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一限目
渡辺涼が音楽教師になったのは、音楽を通して生徒たちに自分を見つめ、自分を育ててほしかったから──ではない。ましてや教師が天職だなんて思ったことなど一度もなかった。「自分が好きなもの=職業」とできるのはよほど恵まれている人間だけだ。
しかし、やるからにはとことんやろう、と思うのも人情だ。世の中には音楽を通して少年少女の健やかな育成を促そうと熱意に溢れるものの、涙を呑んで諦めた人だっているかもしれない。
さすがに五時起きが毎日続くのは勘弁してほしいけど。
ほのかな煙草の匂いが鼻を掠めたのは、そんなことを考えながら涼が瞼をこすっていた時だった。振り向き遠ざかる背中に声をかける。
「煙草」
学ランが歩みを止めた。学生には不釣り合いな鋭い双眸がこちらを見据える。見覚えのある顔だ。二年生。この前も煙草の匂いをさせて堂々とやってきた。
「運動部かなんかで消臭剤借りなさい。校内は禁煙です」
むっつりと押し黙ったまま、男子学生は制服を鼻まで寄せた。愁眉をしかめる。どうやら自分ではわからないらしい。
「早めの証拠隠滅を推奨しておくよ」
ひらひら手を振って咎める意思はないことを涼は示した。
「渡辺先生」
やや低めの声が呼び止める。テノールだろうな、と涼は見当付けた。よく通る、悪くない声だ。
男子学生は躊躇いながらも口を開いた。
「おはようございます」
不機嫌ともとれるむっつり顔で挨拶。涼は内心首を捻った。
「……おはよう」
何故ここで挨拶? 時間帯を考えれば間違ってはいないが、状況的には少々変だ。しかしそれを追及する間はなかった。
「リョウ先生、校長がお呼びです」
英語教師の渡辺民子に呼ばれる。年は三十半ばだと聞いている。緩くカールのかかった髪。厚めにグロスを塗った唇には同性でさえ感じるほどの色気があった。同じ女性で同じ『渡辺』でこうも違うものか。渡辺涼が「リョウ先生」と呼ばれる理由がこの先生にあった。担当教科も学年も雰囲気も違う二人だが、苗字は全く同じ『渡辺』。紛らわしいのだ。
「ああ、はい。今行きます」
じゃ、と軽く片手を挙げて男子学生に別れを告げた。職員室へ向かう民子に早足で追い付く。朝の職員会議にはまだ早い。
「何かあったんですか?」
「ゆゆしき事態です」
民子は声を潜めた。
「私も学年主任に聞いただけなのですが、佐久間先生が、二年三組の女子生徒と──」
早いな。一週間でバレたよ。
もっとも、お互いしか見ていない二人だから例の一件のようなことを今まで何度もしていたのだろう。もはや同情の余地はない。完全に他人事だと思って涼は欠伸を噛み殺した。
職員全員の前で事実関係の確認と説明が行われると思いきや、涼が通されたのは校長室だった。一年半前に採用された時以来かもしれない。革張りのソファーも少ない賞状も相変わらずだ。違うのは机に座る校長の眉間に深い皺が寄っていることと、佐久間がいることだ。
「失礼いたします」
縋るような眼差しを送る佐久間を無視して、涼は校長に一礼した。
「何かご用で?」
白髪混じりの頭を困ったようにかいて、校長は紙を差し出してきた。
『佐久間先生ハ、二年の女子と交際シてイル』
脅迫状よろしく新聞の切り抜きを貼り合わせ、さらにコピーした手紙だ。差出人の名はない。
「これは、どこで」
「今朝机の上に置いてありました。教頭先生と学年主任の机にも同じものが置かれていたそうです」
「一体誰が、何のために」
「わかりません。それに今は犯人探しをする前に確かめなければならないことがあります」
校長は深いため息をついた。
「渡辺リョウ先生」
フルネームで呼ばれた時点で嫌な予感はしていた。校長は手紙を指差した。
「ここに書いてあることは本当ですか?」
ええ。真っ黒ですよ、校長。
頷く代わりに、違う言葉が口から飛び出した。
「何故私にそんなことを訊くのですか?」
「佐久間先生がおっしゃるには、あなたは彼と交際しているとか」
数秒。涼はその意味を真剣に考えた。
交際:人と人とが互いに付き合うこと。まじわり。
ちょっと待て。思わず隣に立つ佐久間に射抜かんばかりの視線をやったとて涼に何の非があるだろうか。こちとら彼氏イナイ歴が四年を迎えようとしている独身女だ。鑑賞室で密会したこともなければ、スタンウェイのピアノの前で抱きついたこともない。ましてや佐久間と交際した覚えなんか微塵もなかった。
(野郎……っ!)
歯軋りしたいのを涼はこらえた。よりにもよって隠蔽のために他人を巻き込むなんて。身勝手恋愛にも限度がある。
こちらを見る佐久間の目は祈るようなもので、哀れみよりも情けなさを誘った。
「お二人は交際しているんですね?」
確認する口調だ。ここで涼が洗いざらいぶちまけようものなら、佐久間だけでなく校長までもが卒倒しかねない。
涼は顔の筋力を総動員して表情を取り繕った。でなければ、激情に任せて喚きそうだった。
「……ええ、まあ……そう、ですね」
歯切れが悪いのは仕方ない。むしろ、ここまで理性的でいた自分を涼は誉めてやりたかった。
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