二限目

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『やっほー。涼ちゃん元気?』  うららかな日曜日の昼下がりをぶち壊す声に、涼は皿をゆすいでいた手を止めた。着歴を見るまでもない。この底無しに明るい声の心当たりはたった一人。 『いるんでしょ? 電話出てよ』  三月に電話して以来だから、かれこれ二ヶ月近く会話していない。特に用もなかったから。 『すーずーちゃん』  間延びした呼び方をするな。文句は内心に留めて涼は洗い物を再開した。 『居留守はないでしょー』  正確に言えば居留守ではない。只今電話に出ることができないだけだ。 『リョウちゃーん、渡辺リョウせん、』  ブツッ。  小馬鹿にした呼称を言っている真っ最中に容赦なく録音は終了した。余韻代わりにプー、プー、プー、となんとも間の抜けた音──を、打ち消すかのように間髪入れず再びコール音。無視を決め込んでいたら、これもまた留守電に切り替わる。 『ちょっと! 録音時間が短いじゃないっ!』 「いや私に言われても」  すすいだ皿は他の食器と一緒に自然乾燥を待つ。ついでに布巾も洗っておこうかとのんきに考えていると、琴音の方も何か企んだようだ。 『いーわよ。涼がそのつもりならこっちだって考えってもんがあるわ』 「あーはいはい」 『歌ってやるわ。熱唱してやる。院生の実力ナメないでよ。教授にだってこの前「感情表現が豊かだ」って誉められたんだから』 「ふーん」 『聞いて驚きなさい。「魔笛」よ、しかも夜の女王』 「げ……っ!」  涼は思わず喉を潰したような声を上げた。  モーツァルト作曲『魔笛』、しかも夜の女王。甲高い声が紡ぐドイツ語のアリアはあまりにも有名で、それはもう……ホールで聴くなら魅力的だが、近くで聞いたら耳を塞ぎたくなるようなシロモノだ。なにぶん高音域のアリアなのだ。  手早く洗い物を終えて渋々受話器を持ち上げる。 「やめてそれだけは」 『あ、やっぱりいた』  榊琴音は責め口調だった。 『なんで出なかったのよ』 「どうして電話してくるんだ」  電話の向こうで琴音が鼻白んだのが、気配でわかった。 『どうしてって……涼に用があるからに決まってるじゃない』 「しかし私は君に用はなかった。だから出なかった」 『冷たいわね。それが親友に言う台詞?』 「私の薄情さを責める前に、用件を切り出すべきだと思うよ」  否定するのも億劫なので、涼は話を促した。 『用件は単純明快。今から遊びに行ってもいいかなってこと』  別に、急いでやらなければならない仕事があるわけではない。合唱部の練習だってない。月曜からの授業の準備も終わっている。特に予定のない、久しぶりの休日──とくれば涼の返答は決まっている。 「よくない」 『なんでよ。どうせ暇なんでしょ』 「煩わしいのは平日だけで十分だ」 『あら涼ちゃん、良かったわねー、相手が私で。普通の人だったら今の発言で友人やめるわよ』  言外に邪魔だと告げられてもめげない辺り、琴音もふてぶてしい。どうして自分の周りはこういう人間ばっかりなのだろう、と内心呟いてから、涼は気づいた。なんのことはない。琴音のように図太い人間でなければ、自分とは付き合えないからだ。 『それにね、涼ちゃん』  タイミングを見計らったかのように軽やかなインターホンが鳴った。 「悪い、」  来客を理由に切電しようとした涼の耳に、わざとらしく甘えた声が囁いた。 『もう来ちゃった』  涼は何も言わずに受話器を叩きつけた。少しでもいい、電話の向こう側にいる──いや、今は扉の向こう側にいる琴音に一矢報いることができればそれでよかった。耳に悪いだの知ったことか。  執拗に鳴り続けるインターホンに、涼は頭を抱えたくなった。  そして諦めて開けた扉の外で待っていたのが琴音一人ではなかったことに、本当に頭を抱える羽目になった。
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