些細な親切はアヤカシを招く

2/4
17人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ
「いらっしゃい、いらっしゃい。新しい酒が入ったんだよ、今日の宴会に一本どうだい?」  元気よく店先で、客に対応しているのが、月岡がつとめる酒屋「白陽酒店」の店主、白石だ。元は夜羽(よはね)の国の南方都市、冬月の造り酒屋の息子である白石は、自分の家の酒を国全域に広げたいと、北方都市「春坂」まで来て、酒を売っている。紫辺山脈から連なる紫木川の名水と、豊かな穀倉地帯で育てられた米は酒としては絶品だった。それに客あたりがうまい白石の接客だ。店の売り上げは上々だった……。 「結構買ってもらったわ。万々歳だ」  眼鏡をかけた白石は上機嫌で自分の元へと近づいてくる。領収書を受け取り、月岡は小さく笑った。 「さすがですね、店主」  月岡の態度に白石はいやいやと言わんばかりに、手を横に振る。 「いやいや、お前さんのおかげでもあるよ。いい加減、ここの番頭にでもならないか。というか実際、お前は仕事をしすぎだ」  月岡は白石の店の店員となっている。しかし計算が苦手な白石の代わりに経理を請け負っているし、かといって入荷や、客の元への出荷作業などの力仕事も精力的に行っている。白石からすれば働き過ぎなのではと心配になるくらいなのだ。 「お前に何かあったら、ウチも困るし。それに誰も看病してくれないだろう」  月岡は十年前に妻を亡くして以来独り身だった。 「確かにそうですが……しかし、私もやれることはやりたいのです」 「だが……」 「それよりも店主。寄合での飲み代として出された領収書、ちょっと金額がおかしくないですか?」 「え、あ……」  それまで一生懸命月岡に話しかけていた白石の視線が、いきなりそれた。 「おなご遊びをしたんでしょ」  白石は好青年である。自分より年は十も若いがよくやっている。商売も上手い。人付き合いも上手い。しかし……。  月岡はじっと白石を見つめる。 「ああああ、すまん許してくれ……!」  どうしようもなく女が好きだった。仕事でも、美女の客には割引を大きくしてしまうのが、悩みどころだ。 「私のことより、己のことを心配してください。今日はご実家から、お兄様もいらっしゃるのでしょう」 「そう、そうなんだ……新作の酒を持ってくるとか言って! 私を見定めるんだ。あの堅物兄貴はっ」 「私は悪くは見えないのですけどねぇ」  年に一度、白石の家から兄の善一郎が様子を見に来て、しばらく滞在する。白石はそのために女遊びを控えなければいけなくなり、みるみる痩せていく時期だ。 「あああああぁ」  頭を抱えて伏せる白石。月岡はさすがに追い込まれすぎなのではと思っていると、店ののれんを誰かがくぐってきた。 「いらっしゃいませ、いかが……」  月岡の口が一瞬強ばる。しかしすぐにいつもと変わらない笑みを浮かべた。 「鈴木様でしたか、お久しぶりです」 「ああ……少し酒を頼みたいと思ったんだが」  月岡は白石を見た。 「店主、お客です。ご対応を」 「へっ。あ、はい! 鈴木様じゃないですかっ。今日はどうなさりました」 「ああ、今度読書会があってね、その後に少し宴をと……」  白石に説明しながら、鈴木はチラリと月岡を見る。月岡はその一瞬の視線に気づいていたが、あえて何も言わなかった。接客自体は白石ほどでなくても月岡でも出来た。けれどどんな客の中でも月岡は鈴木が苦手だった。彼が陽日(ようじつ)の民だったから。彼自身が何かをしたわけではない。ただ嫌な気分になる。 「是非とも! どうか暁善(ぎょうぜん)の物語をまた教えてください」  月岡の心持ちをよそに、白石の明るい声が、店内に響き渡った。  白石とその兄、善一朗の酒席に、月岡が同伴する必要はなかった。しかし白石から二人きりにしないでくれと懇願されたし、店に到着するなり善一朗は「ああ、君も来るんだろう。月岡君」と言われてしまったら、断ることも出来ない。月岡は善一朗と白石の間に座り、そろそろと酒を飲むことになった。  