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怒りを通り越してしまえば胸を占めるのは、空虚ともつかない疲労感だった。とにかく、疲れた。涼はロビーにあるソファーの一つに腰を下ろした。落とすようにボストンバッグを足元に置く。修学旅行の引率でさえなければ人目をはばからず舌打ちの一つでもしたいところだった。
まさかの最終日前日で宿なし。笑ってしまうような展開だった。オペラに負けるとも劣らない奇想天外な状況に、涼は考えることを放棄した。
とりあえず、読み終わっていない音楽雑誌を開いた。現実逃避だ。わかっていても、現実と向き合う気力が今の涼にはなかった。教師が敵前逃亡して何が悪い。
不穏な気配を感じ取ったのは、今月号の目玉である鬼才ピアニスト吉良醒時のインタビュー記事にさしかかった時だった。
「誰がいつそこに座っていいと許可した」
涼は『オーディオ芸術』にかじりついたまま言った。すかさず返ってくる低めの声。
「誰がいつここは先生の専用椅子だと決めたんですか?」
顔を覆っていた雑誌から僅かに盗み見れば案の定、鬼島天下が隣を陣取っていた。私服姿を見るのは『カルメン』以来だ。しかしどうしてロビーなんぞに、と眉を寄せ、自由行動の時間だったと思い出す。
「土産でも物色しなさい」
「誰に買うんだよ。親父か、弟か? まさかお袋とか言うんじゃねえだろうな」
ごもっとも。高校生が買う土産は大半が家族へのものだ。つまり、一人暮らしでしかも存在そのものがないかのごとく扱われている天下は、買っても渡す相手がいない。
自分と同じように――浮かんだ考えに涼は吐き気を覚えた。どうしてそんな発想ができるのだろう、我ながら不思議だ。
「……最悪だ」
「そうでもねえよ。少なくとも俺にとってはな」
涼が最悪だと言ったのは、この状況ではなく自分の性根なのだが、天下は前者と解釈したようだ。訂正する必要性は感じなかった。勝手に迷惑がられてると思えばいい。ついでにこんな性悪教師のことなんか嫌いになればいい。
自虐的な考えになってしまうのは、たぶんこの状況のせいだろう。生徒と恋したわけでもなく、ただ毎日それなりに一生懸命教師の仕事をしている自分が、部屋を出る羽目になっている。今晩泊まる場所がない。何かを怠ったわけでも、過ちを犯したわけでもないのに。
誰もが当たり前に持っているはずのものがない。今に始まった理不尽さではなかった。だからこそ余計に思う。どうして自分が、と。
悶々とした思いを抱えて黙ること数分。天下は涼の顔を覗き込んできた。
「何かあったのか?」
彼が指差したのは足元に置いた涼のボストンバッグだった。本来は自室に置いておくはずのものだ。否応なく突きつけられた自分の状況に、涼は頭に血が上るのを感じた。気恥ずかしさだとか、悔しさだとかが混ざり合い一気に押し寄せてくる。
「君には関係ない」
自分でも驚くほど険のある声が口をついて出た。
「生憎だけど、私は君の境遇に同情し続けていられるほど優しくもなければ暇でもない。他に用がないのなら自分の部屋に戻りなさい」
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