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春はまだか二月の中旬。受験シーズン真っただ中に、涼は学校で鬼島天下を見かけた。一階の中央廊下の途中で立ち止まり、ぼんやりと中庭を眺めていた。
「久しぶり」
涼から声を掛けると、天下は珍しいものを見たかのように軽く目を見開いた。が、すぐさま折り目正しく一礼。
「お久しぶりです」
「今日は登校日か?」
「はい。午前だけですが」
似非優等生口調は健在だった。たった一ヶ月くらいなのに、涼は懐かしさを覚えた。そして三月の卒業式を迎えたら、二度と聞けなくなるのだと実感した。胡散臭い笑顔とも、打って変わって乱暴な素の口調とも、低い声とも、別れなくてはならない。それは寂しいことだった。しかし、毎年迎えていたことでもあった。
「こんなところで一体何をしていたんだ」
「隙間があるのは前に言ったよな? あそこから、中覗けんだ」
天下の指が中庭を隔てた向こう側に建つ特別棟――鑑賞室の窓を示す。遮光カーテンには隙間があった。あれは去年だったか、天下が指摘していたのを涼は思い出した。
「朝練の帰りに通ってたな、と感傷に浸ってた」
へえ、と気のない返事をして、涼は首を捻った。朝練の帰りとはつまりSHRが始まる直前であって、その時間で鑑賞室といえば。
「まさか、見てたのか」
「一昨年からずっと。あんた、全然気づかなかったな」
当たり前だ。こっちは迫り来る授業の準備に忙しいのだ。精神的余裕もなかった。今ではだいぶ慣れたが、新任当時は毎朝胃が痛くなっていたくらいだ。
「でも、そういうとこが、好きだった」
何気なく付け足された言葉に、涼は固まった。天下は苦笑した。
「なんにも知らねえから、だろうな。勝手に立派な先生を思い描いて、そうじゃなかったらガキみてえに癇癪を起こしてた。あんたにとっては迷惑以外の何でもなかったろうに」
切れ長の目が伏せられる。しばしの逡巡の後、天下は静かに声を絞り出した。
「……好きになって、悪かった」
堪えた声と一緒に鬼島天下は離れた。次の瞬間には、ただの優等生の顔で、小さく笑みさえ湛えて別れの挨拶をする。そつなく、余韻もなく。
「では渡辺先生、また」
社交辞令のように付け足された言葉は、頼りなく消えた。
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