冬月の地で出来たという新作の酒は美味かった。香りが良い、味が良い、色々と褒めどころがあるのだが、飲んだとき、酒でかっと体が気持ちいいほどに熱くなり、これほど気分が高揚することはないだろうと思った。  月岡の表情を見て、完全にグロッキー(先ほどまで陰で、女遊びの説教を受けていたからだろう)な白石も酒を口に含む。みるみると表情が晴れやかになっていく。 「うわっ、これ、美味いっ。それに魔法みたいに、ちょうどいい!」  飲んで味を感じた瞬間に、感じたことがないほどの高揚感があるのだ。白石の気分の高調には納得できた。善一朗は小さく、しかし手応えを感じているような笑みを浮かべる。 「ああ、陽日の民である技術者が、うちに来てくれてな。まぁ杜氏と協力して、酒造りをしてもらったんだ」  白石は目を大きくして頷いた。 「ああ、安定した酒のうまみに、驚きがある。これは売れるぞ!」 「売り込みなら、お前の方が才はある。どうだ、これを今年の売りにしてみては」 「そうする、これは本当にいい!」  何だろう、本当に美味い酒だった。酒は好きだが、仕事柄、夜羽の酒は飲み尽くしていた。だからどんなものが来ても驚きを感じることはなかった。だがこれは夜羽の、それも酒の一大産地である冬坂の酒であるのに、月岡の知っている酒を「飛び越えた」のだ。まさに暁善という大国で醸造された技術のたまものであった。夜羽の国では暁善に叶わないという証明のようであった。これほど素晴らしいものが生み出されるから、彼女は行ってしまったのだろうか……。陽日の民は直接、月岡に何かをしたわけではない。むしろ異国である夜羽で、こうして美味い酒を造ってくれる。  ああ、それでも、苦手だ……月岡は酒に感嘆してると見せかけてため息をついた。 「ただ、驚いたことがあるんだ」  善一朗は鳥のささみを口に食んで、言った。 「驚いたことですか?」  月岡が頭を傾げると、善一朗は小さく頷いた。 「いや、陽日の民の技術者のことなんだが……彼は酒精が見えないようなんだ」 「酒精を? まぁ俺も子供の頃に見たっきりだから、アレだけど……まったく見えないのか」  白石が口を挟むと、善一朗はおちょこに入った透明な酒を見ながら、相づちをうつ。 「ああ、あちらではアヤカシという存在は、本当にとうの昔に消えてしまったんだなと思ったよ」 「話に聞くだけですが、暁善という国では表現規制が激しく、アヤカシなどの民話の類いも消されているとか……」 「私も最後に見たのはいつだったかと思うが、それでもアヤカシが見られなくなった世界とは、少し寂しいモノだと感じるよ月岡君」 「そうですね……」  ……酒蔵で、酒を貯蔵し熟成された過程で、酒精というアヤカシが湧くという。白いほわほわとした綿毛の様なアヤカシで、熟成している酒の樽の周りをふわふわと舞っている。特に何をするわけではないのだが、他でその姿は見られず、酒の樽の周りにだけいる。その酒精が特にいる酒樽は、絶品になりやすいと言われていた。  アヤカシは夜羽の国では一般的な存在だ。誰しもが、いつまで見られるか年齢差はあれ、見ることが出来る。かつては一つの国であった暁善にも同じ存在があったのだが、いつのまにか姿を消してしまったようだ……。  アヤカシは幻想の中にいる。幻想を信じられなくなってしまったら、夜羽も同じになるのだろうかと、月岡は思った。  酒の味がびりびりと感じる。今し方、ぐいっと飲んでしまったからだろう。頭の奥がずんと重くなった。でも、自分でこんなに入れただろうか。  ああ、何でだ……と思ったら、酒の美味さで調子に乗った白石が、おちょこにぐいぐいと入れてくる。白石は自分の立場を自覚していないが故に、たちが悪い。これは飲まなければいけなくなってしまうだろうに。 「店主……少しわたひは……」  舌が回らなくなってきた……なんという恥ずかしさ……月岡は顔を伏せたくなった。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!