1人が本棚に入れています
本棚に追加
【十歳の夏】
僕は生まれてから小学校を卒業するまで、父方の実家で暮らしていた。
田舎という言葉がとても合う、そんな場所は、別荘が建ち並ぶ避暑地でも有名な場所で、父の祖父の代からとある金持ちの別荘管理をしていた。
毎年使われるわけでもないその別荘を、いつ持ち主が来ても使えるようにしておくのが仕事だとか。
ここ数年、その持ち主は来ていない。
去年は経営している会社の社員に貸したらしく賑わっていたのだが、今年の夏は誰も来ないで終わると思っていた、八月の後半のこと。
その別荘の持ち主がやってきた。
ひとりの小さな女の子を連れて――
「ちょっと、タケ。宿題しないで遊んでいるんなら、ちょっと加賀様のところまで、この野菜届けに行ってちょうだい!」
母の拒むことは許さないわよ――的に言われた言葉で向かったのが、僕の残り少ない夏休みを変えることになる。
高台に建つその別荘は洋式で、地元でもちょっとした有名な場所だった。
僕は今まで間近で見たことはなく、だんだん近づくその実体に心臓はバクバクとして興奮が止まらない。
そんな僕の高まりを静めたのが、中で流れる曲。
その曲が開けた窓から流れて聞こえてくるのだ。
なんて曲だろうか。
心なしか、自然と足取りが軽くなるような、知りもしないのに鼻歌を歌いたくなるような、そんな曲だった。
当然、自制というものが薄い子供、興味を持ったものにたいして好奇心は止まらず、母親に言われた用事をすっかりと忘れ、音のする方に興味津々となる。
背伸びしてやっと中を覗ける位置に窓がある。
その窓枠にしがみついて中を覗きこんだ。
部屋の中央に白いワンピースを着た女の子いる。
その子がここの持ち主の孫だと、すぐにわかった。
こんな田舎にはいない白い肌に、細くて長い手足は同じ国の者とは思えない。
目鼻立ちがしっかりとしていて、となりのおばちゃんが言っていたように、どこかのアンティーク店で見たフランス人形みたいな子だ。
その真向かいに、老いてはいるがまだ凛としたものが漂う男性がいる。
この人が所有者だろうと直感した。
とても品のある風貌に、僕は自分のじいちゃんと無意識に比べていた。
日に焼けた黒い肌に、がさつな性格。
そんなじいちゃんの息子の父は、しっかり親のそういうところの血を受け継いで、よく言えばおおらか、悪く言えばがさつもがさつ。
いい加減ともいうような性格をしている。
まだ背の低い女の子の視線に合わせるよう屈んで、おじいちゃんらしい男性は手を差し出す。
その手を取る前に軽くお辞儀をした女の子。
はにかむような笑みが、僕に向けられてもいないのにドッキリと突き刺さったのは言うまでもない。
女の子が相手の手の上に、自分の手を添えると、また曲が流れ出し、背中に羽が生えているように軽いステップを踏み始めた。
僕はただその光景に見とれる。
背後に人が近づいている足音に気づくことなく。
「そこの、坊主」
そう声をかけられても、最初はまったく気づかなかった。
肩を叩かれ、耳元近くで言われてやっと現実に戻る。
直接の使用人なのか、険しい顔で見下ろされてしまっていた。
「なにを覗いている?」
大人に上から見下ろされるということは、子供からしたらかなり威圧的効果がある。
僕は正直、半分泣いていたのかもしれない。
上ずる声でやっと出た言葉といえば――
「あの、この野菜――」
だった。
籠に盛られた野菜を差し出しやっと理解されたようで、険しい顔が緩み、僕の目線にまで上半身を屈ませて頭を撫でられた。
「なんだ、三浦さんとこの坊主か。お母さんの使いか? 偉いな。だが、今度から届け物は裏口から入って、台所に置いておいてくれ。こっちだ、ついておいで」
まだ少し心残りのある、背中で聞こえる音楽と、それに合わせてステップを踏む女の子。
少しだけ後ろ髪引かれる思いで、目の前をあるく大人についていった。
「私は加賀家にお仕えしている鈴木という。旦那様のお世話が殆どだ。家内が食事の世話、お嬢様の世話をしている。用向きがあったら、私か家内に言うようにしてくれ」
説明をしてくれている鈴木というこの使用人のおじさん。
こうしていると、普通にいい人だ。
もし、音楽に惹かれることなく、普通に裏口に行っていたなら、第一印象も違っていただろう。
用がある時は裏口から。
それは基本で、今日のようなお使いは始めてだけれど、僕は知っていた。
知っていたのに、寄り道をした僕がやはり悪い。
だけど、裏口から台所まで案内されると、ご苦労様と言われ、冷たい麦茶を出してくれた。
結局、怒られることなく、どちらかというと親の手伝いをして偉い子供という印象を、この鈴木さんに与えたようだった。
それから、一日一回野菜を届ける仕事は僕の日課となる。
そしてこっそりと横目で見ながら通るのだ、あの部屋の前を。
これも、日課となっていた。
そんなある日――
「君が、三浦さんところの健(たけし)くん?」
僕から見れば、一日に一度は姿を見ていた、この別荘の持ち主の男性。
この別荘の持ち主が目の前に立って、僕に声をかけてきた。
黙って見ていたのがバレたのか――?
