一限目

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 しかし、いくら巻き舌ができて多少歌唱力があっても、本格的に音楽の道に入るのには到底及ばない。 「どうしても入りたいと言うのなら、まず親御さんに相談しなさい。言っておくが、ものすごく金が掛かるぞ。金を掛けたところで成功する保証はどこにもない。才能があっても一生埋もれたままの音楽家だって珍しくない業界だ」 「それって反対ってこと?」 「私は止めやしないよ。君の人生だ。私には責任もなければ金を出してやる義務もない。君が説得すべきなのは親御さんだ。『数百万円をドブに捨てる覚悟で私に投資してください』と頭を下げるんだね」  突き放した物言いに遙香は眉を寄せた。 「……先生だって、どーせ親から金出してもらったんでしょ」  音楽科に限らず世の大半の大学生は親の金で大学に通っている。それが普通なのだ。投資者がいなければ諦めて就職するしかない。 「いや、私は――」  反射的に言いかけて涼は我に返った。生徒相手に何を言うつもりなのだろうか自分は。 「何よ?」 「無利息で借金して通ったよ。就職したら分割払いで返す約束で」 「えー、じゃあ毎月親に金払ってんの?」  親じゃないけどな。涼はあえて訂正しなかった。わざわざ不幸自慢をする必要はない。 「借りたものを返さなければ、ただの泥棒です」 「娘から金取るの? うっわ、ケチだねー」  遙香はそう言うが、太っ腹な方だと涼は思う。いきなり現れた娘の手に三百万円を押しつける父親だ。しかも向こうは、返さなくていい、とにかく懐に納めて帰ってくれ、とまで言ってくれた。  涼は顔を顰めた。我ながら嫌なことを思い出したものだ。 「そろそろ面談の時間も終わるよ。帰りなさい」 「あ、ほんとだ」  時計を確認するなり、遙香はあっさりと席を立った。おざなりに「ご馳走様」とだけ言って退室。相も変わらず台風のような女だ。涼は一人分のカップを片付けた。 「――で、君は何の用だ。暇潰しじゃないんだろ?」  紅茶と睨めっこしていた統が顔を上げる。感情の読めない表情だが、さすがに涼は察した。彼は、最初から二人きりになるのを待っていたのだ。
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