぎず、いくぶんスペースに余裕のある部屋だった。テーブルや椅子、毛足の短いカーペットや照明は暖かな色合いのもので統一され、落ち着いた雰囲気がある。他にも静かなBGM、観葉植物の鉢など、カウンセリングのために作られただけあって、リラックスできるよう随所に配慮が施されていた。 「キャンセルされたかと思っていました」  可能であればそうしたかった。耳を塞いで目を閉じて、関係ないと決め込んでしまいたかった。が、望の中にあるものが真実の追及を緩めることを許さなかった。 「ドタキャンは嫌いなもので。それに、まだ終わってないからな」  望はバッグから直也の素行調査報告書を取り出した。 「公衆の面前で婚約破棄。意味不明な新郎の言い訳。回りくどい新婦の依頼。手際の良過ぎる探偵社の調査。怪しくて馬鹿正直な異能者。思えば、最初から違和感だらけの破局だったよ」  違和感が疑惑へと変わったのは酒井康史から電話をもらった時。 「酒井さんは木下さんの心変わりの原因を『奴』と言っていた。私や姉も、おそらく澤井さんも相手は『女』だと思い込んでいたにもかかわらず、酒井さんだけが女性と限定しなかった。女性ならば『アマ』かストレートに『オンナ』と普通は言う。なのに彼はわざわざ性別をぼかした」  その後、尊が現れ、康史への疑惑が強くなると同時に、彼の並々ならぬ木下直也に対する嫌悪も気になった――おそらく、今回の婚約破棄を仕組んだ動機はそこなのだろう。 「次にあんただ」  望は立ち上がって、尊のデスクに報告書を置いた。 「タラントについてはよくわからない。男性を虜にする能力があると仮定して話を進める。木下さんが性別の垣根も超えてあんたに惚れてしまったとしよう。しかし、それだと説明がつかないことがある」  お手並み拝見とでも思っているのだろうか。望を見上げる尊の瞳はかすかな笑みをたたえている。 「結婚式の一週間前にあんたと木下さんの二人は別れた。振ったのはあんただろうが、その時点で彼は解放されていた。つまり、木下さんにはあんたに操だてする必要なんて全くなかった」  尊と会っておきながら綾乃との結婚を進めていたということは、彼とはあくまでも浮気だったのだ。無論、浮気が本気になる可能性もあるが、別れて音信不通になった恋人のために人生を棒に振るくらいなら結婚式を挙げる前に綾乃と別れているはず。その方がずっと簡単だ。 「木下直也が公衆の面前で婚約破棄をしたのは、自分を偽ることができなくなったからじゃない」  むしろ、その逆だ。 「男と関係していたことをバラすと脅されていたからだ」  最悪の一手と知りつつもそれを指さなくてはならない時――それは他に手がないか、強要された時くらいだ。  木下直也の場合、結婚式での婚約破棄は非難の的になることであり、これまで積み重ねてきた信用も失墜する悪手だ。しかし男性との不倫が暴露されることに比べればまだマシだ。何しろ、彼は今まではLGBTではなかった。世間との折り合いを付ける度量も覚悟も培われていないのだから。 「私がどうしてそんなことをしなければならないのです?」 「依頼を受けたから。この素行調査も酒井さんから頼まれて作ったんだろ」  傍目にはなんら不備のない報告書。しかし右上に記されている探偵会社はフェイク。連絡先は尊の個人用携帯電話番号だった。一週間近く素行調査票とにらめっこしていなければ気づかなかっただろう。 「なかなか良い出来でしょう?」 「本物を見たことがないから、なんとも言えないけどな」  話には聞いたことがある。  いわゆる『別れさせ屋』だ。法律に抵触する恐れがあるので表立っては宣伝しないが、探偵会社が顧客向けにこっそり案内することがある。元カレと復縁したい女性が、元カレと今付き合っている女性に他の魅力的な男性をけしかけ二股をかけさせて破局させる、など一定の需要を見込める商売。 「酒井さんに依頼されて、木下さんと澤井さんを別れさせようとした。ところが木下さんは、あんたとはあくまでも浮気で、本命の澤井さんと結婚しようとした。だからあんたは戦法を変えて強引に別れさせたんだ」 「残念です」  尊はゆるくかぶりを振った。 「実に惜しい。限りなく真実に近いのに、肝心な点を間違えている」
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