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亮治は音を立てずに起き上がり、おそるおそる壁と手すりに隠れて、踊り場を見た。角度的に真人の斜め後ろの姿だけが、視界に入る。
付き合っている人がいるから、と真人はあっさりと振られていた。ダメもとだったらしい。謝る彼女に「気を遣わないで」と言って明るく振る舞っていた。
その夜、亮治が風呂から上がると、リビングで本を読んでいた真人が「松井さんって、兄さんの彼女だったんだ」と言ってきた。バスタオルで顔を隠すように「あー、うん」と返すと、真人は「知らなかったから、告白しちゃったよ」と笑った。
「いい子だね。僕のこと、自分の彼氏の弟だって絶対知ってたはずなのに。そういうことを、一切言わなかった」
真人は本に目を落としたまま言った。「俺の彼女だって知ってたら、コクってなかった?」と訊くと、真人は本から顔を上げた。そして眉をハの字にして笑うと、こう言ったのだ。
「まさか。言ってたよ。兄さんには悪いけど」
と。
亮治が不思議そうな顔をしていたのだろう。真人は続けた。
「相手に伝えないと、無かったことになりそうじゃない。そう考えた時に、思ったんだよ。それはちょっと嫌だな……って。無かったことにはしたくないなって」
脱衣所から出て行く真人の足音で、亮治はハッと我に返った。どうして当時のことを、今になって思い出したのか――。それは、ただ、あの時に見せた笑顔と、今さっき自分に向けた笑顔が似ていたというだけではないような気がした。
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