入学式

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 祈りが届いたのか体育館では保護者説明会が行われていた。新入生の姿はない。教室でHRを受けているのだろう。  説明会も終わりに近づいていた。最後の質問受付けで母親の一人が挙手。校則に文句を言っていた。質問の形式をとってはいるが、涼に言わせればいちゃもんだ。笑わせてくれる。校則ではローファは黒のみを認めるとあるが、うちは先日茶色の革靴を購入してしまった。どうしても黒でなくては駄目なのか。  駄目なんですよ、お母さん。  不条理だろうと何だろうと、それを知って入学したはずだ。校則に意味を求める方がおかしい。だいたい座っている位置からしてあんた音楽科生徒の母親だろ。革靴一つで愚痴っていたら、これから先どうやって進学費用をまかなうというのだ。半端じゃないぞ。音楽って特に。  学校側はやや呆れつつも決然と「校則ですから。例外を認めるわけにはいきません」と譲らなかった。渋々顔で母親も引き下がる。 (ああいうものなのか)  母親って。  教師という職業柄、保護者(最近はそう呼ばないと差別と受け止められる)に遭遇する機会は結構ある。理不尽な要求を突き付けてくる母親もいたし、進学のことで思いつめた顔して相談してくる母親もいた。時折父親もあるが。  しかしそのどれも共通していたのは、子供の状況を自分のことのように怒り、もしくは不安になり、あるいは喜ぶことだ。放任主義を貫く家庭でもその傾向はあった。  その様子を傍で目にする度に涼は不思議な気持ちになる。羨ましいわけでも、哀しいわけでもない。ただ、珍しいものを見たような感覚。時には感心さえ覚える。よくもそこまで。  娘、息子といえども違う意思を持った他者に過ぎない。よくもそこまで思いを込めることができるものだ。  そんなことを考える自分は、おそらく何かが欠けているのだろう。  質問が終わり、保護者達はまばらに立ち上がる。そろそろHRも終わっている頃だ。丁度いい。生徒と合流すべく保護者らは体育館の出口へと。涼は廊下の端に寄って道を譲った。  目の前を通り過ぎていく方々は同じ保護者とのお喋りに熱心だ。去年と何ら変わりない光景だった。涼は壁と同化しているつもりになって、この行列が過ぎ去るのをひたすらに待った。  特に意識を向けていたわけではなかった。ただ、この大群の中に天下の母親がいるのかとなんとなく、眺めていただけだ。この大人数では見過ごすだろうと諦めてもいたし、見つけたところで挨拶を交わすほどの間柄でもない。  その折だった。  視界の端に、女性が入った。グレーのスーツを品良く着こなした保護者――いや、母親だ。誰の母かなどとは訊ねるまでもない。この場にいる以上、わかりきったことだ。  しかし、涼の思考は一瞬にして止まった。  保護者の一団が通り過ぎて、その騒ぎ声すらも遠くなってなお、涼は動くことができなかった。半開きのまま閉じることを忘れた口に手を当てる。唇に触れた指は微かに震えていた。 「……まさか」  涼は鼻で笑った。最近、いろいろあり過ぎて意識過剰になっているのだろう。それにしても性質の悪い幻を見たものだ。  ――自分を生んだ女性がこの学校に来ているなんて。  悪夢としか言いようがない。
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