天使ごっこ・成熟期

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天使ごっこ・成熟期

 リリーさんは天使というより女神という感じの人だった。  たっぷりした長い髪、潤んだ瞳、それにいつもとてもいい香りがした。  私は花に吸い寄せられるミツバチのように、リリーさんのお弟子さんになることに決めた。  リリーさんの周りにはいつも天使のように美しい男の子たちが取り巻いていた。  リリーさんのお世話はすべて、男の子たちがやった。  でも、リリーさんは優しいから、私を近くにおいてくれた。    ある日、私はリリーさんの家にお呼ばれをした。  お城みたいなお家かと思ったら、とても小さな古いお家だった。  平屋で錆びたトタン屋根には、漬け物石がいくつも置かれていた。  扉を開くと、玄関までゴミが溢れていた。  「驚いた?」  リリーさんは私の顔を覗き込んで微笑んだ。  「わかりました。リリーさん。このお家のお掃除をすればいいんですね。簡単です。あっという間に魔法できれいにしてあげますよ」私は言った。  「違うのよ、おちびちゃん。ここはこのままでいいの」  リリーさんはそう言うと、私のあごを引き上げて唇にキスをした。  私はどぎまぎした。    廊下にも部屋の中にも足の踏み場のないほど、コンビニ弁当やカップ麺の空き容器や缶チューハイの空き缶が散乱していた。  「さあ、どうぞ」  リリーさんはちゃぶ台の上のゴミをかき分けると、そこにお茶を出してくれた。  湯飲みのお茶碗は縁が欠けていて、茶しぶがたくさん付いていた。  「どう?驚いている?」  リリーさんは楽しそうに私の顔を覗き込んだ。  「はい。驚いています」私は言った。  「あなたって本当にかわいいわね」  リリーさんはまた私にキスをした。  私は恥ずかしくなって俯いた。  その時だった。  リリーさんの後ろで赤い布がチラチラと動いた。  リリーさんは私の視線に気づいて、後ろを振り返った。  リリーさんは立ち上がって後ろの襖を開けると、「この色魔め!」と中にいたおばあさんを怒鳴りつけた。  私はびっくりして飛び上がった。  おばあさんも目をぱちくりさせた。 「さあ、おチビちゃん。私のおばあ様を紹介するわ」  リリーさんはいつもの優しい声に戻って言った。  「こんにちは。おばあさん」  私はおばあさんが差し出してくれた手を握って握手をした。  途端におばあさんは私をせんべい布団の中に引き込んでしまった。  私が布団の中でもがいていると、リリーさんが容赦なくおばあさんのお尻を短いムチでぶった。  「ごめんさいね、おチビちゃん。おばあ様ったらすっかり色ボケしてしまって。でも、私にとってはかけがえのない家族なのよ。だって、私はおばあ様に育てられたんだもの」  リリーさんは涙ながらにそう言った。  リリーさんはドレスのようなすごく素敵な服を着ているのに、おばあさんは擦り切れた赤い長襦袢を着ていた。  家族って不思議だ。  「ねえ、おチビちゃん。私の特技を見せてあげましょうか」リリーさんが言った。  「はい。お願いします」私は言った。  私は少し頭がゆるいのでリリーさんからおチビちゃんと呼ばれているのだ。  リリーさんはゴキブリのような素早さで、カップ麺のゴミから残ったスープをお椀にかき集めると、そこにお湯を注いだ。  「さあ、おばあ様。松茸のスープですよ」  リリーさんはそう言って、おばあさんにお椀を手渡した。  「ああ、美味しいね。松茸のいい香りだ」  おばあさんはスープをすすると、歯のない口でにっこりと笑った。  「おばあ様はね、松茸のお汁が大好きなの。だから、私がカップ麺のスープを調合して、松茸にそっくりな味を作って差し上げてるの」  リリーさんは私の耳元でそう囁いて、頬にキスをした。  「本当の松茸を食べさせてあげればいいのに」私は言った。  「もう。わかってないのね、おチビちゃん。本物なんて、つまらないじゃない」  私はよくわからなくなった。  「でも、私なら魔法で本物の松茸スープを出してあげられますよ?」  「本物?魔法で出したものが本物だって言うの?」  リリーさんは驚いたように目を見開いた。   「ごめんなさい。わかりません。でも私、リリーさんのお役に何も立てていないので、せめてお掃除をさせてください」  私はリリーさんにお願いした。  「もうおチビさんったら、本当に。お掃除をしてしまったら、特製の松茸スープが作れないじゃない。ここにあるのはゴミじゃなくて、私の宝物なの。これは私にとって財産よ。魔法で人の楽しみを奪ってはいけないわ」  「ごめんなさい」  私の目から涙がこぼれた。  すると、リリーさんは私の唇を奪って、舌を入れてきた。  私は本当に何が何だかわからなくなってしまった。    それから間もなくして、リリーさんのおばあ様は亡くなった。  リリーさんはとても悲しんだ。  悲しみのあまり、リリーさんも病気になってしまった。  病院のベッドの周りを天使のような美しい男の子たちが取り巻いていた。  男の子たちは心配そうにリリーさんの顔を覗き込んでいた。  リリーさんは一人一人の男の子の手を取って言った。  「私は間もなく人魚のように声を失うの。でも、いいの。あなたたちに愛されて私は十分幸せだったもの」  リリーさんが真珠のような美しい涙を流すと、男の子たちも涙にくれた。  リリーさんの喉には腫瘍ができていて、手術で声帯を取らなければならないのだ。  「リリーさん、私が魔法で病気を治してあげられますよ?いえ、是非そうさせてください」  私は病室の隅からリリーさんに話しかけた。  リリーさんと男の子たちはチラリと私を一瞥すると、またひそひそ話しに戻っていった。  リリーさんは美しい声を失った。  しばらくは天使のような男の子たちと筆談をして、人魚ごっこを楽しんでいたけれど、それに飽きるとリリーさんはあっという間に病気を全身に広げてしまった。  再び、天使のような男の子たちは悲しみに暮れた。  男の子たちは、リリーさんの看病を懸命に続けた。  男の子たちは、リリーさんのために祈りを捧げた。  男の子たちは、リリーさんの手を取って励まし続けた。  不思議な治療法を見つけてきた男の子もいた。  だけど、リリーさんの病気は一向に良くならなかった。   「あの、私が魔法で治しましょうか?」  私は誰にも聞こえないように小さな声で言ってみた。  もちろん、その声は誰にも聞こえなかった。    こうしてリリーさんは白い煙になってお空に登っていった。  私はとても悲しかった。  リリーさんのことが好きだったからだ。  残された男の子たちの悲しみようもなかった。  天使のように美しい顔はげっそりと痩せてしまった。  私はかわいそうになって、男の子たちに声をかけた。  「私が魔法で、心の傷を癒してあげましょうか?」  男のたちは口々に言った。  「そんなことより、僕を慰めておくれよ」  男の子たちは私の体にのしかかってきた。  私は苦しいやら、気持ちいいやらで、お空に向かって大きな声を上げた。  天使のお仕事ってやっぱり大変、と私は思った。
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