放課後

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 踵を返した背中は、広かった。千夏とはまるで違う。彼女は一度も振り返ってはくれなかった。恭一郎とも、もちろん違った。  五限目の予鈴が鳴る。昼休みが終わった。さあ楽器庫に行こう。数が合わないと言われているホルンの行方を探さなければ。一体どこに隠れているのやら。第一音楽室にも立ち寄って、譜面台を準備しておかなくては。明日の個人レッスンの課題曲もさらっておきたい。それから、それから──思考は巡り巡って、離れていく天下に戻る。この背中を見送った後のことを思う。  きっと自分は変わらない。小生意気な似非優等生のことを事あるごとに思い出し、懐かしさだとか、寂しさだとかを覚えるのだろう。彼が大学に行って、やがて社会人となって、高校とは遠く離れたところへ進もうと、自分だけはここにいて、何も変わらないままで。  どうしよう、と涼は思った。思い出したかのように胸が痛くなる。  こっちの気も知らないで、天下は厳しかった。でもいつだってこの青年は優しかった。佐久間が涼を代用品扱いした時、自分のことのように怒った。そのくせ、連中が追い込まれたら汚れ役を買って出た。散々思わせぶりな態度を取っておきながら突き放した涼がいざ千夏を前にして途方に暮れていたら、当たり前のように手を差しだした。羨望による八つ当たりにも黙って耳を傾けた。恭一郎と彼女のことも真摯に聞いてくれた。その後は一切触れずにいてくれた。今だって。  天下が足を止めて振り返った。  ああ、どうしよう。学生服の袖を掴んだまま、涼は途方に暮れた。音大に入るために必死で声楽とピアノを練習した。奨学金が欲しかったからそれこそ死に物狂いで勉強もした。人並みの生活を送るために努力は惜しまなかった。自分は違えない。親なんかいなくたって平気だと胸を張っていたいから。でもこんな時にどうすればいいのかは誰も教えてはくれなかったのだ。 「先生?」  どうしよう、どうしよう、どうしよう。我慢することには慣れているのに。慣れていた、はずなのに。手を伸ばしてしまった。掴んでしまったこの手はどうすればいい。 「……どうした」  どうすればいい、って馬鹿か。簡単なことではないか。離せばいいんだ。少し手の力を抜いて。硬直した指を開いて。全速力で音楽科準備室に逃げ込めばいい。自分の生息地に帰って、自分の決めた分に戻って。そこから出ないように気をつければもう、こんなことにはならない。そしたら傷つくこともないし、面倒事に巻き込まれることもない。誰かに後ろ指差されることだってない。でも──でも、  傷ついてもいい。間違っていても構わない。それでも欲しい時はどうすればいい。 「涼?」  学生服の袖を握る手が解かされた。慎重に解いた手を取る、筋張った大きな手。慈しむように名を呼ぶ低くて少し掠れた声。そんな些細なことに涼は堪らなくなった。 「……君に、不足があると思ったことなんか一度もない」  生徒であることも、年下であることも、天下を損ねる理由にはならなかった。 「ただ、負い目が消えなかった。これから先、もっと素敵な人が現れるんじゃないか。もっと色々な選択肢や可能性があるだろうに、私が妨げることになるんじゃないか」  天下が学生としても人間としても成長するにつれてその思いは強くなった。彼はやがて学校を巣立ち、大人への階段を上る。そして自分は、この場所に取り残されて、何一つ変わらないまま。他人の目を恐れて、手を繋ぐことすら許せない。天下が生徒であることを理由にして。  際限のない不安や後ろめたさは『彼女』に抱いていたものと同じだった。妙な娘もどきが家に転がり込んでいなければ、彼女には社会人として、そして女性として大きく飛躍できたのではないか。少なくとも出張先から無理に帰って倒れることはなかったはずだ。  お荷物でしかない、自分はいつだって。 「私は、君を妬んでた。君が恵まれていればいるほど。これからもずっと、妬むと思う。その度に君は傷つきながらも私を気遣って何も言わない。そんな自分が想像できて、惨めで、嫌だった。周りから後ろ指差されるかもしれない。逆に体面を気にして君を拒絶するかもしれない。君だけを見て生きることなんてきっとできない」  重荷になってごめんなさい。でも一緒にいたかった。考えもなしにお金を受け取ってごめんなさい。でも大学に行きたかった。血の繋がりもないくせに、義理もないくせに甘えてごめんなさい。でも、もどきでもいいから家族になりたかった。  負い目の裏には、赦されたいという願いがいつもあった。  嗚咽を堪え、涼は喉の奥から声を絞り出した。 「……それでもいい?」  手を強く握り返された。腕を引かれ、天下の歩く早さに足がもつれそうになりながら、外の渡り廊下から校舎を出た。人気のない裏門と特別棟の陰に入り込んで、ようやく天下は足を止めた。 「上履き」 「あとで拭く」  不意に、強く抱き込まれた。見上げた天下の顔は真剣そのもので、涼はとっさに振り払うことが出来なかった。 「わかってんだ。ここが学校で、俺は生徒であんたは教師で、相応しくない状況だってことは。馬鹿げてるって自分でも思う。あんたの信条に反することだって、もう、ほんとにわかってんだ」  言うことばかりに夢中になっていた時は気付かなかったが、彼は彼で切迫していたようだ。肩口を掴む手は痛いほど力が込められていた。 「でも、頼む。後生だから。これっきりでいい。もう二度とここでは言わねえし、やらねえ。約束する。だから、」  眉根を寄せて天下は屈んだ。黒い目が泣きそうに潤んでいたが、どこか幼く期待に輝いていた。 「キス、させてくれ」  涼は激しく首を横に振った。 「駄目、無理」 「一回だけ」 「許可できない」 「お願いします」 「教師として、絶対に認めるわけにはいきません」  押しのけようと肩に触れた手に力が入らなかった。対する天下は離れる気もないが無理にことを進める気もないらしく、こう着状態となる。互いに固まったまま数秒、先に折れたのは涼の方だった。  天下の視線から逃れるように顔を逸らして、涼は呟いた。 「……今、だけは、目、瞑っておく」  言葉通り目を瞑った。物理的にも、精神的にも。  だから彼がどんな顔をして唇をくっつけてきたのかは涼にはわからなかった。ただ、耳元で「涼」と囁かれて恐る恐る目を開けた時、天下は目を細めて笑っていた。  それが限界だった。せきを切ったように色々なものが溢れて、収拾がつかなくなる。怖くて、嬉しくて、苦しかった。息もできないくらい。 「……ごめん。本当に、ごめん」 「あんたが謝ることじゃねえ」  いや、謝ることだった。謝って済むことでもなかったが、涼はひたすら謝罪の言葉を繰り返した。こんなに必死になって謝ったのは生まれて初めてだった。そのくせ、天下の袖を掴んだまま離せずにいる。  無責任の仲間入り。自分が軽蔑していた連中と同じことをしている。間違ったことをしている自覚はあった。途方もない罪悪感が胸を占める。  それでいて、赦されたいと涼は痛切に願った。  天下に、その両親に、兄弟に、友人に、想いを寄せていた香織に、育てた教師に、彼の周囲に生きる人たちに、赦されたかった。後先考えなかった母を、厄介とばかりに放り投げた父を、若い二人の『過失』を黙殺した家族を──それら全てを言い訳にしていた自分を赦してほしかった。 「私は教師だけど、高校生じゃないけど、」 「知ってる」  額と額が合わさる程近くで、天下の双眸が優しく緩んだ。 「俺は、高校生のくせにあんたを好きになった」
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