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二の球 流星の球
丘一面に生えた緑が、風にそよぎ足元をくすぐる。男の頬を涼しさが伝う。目の先には夜空。その夜空には今夜も白と黄の星が何十と滑っている。
流星群。
星の丘ジェイスには雲は滅多にかからず、高地からなのか空の高さからなのか、毎晩のように幾百もの流れ星を見ることができる。それでも、今夜は特別な日だ。これから三時間後、ジェイスでも四年ぶりの大流星群が控えている。その性か星の流れも人の動きも妙に慌ただしい。男は約束の丘の膨らみまで歩を速める。
そこには巨大な気球が立っていた。一部屋ほどもある大きさに、何台もの燃料タンクが備え付けられている。更には、氷を一杯に詰めた氷冷庫にジュースとワインが一式。星を題にした絵本が並んだ本棚。クッションの効いた二段ベッド。
「おいおい、ここらで一番高くまで飛べる気球を選んだはずだよ。何だい、この無駄な飲み物に読み物に雑貨の固まりは!
頬の弛んだ気球士は「ハハハハ」と笑う。
「そりゃな、ウチは何でも一番なのさ。高さでも楽しさでも快適さでも」
「俺は高さだけでいい。その為に貸し切りにしたんだ。無駄なものは、どけてもらおう!」
気球士は笑顔のままで
「いいのかい? お客さん? この世紀の繁盛記に。
今からじゃ、どんなに金を積んでも、誰もそんなワガママ聞いてくれないぜ。それに前金は返さないからな!」
男はポケットに手を突っ込みながら
「騙されたー」
と星降る天を仰いだ。
「騙してるもんか! ジェイス一番の飛行屋は確かに俺だ。最高に楽しい天体ショーを見せてやるぜ!」
恰幅のよい気球士は、どんと男の両肩を叩いた。
「任せろい!」
男はげんなりと
「任せました……」
街の夜景が眼下に広がると、深海の中の渡り鳥のような気分になる。そこに存在してはいけないような。
そんな心を鮮やかに浮かぶ八つのバーナーの青白い炎が、力強く元気づけていた。
「へぇ、なるほど、ジェイス一番の気球士ってのは伊達じゃなかったんだ」
「わかるんかい? お客さん。わかるもんかい?」
男は少しムキになって、それでも気球士への敬意を損ねることなく、
「いや、俺も花火使いで、火を扱ってるから、わかるよ。それぞれの配置、火力に、極限まで無駄がない」
「へえ」
夜空を一面の星が流れ始めた。
「意外なもんだね。花火使いさん。今回は流星の光を、球に詰めるんだそうだけど。やっぱりその絶妙な色合いが目当てかい? いや、星が描くそのシャープな軌道、かな?」
男はオレンジのジュースをグラスに注ぎながら
「んっ? 色も動きも模様も、どれも花火の方が上だよ。だからさ、今までどの花火使いも球に流星を詰めようと思わなかったんだろ」
今度は気球士がムッとして
「心外だな」
男は星を眺めながら続けた。
「でもさ、一つだけ到底敵わないものがある」
「それが、あれねえ」
「そうさ! 高ささ! 見上げても見上げても、空一面に流れる星。どんなに高く高く飛んでも見下ろすことが出来ない。俺の花火にもこの、高さ、を少しでもおすそ分けして欲しくてね」
「へー、またお客さん、大層なことを。ウチら、気球士だって、そんな新米のポエムなんて捨てちゃってるよ」
男は気にも留めず興奮した声で
「この流星みたいに、空一杯に巨大な花が咲き乱れるって凄いと思わないか! いやー、折角の五連式火銃、その一つをそんな球に使うなんて、無駄だって同業者には説き伏せられかけたけどね。子供の頃からの夢なんだ。譲れない。俺はやるよ」
天の流星の動きには代わり映えはないが、地上の街の家々は一つ一つ光を灯していて、その光景全体を一望できる高さにまで来た。
男はふぅっとポケットから球を出し
「これくらいが限度かな? 願わくば、もっともっと高けりゃ面白いんだけど。流石に俺だって現実を見るようになったからね。いや、良くやってくれたよ。これがベストだよ。あんた……ありがと……」
気球士は黙っていた。男はその伏せた顔を覗き込んで尋ねた。
「んっ? どした?」
気球士は目を細め、空を見上げていた。
「お客さん、子供の頃、夢を見るのは何も花火使いだけじゃないんですよ。俺だって、夢を見てた。何よりも誰よりも、天高く星に近づくって! だからこの仕事に就いたんだ。よしっ! 俺も根性を見せる! 付いてこいよ! お客さん!」
気球士は太い全身に力を込めた。男が脂肪だと思っていたそれらは、ぼんっと膨らみ、硬い筋肉の筋を浮きあがらせていた。
氷冷庫があった。
「やっぱ、星見ながらの冷えたロゼワインは最高だな! あれっ? おツマミないの? しけってんなー」
本棚があった。
「何やら、曇ってきましたね。私、本を読んでいますんで、晴れてきたらお声をかけてくださいね」
ベッドがあった。
「うん……なんか、ねみぃ。やっぱ夜ふかしは健康に悪いな。ちょっと仮眠するわ」
気球士は筋肉を隆起させ、氷冷庫を掴んだかと思うと、眼下に放り投げた。本棚、ベッド、テーブル、椅子、どんどんと放り投げた。
「よしっ、軽くなった」
止まっていた気球は、再度、浮かび始めた。一つ一つの丸い家の光は、小さな点の大きさになった。それも滲んで輪郭が曖昧になっていく。オレンジの灯の流砂。
「どうだい、この高さ? もっとかい?」
男は呆気にとられながらも喜びに満ちた声で答えた。
「クレイジー!」
次いで気球士は、燃料タンクに穴を開け始めた。一つ、二つ、三つ……全部。
「おっ! おい!」
流石の男も動揺し、駆け寄る。
「慌てるない! 無駄に重い燃料を放り出しただけだ!」
燃料は床の溝に沿って、外へと零れ落ち始める。
「そりゃ、帰りの分も無くなっちまうがな。なーに、こちとらパラシュートがある」
花火使いも気球士も大声で笑った。
「クレイジー」
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