一限目

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 愛用しているかはともかく、赴任時から使用しているティーカップに涼は紅茶を淹れた。  うららかな放課後の一時。教師は涼一人しかいない音楽科職員室。喉を潤すアールグレイ。それは静かで平和で穏やか──とは言い難かった。 「ちょっとアンタ、言いたいことがあるならハッキリ言ったら?」 「……ない」 「あ、そう。じゃ出てってよ。用はないんでしょ?」  来客用の椅子に我が物顔で座る矢沢遙香。女性にしてはややつり気味の目は剣呑さを帯びていた。  そんな敵意剥き出しの眼差しを、真っ向から受けとめているのか気付いてないのか、はたまた受け流しているのか、鬼島統はものともしない。だんまりを決め込んで、涼の方を凝視もとい観察している。 「なにコイツ? リョウ先生も何か言ってやってよ」 「二人とも出て行きなさい。こんなところで時間を潰すな」  遙香は不満顔だ。統と同じ扱いであることが癪に障ったのだろう。しかし、涼に言わせればどちらも招かれざる客だ。本日の授業を終えて一息ついている真っ最中にずかずかと入り込んできた迷惑二人。自覚がないので余計に性質が悪い。  涼はカップを二つ取り出し、紅茶を淹れた。自分もずいぶん甘くなったと思いつつも二人の前に置く。 「飲んだら帰りなさい」 「ちょっと聞いてよ先生」  まずお前が他人の話を聞け。涼の心中を余所に遙香は不満をぶちまける。やれ佐久間が最近つれないだの、クラスの顔ぶれが最悪だの、ありがちな愚痴だ。 「だいたい英語だけなんで成績でクラス分けしてんの? 差別じゃん」  今年もやるのか英語選抜。懲りずにまた。意気込んでいた去年は結局、一人として名門大学に入ることができなかった。  ちなみに同年、音楽科では例年通り三名の学生が芸大に現役合格した。公立校にしてはなかなかの成績だ。無論、芸大だけが音楽家の目指す道ではないことは重々承知している。  だが、音楽科ばかり優遇されるにはされるだけの理由がある。 「Sクラスの連中は偉そうだし、マジムカつく」 「至って平凡な悩みで先生は安心したよ」 「他人事みたいに言わないでよ。ホント腹立つんだから。特にあのバスケ女! 自分はスポーツも勉強もできまーす。人望もあってみんなに好かれてまーす。凡人とは違うんでーす、みたいな顔して!」  遙香は一気に紅茶を飲み干した。精神の安定。涼としては紅茶の効能が至急現れることを願うばかりだ。 「あーあ、あたし音楽科に入れば良かった」 「まず楽譜を読めるようになってから、そういう発言をするといい」  それでも遙香の音楽の成績に、涼は「五」を入れた。授業態度と歌の試験から公正に判断した結果だ。才能があるのか遙香は、二年の三学期に巻き舌を習得したのだ。クラスではただ一人。さらに最終試験課題はイタリアの恋歌だった。恋愛の前に分別を無くし、とにかく情熱的に暴走する歌。天はあくまでも遙香の味方だった。
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