放課後

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 どれだけ天下が努力に努力を重ねようと、涼は彼の想いには応じられない。天下が問題なのではない。涼が問題なのだ。教師と生徒との恋愛のリスクを思う。それを差し引いても、自分を考える。不釣り合いだ。天下に応じるだけの価値が、自分にあるとは思えなかった。カップラーメンは所詮、カップラーメンなのだ。  でも――涼は不意に、琴音の声を聞いたような気がした。  私は好きよ、カップラーメン。  価値は人それぞれだ。故に芸術が成り立つ。たとえ自分が価値を見い出せなくても、他人が価値あるものと見ているものを否定することはできない。それは、ただの独善だ。  だから、涼自身が価値を見い出せなくても、天下にとっては違うのかもしれない。  渋々去ろうとした天下の右腕を涼は掴んだ。怪訝そうな顔をする天下。無視して涼は手を取った。歳下とはいえ男だ。筋張った手は涼のものより大きかった。 「先生?」  ボランティアだと思え。そう、大した意味はない。意味とか考えるな。事務的に。借りを返すだけだ。 「……どうした」  天下だって言っていたではないか「大したことじゃない」と。彼がしたことに比べればこれくらいどうというものではない。社交界では挨拶だ。 「俺の手に何かついてんのか?」  イタリア人よ、プッチーニよ、プラシド=ドミンゴよ、今だけ私に力を。 「おい、せんせ――」  涼は手の甲に唇を押しつけた。暖房の利いた部屋にいるにもかかわらず、触れた彼の手は冷たかった。つまり、自分はそれなりに熱いということだろう。  口を離して見上げれば、間の抜けた顔をしている天下と目がかち合う。 「……え…………あ、」  大きく見開かれた切れ長の眼。掠れた声が薄い唇から出る。 「先生、今――」  そこまでが限界だった。涼は教卓の上に置いたアライグマ印の消毒液を三回押して、天下の手にすりつけた。 「ちょっ、待て! どういうこったあっ!」  慌てて引こうとする天下だが、涼は逃さなかった。しっかり掴んで消毒完了。用済みとなった手を解放する。  消毒液まみれになった自身の右手を穴が開くほど凝視して、天下は悲痛な声を上げた。 「何だ今の……っ!」 「消毒です。雑菌がつくといけませんから」 「どこの世界にキスした直後に丹念に消毒する奴がいんだよっ!」 「二週間前に同じようなことをした馬鹿を私は知っているが?」  冷静に切り返せば天下は拳を震わせて項垂れた。 「……天国から一気に地獄に突き落とされた気分だ」  お気に召さなかったようだ。が、残り時間はあと三分。涼は天下の背中を押した。 「さあ満足したろう。帰れ」 「むしろ不満しか残らねえよ」  未練がましげに天下は右手をじーっと見つめていた。しかし消毒液の匂いしかない。幸いなことに涼は基本的にリップクリームで、口紅をしていなかった。 「全国模試で一位でも、もうやらない。二度とやらない」  全ての希望を断ち切るように涼は言ってのけた。 「先生」  それでもまだ諦めがつかないのか、扉をくぐっても天下は振り返った。眉間に皺を寄せ、自身の唇を指差す。 「後生ですから、こっちにしてくださいませんか?」 「帰れ」  涼は思いっきり扉を閉めた。
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