緊張で、咽喉から何かが出て行きそうな感覚に悩まされながら、僕は首を縦に振るのが精一杯だった。
「おお、そうか。健くんのお爺さんとは長い付き合いでね。うんうん、どことなく小さい頃のお爺さんの面影がある。ちょっと時間あるかね?」
じいちゃんと似ていると言われ、プチショックな僕はそのまま何も考えずに首を縦に頷いてしまう。
なんで呼び止められたのか、理由も聞かずに、僕はこの主に誘導され別荘の中へと入ってしまったのだった。
「適当に座っていていい。おい、誰か。冷たい茶と菓子を二人分持ってきてくれ」
部屋の廊下に顔を出し、少し大きな声で用を申し付けると、どこからかわかりましたと女性の声が響いた。
きっとその声の持ち主が鈴木さんの奥さんなのだろうと、推測する。
ここに来てまだその奥さんとは顔を合わせていない。
だいたいの対応を鈴木さんが、中の事を奥さんがという分担らしい。
旦那様と二人っきりの重く緊張する時間は、しばらくしてから届けられた茶と菓子の存在で少しだけ和む。
「いや、ちょっと参っていてね」
そんなで出しで旦那様の話が始まった。
「実はこの菓子。孫の手作りなんだが、なかなか思ったように出来ないらしく、その残飯処理を私と鈴木夫婦で担当なんだが、そろそろ限界でね。君が毎日野菜を届けていると聞いて、健くんみたいに若い子なら、食欲もあっていいかと思って」
勧められた菓子は、クッキーというちょっとしゃれた代物で、世間的には一般的で庶民にも手軽に口に出来るらしいが、こんな田舎じゃ洋菓子より和菓子が好まれる。
というか、年寄りも多い田舎では、洋菓子より和菓子が重宝される。
そんな環境で十年過ごしてきた僕だ、目の前に出されたクッキー、少しばかり形が不細工だったり、焦げ目があったりしても、高価に見えて仕方がなかった。
「あの、いいんですか?」
実際、少し小腹も空いていた僕は、いま一度確認をしてから、手を伸ばして口の中に含む。
ちょっと焦げた苦味もあったけれど、それなりにおいしい。
「――美味しいです」
そう口から出たのはお世辞ではなく、かなり素で偽りのない褒め言葉だった。
「そうか、そうだよね。素人が作る菓子にしては上出来だと、健くんも思うだろう?」
旦那様の孫って、あの小さな女の子――のはず。
あの年頃でこんなお菓子を作るという方が偉いと、僕は思う。
だって、隣りのおばちゃんの娘、今年小学校にあがったのと大して変わらないじゃないか。
その娘が料理をしているなんて、聞いたことがない。
だから旦那様の同意を求める言葉にも、素直に頷いた。
すると、いつの間にかあの女の子の姿が部屋の中にあった。
僕はその女の子に目を奪われる。
こんな間近で見れるなんて。
近くで見れば見るほど小さくて細くて色白で、人形のようだった。
「ほら、私の言った通りだっただろう、舞」
女の子は舞と呼ばれ、チラッと僕の方を見る。
小さな口がゆっくりと動いて、
「本当に?」
と、しゃべる。
「うん。本当に美味しかった」
僕は有頂天寸前の舞い上がりで、そう答えた――と、思う。
実際のところ、なんて答えたかなんて覚えていない。
少し後になって、聞かされたのだから。
だけど、とても嬉しそうに笑った女の子の顔だけは、はっきりと覚えていた。
「それで、健くん。もうひとつ頼みがあるのだが」
残飯処理を手伝ってくれ――のほかに、もうひとつあるのだと、今度はかなり改まって言われる。
「はあ……なんでしょう。僕に出来ることなら」
と、言うより仕方ない状態。
それ以外の選択肢はない。
なぜなら、僕よりも裕福な人が下の者に手伝いを頼むなんてまずないといってもいい。
そもそも使用人の鈴木さんがいるのだから、それで事足りているはずなのである。
しかも、大人ではなく子供の僕に手伝えることなんて、たかが知れているといってもいい。
まあ、この時は子供だったんで、たかが知れているものもかなり限定されている。
それでもそう答える以外の選択肢はないと思ったのは、もしその手伝いを受ければ舞って子ともっと近づけるかもしれない、なんて子供なりに打算したからだ。
「その、自由になる時間はあるかね?」
「まあ、それなりに。だいたい野菜届けに行った後は、適当にぶらついて帰っていますし」
それは嘘ではない。
バカ正直に帰ってしまったら、またいろいろと手伝わされるに決まっている。
「その適当にぶらついている時間を、舞の為に費やしてくれないだろうか。もちろん、お礼はするし必要なら私から健くんのお爺さんに話そう」
かなり重要なことなのか、じいさんの許しまで取り付けてくれるという。
時間はあると言ってしまってよかったのだろうか。
舞のために……となれば、彼女との接点が増えるのは嬉しいが、じいさんの許しまでとなると、早まった返答をしてしまったのかもしれないと、わずかに身体がこわばっていく。
「なんですか?」
と、おそるおそる聞き返してみる。
「ああ、ちょっと舞の相手をしてほしくてね。舞のダンスの練習相手。私だとどうしても身長差がでてしまって、ダメなんだよ。舞はおっとりしてそうに見えて、結構な完璧主義者でね。そのクッキーを見てもわかるだろうが、向上心豊かというか。頼まれてくれないだろうか?」
まさかのまさかだ。
田舎の子供に洒落たダンスの相手をさせようなんて、この暑さでどうにかなってしまったのではないだろうか?
いや、それ以前に、ダンスの相手と知ってもなお、断ることなく引き受けてしまった僕の方が暑さで正しい判断ができなくなっていたのかもしれない。
身分の差もさることながら、ダンスなんて別次元のもの、どうやって相手になれと?
それでも僕は舞との接点がほしいという欲が勝り、引き受けることになる。
結果、旦那様のその一言が、僕の残り少ない夏休みを大きく変えることになった。
最初のコメントを投稿しよう!