姉さんのハサミ

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 姉さんなんてきらいだ。  いなくなっちゃえばいいのに。  そして、姉さんはいなくなった。 「ほら、座って座って」 「動かないで。曲がっちゃうよ」 「練習なんだから、ちゃんとしてよ」  髪が伸びる度にベランダに座らされ、練習に付き合わされた。「変な髪型」と言われたのも、五度や十度ではきかない。  七つ年上の姉は、中学を卒業して美容師の専門学校に通うずっと前から、僕の髪を切り続けてきた。最初に切られたのは、僕が生まれて間もない頃。その時、小学二年生だった姉は、母親がちょっと目を離したすきに、僕の頭をまだら模様にして怒られた。そんなことが三回続いた末、どうせやめないのなら、わたしの見ている時にしなさい、という母親の提案に落ち着いた。 「なにそのかみのけ」 「うしろあたま、ぜんぶ首だよ」  三年生の学芸会の直前のことだった。汗っかきの僕を見かねた姉さんが、客席からの見た目を変えずに涼しくするには、ということで考えた髪型だった。姉さんの散髪には、いつでも姉さんなりの理屈があったし、だからこそ僕はいつでも納得して切ってもらえていた。ただ、みんなはそういうわけにはいかない。その時の学芸会の発表は、歌も演奏も散々だった。僕の後頭部に釘付けになったクラスメイトが、ずっと笑いっぱなしだったからだ。  姉さんの散髪を――いや、姉さんことを嫌がるようになったのは、六年生の時だ。小学校最後のバレンタインを前に、早々と思春期に片足を突っ込んでいた僕は、一生懸命前髪を伸ばしていた。姉さんが、食事の時もテレビを見ている時も、その前髪をちらちら見てるのは知っていた。 ――絶対に切られる。  姉さんは既に専門学校に通っていて、僕の髪なんか切らなくても、毎日毎日飽きるほどハサミを使っていただろうに、それでも姉さんは僕の髪を狙い続けていた。  二月になって一週間が過ぎた頃、学校ではマラソン大会が開催された。男子にとっては最後のアピールタイム、女子にとっては品定めの大会だ。ゆるゆると最後尾集団を守りながら、小声でこそこそ話をする女子の視線を感じながら、全力を尽くして背中で魅せる。その日に向けた一週間は、遊びもいたずらもそっちのけ。走り込みに次ぐ走り込みで、連日、疲労困憊だった。マラソン大会当日は、文字通り、すべてを出し尽くし、家に帰った後まで、緊張感や警戒心を持続する体力は残っていなかった。  気が付いたら、リビングのソファに寝そべっていて、テレビではアイドル歌手が躍りながら歌を披露していた。体を起こした僕は、視界が妙に広いことに気が付いた。恐る恐る、生え際に手をやると、収穫後の畑のように、大切に育てた作物が刈り取られた痕跡だけが残されていた。  とっさにカレンダーを見たのは、あと三日後に迫ったバレンタインデーの日程を確認しようとしたからではなく、卒業式までの日数を知りたかったからだ。ちょうど四週間。それが僕の前髪に残された猶予だった。  絶望した僕は、何かを叫びながら家を飛び出した。疲労も苦悩も、何もかも振り払うように、走りに走った。髪は風になびかず、額で感じる外気に、体も心も凍りついていった。  翌日から学校を休んだ。四十度近い高熱で、姉さんのハサミの幻覚を見てうなされた。  バレンタインの日には、三十七度まで熱は下がっていたが、とても学校に行く勇気はなかった。部屋のベッドで眠れないまま、ホワイトデーの妄想をもてあそんでいると、夕方になって外でポストが閉じる音がした。毛布をはねのけて窓を開けたが、既に立ち去った後。僕は慌てて階段を駆け下り、外に飛び出してポストを開けた。  中には小さな箱が一つ。水色の包み紙に黄色いリボンがかかっていて、リボンの端がハートのシールで留められていた。下がりかけていた熱が一気に跳ね上がる。マラソンでゴールテープを切った時とは比べ物にならないほど、動悸が激しい。慎重にシールを剥がし、リボンを引っ張った。包みを止めるセロテープを外すと、中からは茶色い小箱と、小さな手紙が出てきた。二つ折りになった手紙を開くと、中から何か黒いものがパラパラと地面に落ちた。文面に目を走らせると、 「マラソン大会、二位、おめでとう。髪型、似合ってるよ」 と、見覚えのある字で書かれていた。何が落ちたのか見るまでもない。僕はリボンと包み紙と小箱を一緒くたに丸めると、玄関の扉に投げつけて、そのまま走り出した。熱がまた上がって、そこから三日間、入院した。  姉さんは、その日以来、僕の髪の毛に手を出さなくなった。  中学に上がると、かっこいい先輩はみんな髪を長くのばしていた。僕も同じグループに入って髪を伸ばした。色も変えて、先生からの呼び出しもしょっちゅうだった。家で姉さんと顔を合わせる機会は減っていたが、たまに会うと、僕の頭を見て何か言いたそうにしていた。僕は姉さんが何か言いだす前に、ひどく乱暴で汚い言葉を投げつけて、部屋に引っ込んだ。制服のままベッドに寝転んで、小六のバレンタインデーの恨みを吐き出し続けた。 「姉さんなんてきらいだ。とっとと、この家からいなくなっちゃえばいいのに」  中三の夏、姉さんはいなくなった。  母さんに聞いても父さんに聞いても同じ答えだった。 「あの子のすることが分かるわけないでしょ」 「ろくでもない男にくっついて、ろくでもない人生を送るんだろうさ」  僕は姉さんの部屋に入った。姉さんは意味のないことはしない。  小学校の卒業式、前髪を伸ばして気持ち悪がられている仲間たちをよそに、スポーティな短髪を姉さんのワックスでツンツンに立たせて、女子と一緒に写真を撮りまくっていたのは、他でもないこの僕だ。その結果、友人関係がこじれて、悪い友達と付き合うようになったとしても、それは姉さんの責任の外の話。僕の度量の狭さのせいだ。  姉さんの部屋には、荷物らしい荷物は何もなかった。タンスの中も、机にも、姉さんの痕跡らしいものは何もなかった。ただ一つ、机の引き出しの中に、ハサミが残されていた。美容師を目指していた姉さんが、その道具を置いていくはずがない。手に取ると、汚れも曇りもなく、刃の開閉も滑らかで、完璧なまでにメンテナンスされた状態だということが、素人の僕にもわかった。 「なんで女子って、失恋すると髪切るんだろ」  そう聞いたのは、五年生――僕が初めて女子を好きになった時だった。 「美容師っていうのは、髪を切るだけの仕事じゃないんだよ。その人を、生まれ変わらせることができる仕事なんだ」  誰もいないはずの部屋に、姉さんの声が響いた気がした。  僕は、無意味に伸ばしてきた真っ赤な髪にハサミを入れた。
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