一限目

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 久しぶりに兄貴らしく弟と下校し、兄貴風を吹かして学校生活のアドバイスを授け、最後は兄貴っぽく爽やかに別れた翌日。  登校早々、天下は朝練の前に音楽科職員室に立ち寄った。  午前七時前。しかし音楽科の生徒は既に限りあるレッスンルームを予約し、練習に励んでいる。そのため、監督する立場にある音楽科教師も学校に来ている。もしかしなくとも登校時刻が一番早いのは音楽科だ。  一昨年普通科の音楽を担当していた音楽科主任に挨拶。当たり障りのない話をし、目が離れた隙に涼の机にコップを置く。  ささやかな達成感に浸りながら弓道場へ足を運ぶ。七時十五分を過ぎた時点で練習を始めていたのは天下ただ一人――それが部活動と専攻生の差だった。  八時二十分に練習を終えて弓道場を後にする。  中庭を通る際に鑑賞室を覗き込んだが、涼はいなかった。職員会議にでも出ているのだろう。階段を上り三年一組の教室へ。クラスメートには軽く手を上げて挨拶。廊下側一番後ろの机に鞄を置こうとして気付く。  今朝、準備室に置いてきたばかりのマグカップが返却されていたのだ。早々にバレたようだ。涼の性格ならば容赦なく突っ返してくることも、天下が受け取らないことを見越していない間に机に置くことも、予想の範囲内だった。それで天下には十分だったのだ。  机に置かれた黒のマグカップは、音楽科教師の涼がわざわざ普通科の教室に立ち寄り、天下の机を探してくれた証だった。  子供染みているのは重々承知だ。それでも、天下は嬉しかった。母親に構ってほしいがためにわざと困らせる子供の心境に似ている。  マグカップを持ち上げ、その下に挟んであった紙を手に取る。青いメモには滑らかな文字が書かれていた。間違いなく涼の筆跡で「sciocco」と。  英語ではない。では何語だろう。クラシック音楽に関わる外国語は多過ぎる。大まかに分類するだけでも三つ――クラシック演奏家の本場はドイツ。歌劇ならイタリア。理論ならフランス。こんな具合だ。  しかし、どんなに難解であろうとも涼からの課題だ。それと、初めてもらった手紙でもある。天下は機嫌よくポケットに入れた。 「おはよう鬼島君」  挨拶を返そうと口を開き、天下はふと香織の手にある電子辞書に目を留めた。今日は一限目から英語講読だ。クラス全員の前で読まされる可能性を考えれば予習は当然。最低でも辞書で発音を確認しておくのが学生というものだ。  そして英語Sクラスの香織ならば当日に慌てて予習をする必要はあまりない。 「なあ、それ借りてもいいか?」  香織が差し出した電子辞書を受け取り、開く。やはり最新式電子辞書。一般高校生には必要のない機能まで備わっている。その余計な機能に天下は感謝した。  ドイツ、イタリア、スペイン、フランス。よりどりみどりではないか。手早く調べれば意外にあっさりと解読できた。解答はともかく、涼らしい言葉に天下は苦笑した。 「どうしたの?」 「ちょっとな。ありがとな。助かった」  礼を言って返す。香織は小首を傾げながらも深くは追及してこなかった。その前に担任が教室に入ってきたからだ。生徒達は慌てて着席。日直が号令をする。  HRの真っ最中、天下はこの手紙になんと返すべきか、それは幸せな気分で考えていた。
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